ところで、柳原一行が天津に到着する前、総署はすでに「風聞該國以上年所 換之約未能滿意,有須另議之說」183という風説を受け取っていた。また、3 月 18 日に柳原より外務省宛の報告で、当時中国における「香港新聞」にも「和 清両国条約を訂立するは、清の禍にして、和の福なり。其故は昨年所訂条約に、
日本人満足ならざる廉有り。此の末終には兵端を啓くに至らん。然る上は和の 勝利にして、清の敗亡ならん」184という論調を掲げている。一方、3 月 21 日に 柳原は外務省より南洋通商大臣曽国藩宛、及び柳原より布政使銜署江蘇布政使 按察使応宝時宛の書簡の転送を江南海関道蘇松太道沈秉成に頼んだ。沈は直ち にそれら書簡の内容を複写して李鴻章に報告した。185よって柳原一行が天津に 着する前、李鴻章と総署はすでに中国に赴く柳原らの目的を知っていた。
182 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 276-277
183 前掲近史所檔案館 外交部門 №01-21-052-01-003 総署より李鴻章宛「肅達日本使臣有到滬 之信希為留意由」
184 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 254
185 前掲近史所檔案館 外交部門 №02-21-052-01-005 李鴻章より総署宛「據蘇松太道稟報日本 使臣柳原前光等抵滬并津海關稟稱該使抵津各日期由」
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柳原一行は 3 月 29 日に天津に着したが、当時李鴻章が天津における「大沽 口」という所を視察して 4 月 1 日に戻った故、同日照会を李に送って、李との 面会を求めた。4 月 3 日、李鴻章より総署宛の報告によって、当時、
因知該使此來,意在改約,蹔不准令進見。且以柳原係上年隨員,不應遽稱 本大臣字樣,即將所呈照會發交關道,面為擲還。陳道雖在假中,經鴻章函 屬與該使接晤,並令在津之孫道士達幫同辨駮。若該使必欲求見,鴻章自當 竭力開導,務守前約。186
と李鴻章は柳原より面会の求めを拒んだ。すなわち、柳原は李に送った照会に は、自らを「本大臣」と称した。しかし、柳原が昨年日本全権伊達宗城の随員 で、中国全権の李鴻章に、自らを「本大臣」と称するのが不適当であると李鴻 章は考えて、また、柳原の目的が中国と条約改正の交渉であると知って、柳原 との面会を拒絶して、柳原との交渉を天津海関道陳欽と江蘇記名海関道孫士達 にさせた。
一方、柳原より太政官宛の報告によって、柳原らは 3 月 29 日に天津に到着 したら、4 月 1 日に照会を以て李鴻章との面会を求めたが、李に「当時公務繁 冗なるを以て、別に 2 日を択み回答すべき…(下略)」187と返答された。明ら かに李鴻章の報告と相違っている。
4 月 8 日、柳原は太政官に以下のことを報告した。
是より先き上海にて書簡を作り、江蘇布政使応宝時昨年清の全権に幇弁たる者へ贈り、今般 奉委件々の大略を報明せしに、其写し早く李鴻章の覧に入たる由にて、閣 下より条約改正の御照会ある事を知り、紛々評議ありて、李鴻章当惑接受 を難するの趣、風聞に承り及候。故八日に至り、頴川大録を李府に遣はし、
面晤催逼候処、明朝九字候駕可致と答に付…(下略)。188
すなわち、柳原は 4 月 1 日に李鴻章との面会を求めたが、李がわざと遷延のた め、4 月 8 日まで中国側と交渉に入れなかった。よって、柳原は 4 月 8 日に再 び李鴻章との面会を請って、李より 4 月 9 日に面会しようという返事をもらっ た。
186 前掲近史所檔案館 外交部門 №01-21-052-01-006 李鴻章より総署宛「函述日本使臣抵津日 期情形并山海道已派員署理」
187 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 280
188 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 280
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4 月 9 日、遣中国正使の柳原前光と遣中国副使の通訳官鄭永寧は李鴻章公 邸に至って、李鴻章と条約改正について 3 時間に渉って交渉した。柳原より太 政官宛の報告によって、李鴻章は当時、
李披見の下、問答了て乃ち云ふ。西約修訂の後を俟ち改正を議するの件は、
異論無し。惟此調処・刀禁等を裁刪するは、第一には信義に悖り。第二に は伊達大臣と自己の全権便宜を憑證するに足らす。第三には其例未曾有也。
第四には貴国の処置、清を蔑視し、又自ら汚辱す。第五には此来議を聴く ときは、両全権共に君命を辱しむるなり。…(下略)189
また「頻りに怨言を発し、使者の進退維に谷まる」と反応していた。しかし、
柳原らが再三李に頼んでから、李は、
…(上略)、彼(李鴻章)も亦其理を解し、且前光等旧識の素有るを以て、
