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第 3 節 中国態度の転換

2. 締約交渉のほか柳原が取り扱った事務

日本官員を上海に置く件

1870 年(同治 9 年・明治 3 年)、柳原前光一行は遣中国使節として中国に赴 き、中国の外務関係に当たる官員らと、中日間の締約について商議した。しか し、柳原が中国と締約の交渉を取り扱うのみでななかった。以下柳原が締約交 渉のほかに扱った事務を検討する。

中国と締約の交渉をする傍ら、柳原が中国で取り扱う事務は、1、上海に居 留する日本人を取り締まるためm上海に日本官員を置く交渉。2、日本に居留 する中国人竹渓らによる犯罪が日本律の死刑に当たるため、先に中国へ通報す

74 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-024-01-003 成林より総署宛「函肅與日本使臣辯論 各情並請給覆函再條約寄下由」

75 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-024-01-008 成林より総署宛「函肅接到日本照會已 遵即辦理飭撥恤賞等銀已交德繙譯手收並遣委員回京當差由」

76『大日本外交文書』3 巻頁 244-245。前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-024-01-015 曽 国藩より総署宛「咨報日本國差官回滬日期等情由」

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ること。という 2 件である。まず上海で日本官員を置く交渉について検討する。

1870 年 6 月 15 日、(同治 9 年・明治 3 年)日本民部省より外務省宛の公文 書によって、「今般御国地商人共へ別紙書面の意味を以及説得、差向き上海え 出店為取掛候積に付、為御心得別紙相添及御達置候也」また、「追て本文為取 締且外御用をも兼、品川通商権大佑、支那国へ差遣候条、是亦御承知有之度候」

77という記録が残っている。すなわち、民部省より通商権大佑に当たる品川忠 道を中国上海へ派遣させた理由は、1、日本国民が上海における通商を取り締 るため。2、「且外御用をも兼」ということである。

6 月 29 日、柳原前光をはじめとする中国への派遣という指令が下され、8 月 6 日に柳原一行は長崎より出航、8 月 9 日に上海に到着した。8 月 17 日、柳原 らは江蘇蘇松太道涂宗瀛と面会し、天津へ赴くため涂宗瀛よりの添書や導きを 願った後、8 月 23 日に上海租界会審事務江蘇輔用同知官である陳福勳に書簡 を送って、

我國士民之在上邦習藝貿販者,已不下數十名。至其生理,雖遵貴前台應公 咨覆所云,憑藉船牌報驗納稅,可遵成軌,無事更張之意,甚恐若輩逐日加 多,則難保無奸詭之徒,干闌以入…(中略)…。前光等議暫令通商權大佑品 川忠道、長崎縣少屬熊文夢,留在貴地約束我國士民,一照應公所示,咸使 循規蹈矩…(下略)…。78

と品川らを上海に置き、上海に居留する日本人を彼らに取り締まらせることを 陳福勳に求めた。翌日陳福勳は江蘇蘇松太道涂宗瀛に上申した。9 月 5 日に両 江総督曽国藩は上述の件を総署に、また 9 月 24 日に暫署上海通商大臣魁玉も 総署に公文書を作って報告した。

ところで、8 月 24 日に柳原らより外務大丞町田民部宛の公文書にも

上海えは皇国士民彼是三十余名も参り居候に付ては、取締官員無之ては甚 不都合の次第。尤先般来品川通商権大佑・神代長崎県権少属等両人、膺札 取調のため、出張は致し居候得共、是以て内密に等しき者故、今般同知官 陳福勳へ申入候…(中略)…。右陳福勳より道台涂宗瀛え転致候処、道台 返答に右人民取締のため、官員御差置の儀は御尤の次第、同人承知致候。

…(中略)…。右は兼て東京発足の節、画策申上候第三策にて、先つ上海

77『大日本外交文書』3 巻頁 193

78 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-023-01-033 暫署上海通商大臣魁玉より総署宛「咨報 據蘇松太道稟稱本國民人在滬日多暫令權大佑品川忠道等約束一案抄錄原稟咨呈由」

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へ官員を置、通商する丈は相済み申候…(下略)79

ということを書いてあるので、明らかに上述品川上海出張の第 2 任務である

「且外御用をも兼」は、上海で製造された日本膺札の調べであると推知できる。

また、柳原の言った「東京発足の節画策申上候第三策にて」によって、明らか に柳原が中国に出張する前、すでに中国との取り扱いに策略を作成したという ことも窺える。柳原の言った策略が今残されていないが、上述の引用から見て も、柳原にはすでに東京発足する前、中国に官員を置く計画があると察知でき る。

9 月 25 日に外務省は太政官に伺書を提出し、品川らを上海に置き、上海に 居留する日本人を彼らに取り締まらせると上申して、太政官より「可為伺之通 事」と指示された。そのため、80外務省は急ぐ上海へ公文書を発し、中日通商 条約が締結されたら、品川らの職が領事に当たるべしという指示を下した。81 ときに、柳原一行は 8 月 27 日に上海を離れ、9 月 4 日に天津に到着した。9 月 7 日に署三口通商大臣成林と面会し、中日間の締約について交渉してた。締 約について 10 月 5 日にやっと明らかになったら、柳原はまた成林に品川を上 海に置くことを求めた。10 月 6 日に成林より総署宛の上申によって、

昨日柳使等定議後,與成林商求二事。一以該國商人舊在上海貿易者,

計數十人。恐無人約束,或被外族挑唆滋生事端,擬先揀派一二小官在 彼料理一切。窺其舉動,尚非遽欲設官。…(中略)…。林思議約底之說,

既已力持未允,此二事尚無妨礙,未便再拒,因已當面許可,以示羈縻。

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と品川の件が成林に許されたということが窺える。

79『大日本外交文書』3 巻頁 209。柳原は外務大丞町田民部宛の公文書に、品川を上海に置く 件について、江蘇蘇松太道涂宗瀛より「官員御差置の儀は御尤の次第、同人承知致候」と返事 したが、前掲 近史所檔案館 外交部門 01-21-023-01-033 暫署上海通商大臣魁玉より総署宛

「咨報據蘇松太道稟稱本國民人在滬日多暫令權大佑品川忠道等約束一案抄錄原稟咨呈由」によ って、涂宗瀛は「察其來意,顯欲藉此在滬設官,與泰西各國領事無異。事關創始,職道未敢遽 允」と上司である魁玉に報告した。明らかに柳原が町田民部にの報告と相違っている。

80『大日本外交文書』3 巻頁 223-224

81『大日本外交文書』3 巻頁 225

82 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-024-01-003 成林より総署宛「函肅與日本使臣辯論各 情並請給覆函再條約寄下由」