(一)満州事変
昭和六(1931)年 9 月 18 日、満州事変が起こった。この事変は、日本が無謀きわ まる大陸への帝国主義的侵略の泥沼に足を踏み入れた発端であり、それがために国際 関係も悪化し、昭和十二(1937)年日中戦争となり、四年余りの後、太平洋戦争に突 入し、日本国史上未曾有の敗戦に至るのである。162
満州事変以後の日本経済で、犬養政友会内閣163は、昭和六(1931)年 12 月 13 日の 初閣議で金輸出再禁止の断行を交付した。この再禁止はいうまでもなく、金貨兌換の 停止をともなったものであった。ここに日本は名実ともに金本位から離脱してしまっ た。これによって日本の経済政策には、デフレからインフレへの転換が行われること となった。164
昭和七(1932)年に入り景気の回復を思わせたが、アメリカの不況の深化に影響さ れて、日本の景気は再び後退した。そして犬養首相が凶弾に倒れた昭和七(1932)年 の五・一五事件165は、政党・財閥勢力の衰退、軍部ファシストの進出を招来した。ま た、昭和十一(1936)年に右翼的青年将校によって起こされた二・二六事件166により 国民の動揺が極度に達した。167
(二)戦時経済
昭和十二(1937)年 7 月の日中戦争の開始は本格的経済統制の出発点となった。同 年 10 月には戦時経済統制の中心機関である企画院が設置された。昭和十三(1938)
年4 月公布の国家総動員法は、人的・物的資源の統制権限を全面的に政府に委任する 立法であった。国家総動員法により多くの統制勅令が出されて、戦時経済統制の網の
162同上掲注、土屋喬雄(1968)、pp.196-197
163犬養毅は、昭和四(1929)年政友会総裁になる。昭和六(1931)年首相となり,戦前最後の政党内閣を組織 したが,昭和七(1932)年 5 月 15 日海軍青年将校らに暗殺された(五・一五事件)。ジャパンナレッジプ ラス《日本人名大辞典》「犬養毅」
164同上掲注、土屋喬雄(1968)、p.197
1655 月 15 日、海軍青年将校・陸軍士官学校生徒らが首相官邸などを襲撃し、犬養毅首相を射殺した事 件。軍部はこれを利用して政党内閣に終止符を打ち、軍部独裁政治への一歩を進めた。『デジタル大 辞泉』小学館、「五・一五事件」
1662 月 26 日、陸軍の皇道派青年将校が武力による政治改革を目ざし、下士官・兵を率いて起こしたク ーデター事件。内大臣斎藤実らを殺害。国会議事堂・首相官邸周辺を占領した。翌日東京市に戒厳 令が公布され、29 日鎮圧された。将校の大半は死刑となり、以後統制派を中心とする軍部の発言権 が強化された。
『デジタル大辞泉』小学館、「二・二六事件」
167同上掲注、土屋喬雄(1968)、pp.198-199
目がはりめぐらされた。168
国家総動員法が発動されるや昭和十三(1938)年 6 月経済関係閣僚五相会議で、企 画院の立案になる物資総動員計画169が承認され、7 月から実施された。また、資金統 制・金融統制は、軍需工業の資金需要に応じながら、なおかつインフレーションの悪 化を防止する課題を担っていた。戦費調達のためには大量の国債発行が必要であった が、その消化には強制割当がおこなわれ、大々的な貯蓄運動が推進された。可能な限 り民間から資金を吸収し、民需部門への投資規制をおこないながら、軍需部門に重点 的に資金が投入された。しかし、軍需部門への巨額の資金投入は、資金の大幅な対民 間散布超過を不可避としたし、物資需給の不均衡も激しくなったから、インフレーシ ョン抑制という課題の実現は困難であり、物価の価格統制(昭和十四、1939 年 10 月 に、9 月 18 日の価格に物価を釘付けにする価格統制諸令、いわゆる 9・18 ストップ令 が出されて価格統制は開始した)・流通統制〔配給制度。消費財については、大都市 では昭和十五(1940)年 6 月に砂糖・マッチ、昭和十六(1941)年 4 月に米・小麦粉・
酒、昭和十七(1942)年 1 月に塩・味噌・醤油が配給制となり、同年 2 月には衣料品 の点数切符制が実施された〕が不可欠であった。170
日本の戦力或いは抗戦能力は、太平洋戦争の期間を通じて、漸次失われたのであっ たが、経済統制は逆にますます強化されていった。換言すれば、戦力の基礎である生 産力が減退すればするほど、統制力をもってこれを強化しようとし、一方には企業整 備、配給統制の強化を、他方には資材、労働力の重点配置を促進して、生産力の減退 を補おうとしたわけである。171
昭和十八(1943)年までは、以上のような方法で、航空機を主とする絶対必要な兵 器だけは、その生産を増進または維持しえたのであったが、昭和十八(1943)年を境 にあらゆる方法をもってしても戦力の増進はもちろん維持すら不可能となった。それ は、海上輸送力の激減のためであり、さらに国内における食糧の不足が甚だしくなり、
僅かに残され、減りつつある海上輸送力を食糧輸送にさかなければならないという事
