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二、フィリピンの農地改革

フィリピンの農地改革について、1955 年土地改革法、1963 年農地改革法、1970 年 代のマルコス327政権の試み、1988 年の包括的農地改革計画、ラモス328や大衆主義者の エストラダ329の指導によって土地制度の見直しが継続的に行われたが、不平等に対処 することはできなかった、とデイビッド・J.スタインバーグ(2000)は指摘する。330 また野沢勝美(2000)では、フィリピンにおける農地改革について、スペイン植民 地下で形成された大土地所有制は、フィリピン経済・社会の宿痾(シュクア)である。「土 地は耕すものに帰属する」との原則に立った農民への土地配分は農地改革の基本政策 である、と述べている。331

戦後フィリピンの歴代政権は一様に独自の農地改革計画を掲げてきた。フィリピン における農地改革の本格的展開は、マルコス政権の戒厳令布告の翌月、1972 年 10 月 発行の大統領令(Presidential Decree=PD)第 27 号農奴解放がはじめである。PD27 号 はコメとトウモロコシ小作農地を対象とし地主の保有限度を7ha とした。この計画は 実行を見ないうちにマルコス政権が崩壊した。そして、アキノ政権332の包括的農地改

326同上掲注、鶴見良行(2008)、pp.145-146・p.152

327Ferdinand Edralin Marcos (1917-1989)、フィリピン大統領在任 1965-1986 年。1972 年、戒厳令を布告 して独裁体制を確立したが、1986 年に失脚し、アメリカに亡命。

『デジタル大辞泉』小学館「マルコス」

328Fidel V. Ramos (1928- )、フィリピン大統領在任 1992-1998 年。ラモスの業績は三つの分野にまたが っている。第一に、フィリピンの急速なNIES(ニーズ)(新興工業経済地域)入りを目ざす「フ ィリピン2000」構想を掲げ大胆に経済自由化・規制緩和・開放政策を推進し、就任時にはゼロ成長 であったフィリピン経済を4 年間で国内総生産(GDP)6%台まで成長させたこと、第二に、貧者 への配慮・よき統治・環境保全などの「社会改革アジェンダ」を設定、そして第三に、国軍右派、

共産ゲリラ、イスラム分離主義という三大反体制勢力との和解交渉を推進したことである。

ジャパンナレッジ『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ラモス」

329Joseph Estrada(1973 - )、フィリピン大統領在任 1998 -2001 年。通称“エラップ”。映画俳優(アクシ ョンスター)、映画監督から政治家に転進。“貧困者の味方”として期待されたが、不正賭博・上納 金問題や汚職問題で弾劾され、2001 年 2 月の“ピープルパワー・EDSA2”で失脚。

TIP フィリピン通信「風は風のように」・フィリピン歴代大統領 http://www13.ocn.ne.jp/~tip/president.htm

330同上掲注、デイビッド・J.スタインバーグ著、堀芳枝等訳(2000)、p.59

331野沢勝美 (2000)〈フィリピン農地改革と協同組合 -西部ビサヤ地方西ネグロス州およびイロイロ 州の事例を中心として〉《亜細亜大学国際関係紀要》9(1/2)、亜細亜大学、p.176

http://ci.nii.ac.jp/els/110000539987.pdf?id=ART0000932178&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&p pv_type=0&lang_sw=&no=1270752902&cp=

332Corazon Aquino(1933-2009)、フィリピン大統領在任 1986-1992 年。1972 年上院議員の夫が政敵のマ ルコス大統領によって反逆罪で投獄され、1980 年に一家でアメリカに亡命した。1983 年夫は帰国 しようとマニラ空港に着いたところで暗殺され、これを契機に夫の遺志を継いで政治活動に入る。

革計画はこれらの総仕上と位置付けられており、ラモス、そしてエストラダ政権はこ の達成を促す政策を講じてきた、とも野沢勝美(2000)は指摘する。333

包括的農地改革計画は、実現のために長い歳月を要したが、それを契機に多国籍企 業とフィリピン・バナナとの係りが徐々に変化を遂げている。中村洋子(2008)を中 心に、包括的農地改革計画の遂行について述べる。

(一)包括的農地改革計画の成立

1988 年 6 月 15 日、アキノ政権の下で「包括的農地改革計画(Comprehensive Agrarian Reform Program 、 略 称 CARP )」 が 成 立 し た 。 そ の 目 的 は 「 包 括 的 農 地 改 革 法

(Comprehensive Agrarian Reform Law、略称 CARL)」第一章第二章に記されているよ うに、「農民および農業労働者に、彼らの尊厳の向上と生活の質の向上の機会を与え る」ことである。マルコス政権下の農地改革と異なり、CARP では、(1)米・トウモ ロコシ以外の作物栽培地も土地接収・分配の対象となる(CARL 第三条)、(2)小作 農だけではなく、農業労働者も受益者となりうる(同法第三条)、(3)多国籍企業の 経営する農園も対象となる(同法第八条)とされた。そのためアメリカ系多国籍企業 が中心となって開発してきた輸出用バナナプランテーションも、今回初めて農地改革 の対象となり、そこで働く労働者も農地改革受益者となる資格を得たのである。334

