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四、全地域産バナナの輸入自由化時代〔昭和四六(1971)年以降〕

(一)台湾バナナの入札制

日本政府は、日本のバナナ輸入先が台湾・エクアドル・フィリピンと多様化し、台 湾バナナのシェアーが著しく減少してきたので、従来の過当競争の原因も薄らぎ、一 定の歯止めをかけることによって出来るという方針の下に、昭和四六(1971)年 3 月 台北で開催された日華両国政府間の貿易会議で、台湾バナナの取引については、今後、

従来の協定貿易方式を取りやめ、「全量・公開・無差別」の三原則に基づく入札制度 による取引に変更することを協議し、双方基本的に合意した。これにより六年間続い た日華間の「協定貿易方式」によるバナナの貿易に終止符が打たれた。431また、同年 8 月 1 日からバナナは自動割当制より、完全自由化品目に移行することとなった。432 この台湾バナナ入札制度については、昭和四六(1971)年 7 月に開始され、昭和 五十(1975)年 1 月まで実施された。433この入札制の問題として、日本側では、入札 によるとどうしても高値になり易い上、取引の安定を欠くという批判的意見が出、台 湾側にも、日本市場における台湾バナナの長期的安定確保の見地から反対する意見が 出ていた。434また当時日本市場では、台湾島バナナの品質低下による不人気、フィリ ピン・バナナに対しての割高、金融引締めによる輸入業者の資金手配困難があった。

一方台湾側では、島内消費が予想外に旺盛で、生産者が熟度を高める傾向にあり、輸 出規格に合格するものが少なく、傭船が困難等の要因が挙げられる。435

昭和四八(1973)年 5 月 15 日をもって台湾バナナの輸入については、日本バナナ 輸入組合から分離することになった。このため「台湾バナナ輸入協議会」が設立され、

日本バナナ輸入組合に替わり実務を行った。436

430詳細については、[別表1]を参照願う。

431同上掲注、高木一也(昭和五十、1975 年)、p.98

432同上掲注、高木一也(昭和五十、1975 年)、p.102

433同上掲注、高木一也(昭和五十、1975 年)、p.127

434同上掲注、高木一也(昭和五十、1975 年)、p.118

435同上掲注、高木一也(昭和五十、1975 年)、pp.119-121

436同上掲注、高木一也(昭和五十、1975 年)、pp.116-117

(二)台湾バナナの取引窓口集約化による取引

入札制に変わる新しい制度について、台湾バナナ輸入協議会と台湾側は検討した。

その結果、日本の市場に対する台湾バナナの安定供給を確保するための合理的取引条 件の設定で、まず取引対象の集約化、取引ロットの大型化が検討され、日本側で落札 実績一五〇万カートンを下に、落札者の結合を図って取引先窓口を二一社に集約した。

そして「公正・公平・合理的」の三原則に基づく新取引制度について、双方業界の合 意を見るに至った。更に合理的取引を実現するために、双方業界で「台湾バナナ貿易 審議会」を構成し、取引その他諸条件について協議検討を行い、その結果を聯合社に 答申することとした。この双方合意に基づき、入札制の廃止が合意成立し、昭和四六

(1971)年 7 月以降昭和五〇(1975)年 1 月までの三年七ヶ月にわたる入札制は幕を 閉じ、輸入業者取引窓口二一社の数量申込による新しい制度が発足した。そして、こ の取引は、昭和五〇(1975)年3-7月期の分から実施された。437

また、前潟光弘・熊同銓・池上甲一・堀田忠夫(2002)では、「台湾生鮮バナナ輸 入協議会(十七輸入業者)が台湾側の青果運鎖販売合作社と一緒になって、毎年1 月 から2 月上中旬に2~3回「日台バナナ貿易会議」を開催して日本の輸入「基準価格」

を決定している。」と述べている。438また、台湾生鮮バナナ輸入協議会は、平成十七

(2005)年 1 月 1 日よりの台湾バナナ輸出自由化に伴い、組織体制の変更及び名称を

「新台湾バナナ輸入協議会」に改称している。439

(三)フィリピン・バナナの日本市場参入形態 1.多国籍企業と輸入問屋集団

フィリピン産バナナの輸入・流通の組織が日本で整備されたのは、昭和四四(1969)

~四五(1970)年である。ユナイテッド・ブランズ社(チキータ)と住友商事(バナ ンボ)は、輸出元と輸入元が同一企業である点で、他の二社とは違っていた。しかし、

輸入元から消費者へバナバが流れる仕組みは、四企業集団とも同じである、と鶴見良 行(2008)は指摘する。440

それぞれの輸入元が、青果問屋を組織し、特定のブランドを扱った。例えばドール・

バナナを扱う伊藤忠商事は、問屋約三〇社を集めて、伊藤忠青果協議会(以下略称「伊

437同上掲注、高木一也(昭和五十、1975 年)、pp.127-128

438同上掲注、前潟光弘・熊同銓・池上甲一・堀田忠夫(2002)、p.98 http://ci.nii.ac.jp/naid/110000061925

4392010.11.25、研究者より直接「新台湾バナナ輸入協議会」への電話インタビューより。

440同上掲注、鶴見良行(2008)、p.193

青協」)を組織し、それが引き受けたバナナを加工・配荷業者441を通じて、小売業者 へと流した。輸入元はいわゆる商社で、それが果物問屋を組織したのである。輸出元 は四大企業だったが、輸入元は五大グループに分かれていた。下記[表 2-3]の通り である。442

