1872 年 7 月 8 日(同治 11 年・明治 5 年)に柳原が帰朝した後、7 月 13 日に 外務卿の副島種臣が日清修好条規に関する処分という伺い書を太政官に提出 た。
一. 修好条規第二条の約は、原と清米の約例に拠て立たるにて、惟其友誼 の情を推擴し、列国普通和親の公理に出候上は、其儘立置可然存候事。
一. 方今欧洲列国へ被遣候、使臣修約復命之後、清国へ本約互換の大臣を
197 前掲近史所檔案館 外交部門 01-21-052-01-011 何璟より総署宛「咨報日本使臣照會上年在 津議立條約須防更改之處並將照復一件抄呈由」
198 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 278
199 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 278、297
200 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 278、297。
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派し、併せて続款を訂立し載るに、今般議定の件々並に我に在て関礙 を生する情を掲明し、大成局を了すへき事。
一. 右御決評之上、柳原より上海に留置候少記鄭永寧へ伝へ、同人より清 官員へ報告可為致。尤続款議定に至て大定となせは、其日に至て、稍 活動を得るに便なる余地を文意に含ませ可然事。201
すなわち、1、修好条規第 2 条がそのままに置くと決まっている。2、欧米に派 遣されていった「岩倉使節団」202が帰朝した後に中国と条約を交換する。3、
中国と条約を交換する時、日本に故障が生ずる条文を続款の形で改正する。と いうことが決まっている。明らかに明治政府は中国側の裁決をそのまま受け入 れたということである。203副島の伺い書は 7 月 23 日に太政官より「伺うの通 り」と裁決された。
11 月 19 日に明治天皇は副島に勅語を下し、副島が中国出使の任務を定めた。
爾種臣、外務を総理するの全権を以て、清国に適き条約を互換せよ。前に 使臣柳原前光を遣わし、議准せし事宜は、一々照弁して可なり。今清帝婚 儀已に諧ひ、且政を親せんとすと聞く。朕当さに書を送り賀を伸ふし、爾 種臣、其之を致せ欽哉。204
一方、副島の任務として、また 1873 年 2 月 11 日(同治 12 年・明治 6 年)
に明治天皇より勅語を下した。
朕聞く台湾島の生蕃、数次我人民を屠殺すと。若し棄て問はすんは、後患 何そ極らん。今爾種臣に委するに全権を以てす、爾種臣其往て之を伸理し、
201 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 298-299
202 岩倉使節団:明治政府は幕末に欧米と締結した不平等条約を改正するため(いわゆる「条 約改正」)、1871 年に欧米に派遣した使節団である。その使節団を率いるのは岩倉具視である ため、「岩倉使節団」と呼ばれている。岩倉使節団は元々日本が欧米と締結した不平等条約を 改正するため送り出されたが、米国と英国に条約の改正を拒まれて、改めて欧米に巡遊し、欧 米の法律、政治、科学などを見学したり学んだりして、1873 年に帰国した。信夫清三郎、『日 本外交史』Ⅰ、(毎日新聞社、昭和 49 年)頁 86-89 を参照。
203 前掲「日清修好条規成立過程の再検討-明治五年柳原前光の清国派遣問題を中心に-」、頁 77 によれば、作者の李啓彰は東京大学総合図書館国際資料室に所蔵しているイギリス国立公 文書館№69 号文書、及び前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 295 の史料を使って、「柳原は 1872 年に天津で孫士達と条約改正について交渉している際に、孫より日清修好条規第 2 条の決まり が決して中日間の攻守同盟条文ではないという説明をもらった。外務省はその中国側の説明を イギリスとアメリカの公使に渡して、第 2 条の決まりが中日間の攻守同盟条文ではないという 了承を得たため、第 2 条をそのまま残した」と提出している。
204 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 300
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以て朕が民を保んするの意を副へよ。欽哉。205 同日、太政官も副島に指示を下した。
一. 清国の義は我国と往来する事、一朝に非す。曾て隣好の誼あり、今又 訂交の約書を交換せんとす。此際生蕃暴逆の事件を談判する、全く我 政府国民に対する義務不得已に出つ、故に交際を重し平和の旨とし、
両国間釁隙を生する事なきを要とす。206
また、筆者のまとめにより、副島の任務には 1、駐北京公使の官邸を見つけ ること。2、副島とともに中国に出使した官員らで一人を選び、駐北京公使を 指定すること。ということがあった。さらに、中国を測量・視察するため、当 時まだ陸軍に属していた樺山資紀らも遣中国使節団に加わったので、太政官よ り樺山を指揮できる権限も副島に付与した。207
すなわち、副島が中国に出使の任務と権限は以下のようにまとめられる。1、