之をして窮困せしむるに忍ひす。己を枉て曲全を謀り、自己は機務繁擾な るに因て、応接の義を陳欽及ひ孫士達へ委弁すへけれは、諸事二氏と討論 有て然るへし。所詮約面の字眼を改動する事は許さす…(下略)。190 と、柳原らとの交渉を 4 月 9 日に天津海関道陳欽と江蘇記名海関道孫士達に委 ねた。以上中日間の交渉過程は、明らかに 4 月 3 日に李鴻章より総署宛の報告 と柳原より太政官宛の報告と相違っているということが察知できる。4 月 3 日 に李鴻章の報告によって、李鴻章が当時すでに柳原らとの交渉を陳欽と孫士達 に委ねたが、柳原の報告によって、李鴻章が柳原らとの交渉を陳欽と孫士達に 委ねたのは 4 月 9 日であるということが察知できる。
李鴻章と柳原との報告はどちらが正確であるか、推測しかたいと思われてい るが、以下論述の便のため、柳原のほうに従う。
李鴻章が柳原らとの交渉を陳欽と孫士達に委ねたため、柳原らは 4 月 9 日午 前李鴻章と面会してから、同日午後続いて陳欽と孫士達を訪れ、条約改正につ いて交渉した。しかし、当日柳原らは陳欽と孫士達との 3 時間に渉った面会で、
絶えなく陳欽に「外務卿より柳原に下した委任状には、条約改正の全権である 権限を持っていない」と非難されていた。そのため、4 月 9 日に柳原らと陳欽・
孫士達との面会で、実際に条約改正に関する事項を何も交渉していなかった。
189 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 281
190 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 281
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4 月 11 日、柳原らはまた陳欽公邸で陳欽らと面会して、3 時間に渡って条文 の第 2 条、第 11 条、また通商章程第 28 款らについて交渉したが、依然として 何も決議を出してこなかった。192
4 月 22 日、柳原は副島外務卿に以下のことを報告した。
…(上略)、当月九日始て李鴻章へ面謁を経候後、李所務多端の故を述べ、
頃日陳欽・孫士達等へ談判の権を委ね、與前光等追々談論。最中にて、ま た彼か結答の端倪不相分。…(中略)…。現在調処・刀械等、委任上に所 列の件々を以て、議論の幌表に押立て、此行談判の一局と為し、其餘は将 来我か改定せし西約を照し改議せん時に附論す可しとの許諾を得て、反命 すへき迄の目途に限り居候へ共、夫すら上文申述候通り、未た其要略を得 す。193
すなわち、4 月 22 日まで、中国側と条約改正に関する交渉の進展は、何も要 略がなく、ひとり中国側より「日本が改正を求める箇条を検討する」という返 事を得たのみであった。
5 月 13 日まで、中国側より依然として何も返事が来なかったので、柳原は 5 月 13 日に照会を作成して陳欽に渡して、中国側の返事を促した。
…(上略)。會時欽派右大臣岩倉等,專往歐西諸國,踐期改約,因其往復自 需年餘,廷議以伊大臣所訂日本一邊條款,及有擬別國局面之事,須照新定 西約改議,望其劃一。上諭外務卿大臣等,即將此由備文照會清國大臣,預 前聲明,俟岩倉等回國,當即派使換約。外務卿大臣等遵旨擬議奏明,隨即 具情函達李爵閣大臣,又請欽命派本大丞兼任少務辨使,帶同外務少記鄭等,
齎呈文函,委本大丞便將文內細情,面為詳述,今已抵津,合應具由粘該文 件,及委限等抄底,先行通報,為此照會貴海關道,祈即代詳李爵閣大臣,
煩為查准賜覆…(下略)。194
陳欽は上述柳原の照会を受け入れたが、当時病中で、孫士達のみ柳原と交渉 した。5 月 22 日、陳欽と孫士達は条約改正に関する評議、及び陳・孫の評議 に対する李鴻章の裁決の写しを柳原に送った。まず陳欽より李鴻章宛、条約改
191 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 269-271
192 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 260、271-274
193 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 274
194 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 282
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正に関する評論の伺い書である。
…(上略)。職道欽會同職道士達,竊查日本國去秋甫經立約,尚未互換,此 時遽請改議,殊非信守,無論何國皆無此例。詳閱柳原抄送彼國外務省照會,
及奉委要旨各件,有尚可通融者,有斷難允從者,謹就管見逐條核議。如第 一條,所言來歲與歐西改約之案,起於欽使適清之後,業已擬定專欲取法於 歐西常行條例,以改我國外交之約一節…(中略),惟現在日本與西國修約,
尚無成議,勢難懸定,原不必先期預商,應俟換約後,章程如有更易,自可 隨時商辦。又如第二條所言,各港所住清民不下數千,新派理事官來,須先 熟察實地情形,尚有隨時酌議之處,未及能照條訊斷一節…(中略)…。職道 等查各管各民係各國通例,今彼國欲改西約,諒亦未能定議。我國既經定約,
尚無成議,勢難懸定,原不必先期預商,應俟換約後,章程如有更易,自可 隨時商辦。又如第二條所言,各港所住清民不下數千,新派理事官來,須先 熟察實地情形,尚有隨時酌議之處,未及能照條訊斷一節…(中略)…。職道 等查各管各民係各國通例,今彼國欲改西約,諒亦未能定議。我國既經定約,