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前節ですでにまとめられたように、1870 年から 1873 年(同治 9 年・明治 3 年-同治 12 年・明治 6 年)にかけて、中日関係に対して、林子候は、当時中 国の対日本政策が日本を中国の仲間と設定していたと考えている。それに対し て、呉文星は当時中国が、1、国権を維持・保護する。2、日本を牽制する。と いう立場より、対日本政策を作っていたと考えている。

一方、谷瀬茂樹は焦点を 1871 年(同治 10 年・明治 4 年)に作成された中国 側の条約草案に絞って、当時中国の対日本政策を以下のように提出している。

…(上略)。これらの背後には、日本を欧米諸国と連帯させてはならな.................

いこと

...

と、日清間貿易を公認することで関税収入をえようとする、極めて 現実的な対日関係方針があった。

…(上略)。すなわち、日本に対し可能な限り朝貢体制的な立場を隠し つつ、実質的には清朝の権威と朝貢国への宗主権を維持しよう

....................

とする意志

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が見られたのである。

…(上略)、清朝もまた日本を欧米諸国の「外府」としてはならな

........................

いと いう理由から、一八七一年の交渉で日本と条約を結ぶ必要に駆けられてい たのである。259

以上の引用文をまとめると、谷瀬も中国の対日本政策に、1、日本を牽制する。

2、中国の国権(すなわち、谷瀬の言う「清朝の権威と朝貢国への宗主権」)を 保護・維持する。ということが含まれていると考えていると推知できる。

林子候は当時中国が日本を仲間と見なしたのに対して、呉文星と谷瀬茂樹はと もに中国の対日本政策に中国の国権を保護・維持する意図が含まれていると考 えている。しかし、日本を牽制する意図が含まれても、中国の国権を保護・維 持しても、それらの挙動が日本を中国の仲間と見なしたとは言えないと思われ ている故、以下日清修好条規をめぐる中国側の言動を取り上げて、1870 年か ら 1873 年(同治 9 年・明治 3 年-同治 12 年・明治 6 年)にかけて、中国の対 日本政策を明らかにしたい。

1870 年から 1873 年(同治 9 年・明治 3 年-同治 12 年・明治 6 年)にかけ て、中国の対日本政策には、確かに中国の国権を保護・維持する意志が含まれ ていると思われている。

1870 年(同治 9 年・明治 3 年)に日本の提出した中日間の友好条約を締結 する要求に対して、総署はできるだけそれを避けようとしていた。それはアヘ ン戦争以来、中国と諸外国と締結した条約が、中国に対してすべて不平等条約 のみでなく、「南京条約」から「天津条約」にかけて、そのような不平等性が さらに拡大されつつあったという傾向も見える。そのため、総署ができるだけ 外国と条約を締結しないようにしていたことを、その視点より理解すれば、総 署が日本との締約をできるだけ避けようとした行為は、まさに中国の国権を保 護・維持することではないかと思われいている。

また、伊達らと日清修好条規の内容に関する交渉に入ると、中国側は中日間 の交渉を主導して、中国に対する不平等である津田草案を排除して、条規の内 容を中国側の望むように進めた。それも中国国権の保護・維持する挙動である と思われている。

1872 年(同治 11 年・明治 5 年)、李鴻章が日本より提出した条約改正の要 求を認めたが、それは中国商人が日本で従事する貿易活動に関する税則、及び

259 前掲「日清修好条規の清朝側草案よりみた対日政策」231 号、頁 59-60

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日本の面子のために、日本人が中国で刀剣を配すべからざる規定の削除のみで ある。すなわち、中国に影響がない条文の修正と削除が認められたのみである。

また、李鴻章も日本と条約を交換した後さえ、続款の形で日清修好条規を修正 や削除できると日本に提示した。一方、柳原より提出した上海にいる品川忠道 を公に認める要求に対して、南洋通商大臣何璟も明らかに柳原に日本と条約を 交換した後さえ認められると告げた。

ところで、中国は日清修好条規の締結によって、「天朝」概念を維持したか ったのを意図していたのも窺える。1871 年(同治 10 年・明治 4 年)、中日間 が日清修好条規の条文を商議する時、日本側は条規約首に中日両国君主の号を 明記しようと要求したが、中国側に拒まれた。それについて、中国締約幇弁の 陳欽は「日本側が条規約首に自国君主の号を天皇と記していることと、条文で 中国を清国に称することを要求したが、気に入らない」と総署に報告した。ま た、李鴻章も清廷に「日本は必ず条規約首には我皇帝と日本天皇と共に掲載し て、章程には必ず両国の国号を清国と日本に記することを要求していた。しか し、中国の条約に彼国君主の尊号を入れることは、彼らの誇りであるため、採 用しない」と報告した。260それらのことによって、中国は確かに日本との条約 で天朝概念を維持することを意図したことが窺える。しかし、天朝概念の維持 と保護は、当時中国官員の思想から見ると、それも中国国権の保護と維持の表 現であると思われている。

一方、日本と日清修好条規を締結した中国の理由には、日本を牽制する意図 もあると思われている。李鴻章は 1870 年(同治 9 年・明治 3 年)に明確に日 本を牽制する視点によって、日本と締約すべしと総署に建言した。また、陳欽 は中国側の条約草案を起草する時も「締約国は互いに相手国の領土を侵害しな い」という条文を挿入した。それらは、中国には確かに日本を牽制する意図が ある証であると思われている。

以上、1870 年から 1873 年(同治 9 年-明治 3 年・同治 12 年-明治 6 年)

にかけて、日清修好条規をめぐる中国側の言動を取り上げて、日本に対する中 国の政策を以下のようにまとめられる。1、中国の国権を維持・保護する。2、

日本を牽制する。

260 前掲 近史研究所檔案館 外交部門 №01-21-051-01-002 陳欽より総署宛「詳述與日本使臣 辦理條約粗有定議各情由」。前掲『籌辦夷務始末』巻 82、頁 7537-7539

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