日清修好条約を中国と交換する。2、明治天皇の国書を中国の同治帝に捧げる。
3、「宮古島島民遭難事件」(すなわち「牡丹社事件」)の処理。4、駐北京公使 と公使官邸の指定。5、中国を視察する人員を指揮できる。
一方、2 月 11 日に太政官より副島に下した指示、「交際を重し平和の旨と し、両国間釁隙を生する事なきを要とす」から見れば、当時明治政府の首脳部 はまだできるだけ中国と平和関係を保つように望んでいたということが推定 できる。
1872 年 11 月 20 日、副島の遣中国随員である柳原前光は書簡を上海に駐在 する代領事品川忠道に送って、副島が間もなく中国に向かって中国側と条約を 交換すると伝達して、また副島より李鴻章宛の照会を品川に転送させた。
…(上略)。惟我改約欽使,東徂西轉,已經一載,未定何日言旋。本大臣切 思若必俟其歸,方行換約,似覺太晏,殊違通例。茲復疏請當派欽使,先行 互換。旋于十一月十九日奉旨:外務大臣副島種臣,着即適清換約,所有前 遣使臣議准事宜,可悉照辦。…(下略)。208
すなわち、明治政府は岩倉使節団がいつか戻れるか分からないことを理由で、
205 前掲『百官履歴』上巻 頁 53-54
206 前掲『大日本外交文書』巻 6 頁 123
207 前掲『大日本外交文書』巻 6 頁 123
208 前掲『大日本外交文書』巻 5 頁 302
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先に条約を交換しようと中国に説明した。
1873 年1月 18 日(同治 12 年・明治 6 年)、総署は清廷に「李鴻章が元日本 との締約交渉に関する係員であるため、今回日本と条約の交換も李に任せたほ うが宜しい」と建言して、清廷の同意を得た。2 月 17 日、李鴻章は清廷に「日 本全権の副島が随員を連れてきたので、中国の体制を尊ぶため、元山東布政司 潘鼎新・天津海関道陳欽を李の随員と指定したい」と建言して、2 月 20 日に 清廷よりの批准を得た。209
一方、1873 年 2 月 2 日(同治 12 年・明治 6 年)、太政官は軍艦竜驤・筑波 を副島に護衛することを決めた。同日、柳原前光らが米国郵船に搭乗して、先 に上海に向かった。
柳原らが樺山資紀の同行で 2 月 10 日に上海に到着して、2 月 13 日に樺山資 紀は鳳凰山に赴き、当地中国兵営の景況を探察した。2 月 14 日、副島一行は 竜驤艦に乗り組んで横浜より出航した。2 月 15 日、魯国親王が上海に到着し て、翌日柳原らは魯国親王を訪れた。2 月 24 日、副島一行は長崎に着き、3 月 1 日に長崎より出航、3 月 4 日に上海に到着した。210
3 月 5 日から 3 月 11 日にかけて、副島一行は米・蘭・魯国らの領事と公使・
江南海関道蘇松太道沈秉成・上海租界会審委員江蘇補用同知陳福勳と互いに訪 れた。特に 3 月 7 日、魯国親王は宴会を開いて、副島を頭席に請った。また 3 月 10 日、副島を護衛する竜驤・筑波艦が船身過大で天津に入れないので、魯 国公使は副島を訪れ、魯国親王とともに魯国の砲艦を搭乗して天津に向かおう と副島を誘ったが、副島は大沽口まで筑波艦に乗って、そこから魯国の砲艦に 移ると決まった。3 月 13 日、魯国親王と副島は一同に上海より出航した。211
3 月 24 日、副島一行は天津に到着、「飛龍行」に泊まっていた。3 月 25 日、
李鴻章よりのあいさつが届かないので、副島は柳原を陳欽の所に遣わし、中国 の失礼を風刺したが、陳欽に、「中国の例、凡各国の使、津に到る必す先つ我 欽差大臣の行台へ進謁し、而して後我欽差大臣、欽等を率ひて、其公館に回拝
209 前掲近史所檔案館 外交部門 01-21-052-02-002 清廷より総署宛「奏請欽派大臣與日本互換 條約由」、前掲近史所檔案館 外交部門 №01-21-052-02-016 李鴻章より総署宛「具奏如日本 使臣到津遴派大員襄辦由」、01-21-052-02-017 李鴻章より総署宛「片奏派員襄辦日本換約事 宜奉到硃批知照由」、№01-21-052-01-028 李鴻章より総署宛「咨報日本派來外務大臣副島種 臣等來華換約由」、01-21-052-01-031 李鴻章より清廷宛「具奏接據日本照會來津換約請欽派 大臣以便屆期商辦抄摺謹請查照由」、01-21-052-01-039 李鴻章より総署宛「具奏接據日本照 會來津換約請欽派大臣以便屆期商辦抄摺謹請查照由」、01-21-052-02-001 総署より清廷宛「奏 請欽派大臣與日本互換條約由」
210 前掲『大日本外交文書』巻 6 頁 121-123、125-126、128
211 前掲『大日本外交文書』巻 6 頁 123-124
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す。是を定規と為せり。故に安を問ふの事無し」と回答された故、翌日照会を 李鴻章に送って、副島が天津に到着したことを知らせて、李と面会する期日を 伺った。212
3 月 28 より 3 月 31 日まで李鴻章らと副島らは互いに訪れ、4 月 4 日に条約 交換の儀式を行うと定めた。4 月 4 日、中国全権の李鴻章らと日本全権の副島
3 月 28 より 3 月 31 日まで李鴻章らと副島らは互いに訪れ、4 月 4 日に条約 交換の儀式を行うと定めた。4 月 4 日、中国全権の李鴻章らと日本全権の副島