168同上掲注、三和良一(2008)、p.144
169昭和十三(1938)年 1 月 18 日、閣申第十四号「昭和十三年ニ於ケル重要物資需給計画」が閣議決定さ れたが、計画は輸出実績不振で修正を余儀なくされた。同年6 月 23 日、閣申第一六三号「昭和十三 年ニ於ケル重要物資需給計画改訂」が閣議決定され、この内容を指している。
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03023602400《内閣》<昭和十三年ニ於ケル重要物資ノ需 給計画改訂ニ関スル件>(国立公文書館)
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090419432907114&
170同上掲注、三和良一(2008)、p.145
171同上掲注、土屋喬雄(1968)、p.206
情が生ずるに至ったためでもあった。172
戦争は、国民の生活水準を低下させた。実質個人消費支出は、昭和十(1935)年を 100 として、昭和十五(1940)年には 91、昭和十九(1944)年には 65 に低下した。
資源基盤の弱い日本が、長い戦争をともかく続けることができたのは、「国民生活の 水準を際限もなく切り下げる政策をあえてとり、ほとんどの国民が声もなくこの負担 に耐えたためであった」。国民をこの犠牲に耐えさせた社会的政治的圧力を、日本フ ァシズムと呼んでよかろうと、三和良一(2008)は述べている。173
(三)バナナの消費
岩槻泰雄(1976)は第二次世界大戦前の日本内地における台湾バナナの消費につい て以下のように記している。174
日本内地のバナナの需要の増大は台湾の生産を伸ばし、生産の増加はまた需要 を刺激し、バナナの生産と輸移出は年々急速に伸びた。最盛期は昭和初年から昭 和十四(1939)~十五(1940)年まで続き、昭和十二(1937)年には約十七万ト ンという戦前の最高を記録した。台湾バナナは日本内地だけではなく、朝鮮・満 州・上海・香港・廈門(アモイ)・福州など南中国に至るまで、日本人が住んでいる 所にはたいてい輸出された。日本内地以外への台湾バナナの輸出高は10~15%程 である。
日本内地での一人当たり消費量は最盛期でも年間2kg 程度にしかならず、1970 年代前半の数字、年 8~10kg/人に比べるとはるかに少ないように感じる。しか し戦前の昭和七(1932)年当時は、全ての果物の消費量自体が現在(1970 年代前 半)に比べると約四分の一(昭和七、1932 年)であるから、バナナが消費果物の 中に占める位置は1970 年代前半と同じくらいだったことになる。
それにもう一つ留意しなければならないことは、戦前のバナナの消費地の片寄 である。1970 年代の総理府統計局の調査によると、バナナ消費に対する大都市・
中都市・市町村の差はあまり見られないが、戦前の消費はほとんど大きな都市に 限られていた。昭和五(1930)年各県毎の一人当たりバナナ消費を調べた資料に よると、東京府が3.75kg、兵庫・山口(台湾航路をもつ神戸・下関がある)がこ
172同上掲注、土屋喬雄(1968)、p.207
173同上掲注、三和良一(2008)、pp.150-151
174同上掲注、岩槻泰雄(1976)、p.71-72
れに次ぎ、大阪・福岡・石川・愛知・京都など大都市をもつ府県が 2~3kg で続 いていた。
逆にバナナの消費の少ない地域は、千葉の年間18g/人を最低に、和歌山・奈良・
岩手・茨城・徳島・栃木・鳥取・長野・秋田と農村県が並ぶ。昭和五(1930)年 の全国平均は1.27kg/人に対し最盛期の昭和十二(1937)年には年約 2kg/人と 1.6 倍になっている。このことからから昭和十二(1937)年の東京府バナナ消費量を 推計すると年6kg/人にあたり、年 8~10kg/人と大差がないことが分かる。
バナナの消費について都会と農村では著しい差があるのは、この当時農村まで 生鮮バナナをくまなく輸送する手段が無かったことが挙げられるが、農村では移 入果物を購入するような経済力が欠如していたと考える方が妥当だろう。
と述べている。ここで指摘されているように、日本の農村部における移入果物の購入 に関して、前述の通り戦前の日本経済状況(農村部)を勘案するに、購入のための経 済力が欠如していたといえる。
前掲[図 1-5]より、以下のことが窺える。①第一世界大戦による大戦ブーム・戦 後好況期に景気の刺激を受けて移出量が増大している。 ②大正13(1924)年に半官 半民の会社である、台湾青果株式会社が台湾総督府の指導により設立され、その頃よ
前掲[図 1-5]より、以下のことが窺える。①第一世界大戦による大戦ブーム・戦 後好況期に景気の刺激を受けて移出量が増大している。 ②大正13(1924)年に半官 半民の会社である、台湾青果株式会社が台湾総督府の指導により設立され、その頃よ