1986 年 2 月 25 日の政変、いわゆる「民衆の力革命(People’s Power Revolution)」に よりマルコス政権が倒れ、民主化の期待を担ってアキノ政権が誕生した。アキノは 1986 年 1 月 16 日、大統領選挙キャンペーンの中で土地改革を公約していた。335

アキノ政権は地主の保有限度面積および農地改革順位を国会の立法に一任した。つ まり、アキノ政権が 1987 年の議会招集に至るまでに、行政命令により農地改革を実 施する権限を有していたにもかかわらず、それを実行せず、地主層が大半を占めると 予想される議会に、農地改革の命運を委ねたということを意味している、と中村洋子

(2008)は指摘している。336また実際に、農地改革法案が議会に上程されてから九〇 日で法制定に至るはずが、審議だけで一年もかかり、ようやく 1988 年 6 月 10 日に、

1986 年大統領選挙に立候補し圧倒的な「ピープルズ・パワー」(人民の力)に支持されて当選、マ ルコスを倒して大統領に就任した。1987 年新憲法を実施し、1987 年その新憲法下での上下院選挙 で圧勝したが、農地改革など根本的な政治改革を果たせず、同政権は7 回もクーデターの危機にみ まわれた。

ジャパンナレッジ『日本大百科全書(ニッポニカ)』「アキノ」

333同上掲注、野沢勝美(2000)、pp.175-176

334同上掲注、中村洋子(2008)、p.115

335同上掲注、中村洋子(2008)、p.116

336同上掲注、中村洋子(2008)、p.117

包括的農地改革法(CARL)が、共和国法第六六五七号として成立し、同月十五日に 発行されるに至ったのである。政権発足から数えて二年三ヶ月が経過していた、とも 指摘している。337

(二)包括的農地改革計画への抵抗

この「包括的農地改革計画(CARP)」および「包括的農地改革法(CARL)」に対し、

地主勢力の強い抵抗が色々な形であった。

まず、1987 年 7 月 22 日の行政命令第二二九号(CARL 制定までの暫定措置)が発 行されるや、「秩序ある改革のための地主委員会(略称 COLOR)」は、その日のうち にマニラのビジネス街マカティで同行政命令実施反対の声明書に血判を押し、全国的 不服従運動を展開し、政府の強制執行に対しては実力をもって抵抗するとの決意を表 明した。338

1988 年 3 月 20 日には、ミンダナオ島のダバオ市で開かれた全国地主会議で、ホル テンシア・スタルケ下院議員(ラパン党、ネグロス西州選出)が約六〇〇人の参加者 を前に演説し、農地改革阻止のため「武器を取って闘え」と訴えた。同女史はネグロ ス西州に砂糖キビ農園を、北コトバト州にゴム園を所有する大地主である。339

そして、ミンダナオのバナナ栽培・輸出業者協会(略称PBGEA)も、「外貨収入源 であるバナナ園の土地分割分配反対」を訴える陳情書を、1987 年 7 月 22 日の行政命 令第二二九号が発行された直後政府に提出し、バナナ産業への適用免除を願い出てい る。340

CARL 成立後には、地主勢力は議会で次々と CARP に対する修正案を提出し、反撃 に出た。バナナに関しても、1989 年 3 月、ミンダナオ選出議員が「バナナなどの果樹 園およびコーヒーを栽培する農園に対する適用免除」を求める下院法案二三四七二号 を提出したが可決されなかった。また、他の種類の商業農園では、例えば養殖池・養 鶏場が結局適用除外となった。341

(三)包括的農地改革計画の実施内容

包括的農地改革計画(CARP)の下での農地の接収・分配は、三段階に分けて実施

337同上掲注、中村洋子(2008)、p.117

338同上掲注、中村洋子(2008)、p.117

339同上掲注、中村洋子(2008)、p.118

340同上掲注、中村洋子(2008)、p.118

341同上掲注、中村洋子(2008)、p.119

されることになっていた。そして、多国籍企業の直接農園が、いつ接収・分配される かという点で次々と変更され、結局 1989 年の省令第二号で、下記の通り公有地であ れ民有地であれ、多国籍企業の直接経営下にある農地は、1988 年~1991 年の間に実 施対象とされることになった。342

「包括的農地改革計画(CARP)による土地接収実施予定」

第一段階(1988-1992 年)

1.コメとトウモロコシ農地 2.遊休地、休耕地

3.政府金融機関の抵当流れの農地 4.地主が自主売却を申し出た民有農地 5.大統領行政規律委員会が差押えた農地 6.その他すべての公有農地および農業適地

7.多国籍企業が経営する公有地並びに民有の農地

(1988-1991 年)

第二段階

50ha を超える民有農地の、超えた分 第三段階

1.24ha を超え 50ha までの民有農地(1992-1994 年)

2.地主の保有限度を超え 24ha までの民有農地

(1994-1997 年)

という内容である。しかし、包括的農地改革法(CARL)には抜け穴があり、「商業農 園」に対する実施延期措置である。CARL 第十一条および 1988 年の農地改革省令第

という内容である。しかし、包括的農地改革法(CARL)には抜け穴があり、「商業農 園」に対する実施延期措置である。CARL 第十一条および 1988 年の農地改革省令第