表2-3 フィリピン・バナナの輸入グループ:昭和四九(1974)年 No ブランド名 輸 入 元 問 屋 集 団

1 チキータ 極東フルーツ 極東フルーツ:42社 富士フルーツ 富士フルーツ:23社 豊田通商 豊モンテ会 :13社 3 ドール 伊藤忠商事 伊 青 協 :27社 4 バナンボ 住友商事 住 青 会 :12社 注):鶴見良行(2008)『バナナと日本人』岩波新書、p.194(表10)

デルモンテ 2

2.フィリピン・バナナの多国籍企業と輸入問屋集団との契約

1960 年代末にミンダナオで農園準備をし始めたアメリカ企業が、輸出元として日本 の輸入元に接触したとき、グループ毎にいくらかの相違はあるが、契約では三つの点 が共通していた。①長期契約だったこと。例えば、ドールと伊青協の契約は、更新可 能の一〇年、実質的には二〇年契約である。②栽培面積が6,000ha(ドール社の場合)

に達するまで、いくらでも買うという輸入側の強気の契約だった。③売り買いの価格 は、交渉の余地はあったが、翌年の通算価格をあらかじめ定めたものだった。つまり 言い換えると、農園が作るバナナを、前年に約束した価格でいくらでも買いつけ、そ れを一〇~二〇年繰り返すという契約内容であった。443

なぜこの様な契約内容になったのか、鶴見良行(2008)は、要するに 1950 年~60 年代に続いたバナナのブームが業者を強気にさせたらしい。だから「いくらでも買 う」・「二〇年の長期契約」になった、と指摘する。444

このような売り手と買い手との関係を、鶴見良行(2008)は、日本の業者にとって フィリピン・バナナはあくまで「輸出されたバナナ」であった「輸入したバナナ」で はない。逆にフィリピンにとっては、それは、いつでも外国が買ってくれるバナナな

441加工・配荷業者の主な仕事は、バナナの熟成(色つけ)である。台湾バナナ輸入のごく初期の時代から、

バナナが人の口に入るにはこの作業が必要だった。日本でこの作業は、むろ(追熟室)と呼ばれる部 屋で暖めたり冷やしたりして五日程かかる。

同上掲注、鶴見良行(2008)、p.195

442同上掲注、鶴見良行(2008)、p.193

443同上掲注、鶴見良行(2008)、p.199

444同上掲注、鶴見良行(2008)、p.200

のである。生産国と消費国の間で、価格の意味がこのように逆転するのは、海岸から 海岸までを、多国籍企業が支配しているからであり、これがかれらの強みのひとつで ある。もうひとつの強みは、かれらが農家と労働者を具体的に縛っていることである、

と述べている。4451970 年代当時のフィリピン・バナナの流通経路および価格形成につ いてまとめると、下記[図2-8]となる。

図2-8 1970 年代フィリピン・バナナの流通経路と価格形成

輸出元 (例:伊藤忠商事)

(四多国籍企業)

輸入元

(商社)

輸入問屋集団 (例:伊青協、10年間の契約)

加工・配荷業者 小売業者

消費者

備 考:「→」はバナナの流通経路を表す。

注) :鶴見良行(2008)『バナナと日本人』岩波新書、pp.193-204を     参考に、研究者作成。

輸入価格=契約価格(港渡し価格)+関税:(A)

(契約価格は前年約束の通年価格)

原価(輸入価格)+輸入マージン:(B)

浜値:(C)

(毎回協議決定の変動価格)

長 期 契 約 関 係)

つまり、輸入問屋集団は輸出元と長期契約関係にあり、購入は契約価格+関税(A)

であり、加工・配荷業者へはその日その日の相場である浜値446(C)で売り渡し、そ の他に輸入元の商社へ輸入マージンを払っていた。

浜値は、荷が着くたびごとに、輸入問屋と加工・配荷業者の代表が集まって、「今 度のバナナの浜値はいくら」と決める。消費者の動向が最大の決め手だった。そして、

浜値(C)が輸入価格(A)を下回ることがしょっちゅうで、輸入問屋集団は多大な る損失を被った。447

445同上掲注、鶴見良行(2008)、p.208

446水揚げ地で取引される値段。ジャパンナレッジ『日本国語大辞典』「浜値」

447同上掲注、鶴見良行(2008)、p.203

その原因は、日本の消費者はあまりバナナを食べなくなったのに、生産がどんどん 増えたからである。バナナの消費がピークだった昭和四七(1972)年に、日本人 1 人 当たりの消費量448は 9.9kgで、10年後の昭和五五(1980)年には 1 人当たりの消 費量は6.3kgと、フィリピン・バナナ輸入以前の水準にまで落ち込んだ。449

昭和五四(1979)年、一〇年契約の更新期に輸入問屋集団は、四大企業(多国籍企 業)との契約を投げ出し解散し、従来の浜値もなくなった。四大企業は、自分の荷が

昭和五四(1979)年、一〇年契約の更新期に輸入問屋集団は、四大企業(多国籍企 業)との契約を投げ出し解散し、従来の浜値もなくなった。四大企業は、自分の荷が