第 3 節 中国態度の転換
3. 総署は態度を転換した理由
中国人の竹渓らが死刑に当たる件
1870 年(同治 9 年・明治 3 年)、日本で中国人による膺札製造事件が起こ られた。日本による調査で、それは神奈川に居留する中国人竹渓・横浜に居留 する峯吉・東京に居留する善吉と亜福より起こられたことである。竹渓・峯吉・
善吉は死刑に当たるが、亜福は徒 3 年と処された。故に、駐日各国公使と領事 より彼ら 4 人に対する嘆願が提出された。明治政府は断然死刑に処すると決め たが、念のため中国へ通達して中国よりの許しを得たら彼らを処刑することを 8 月 28 日に柳原に通達させた。83
9 月 29 日、柳原は照会を成林に送って、竹渓の件について中国よりの許し を得たいと説明した。8410 月 3 日に総署は成林よりの報告を得て、10 月 8 日に
「其應如何懲辦之處,仍由日本國自行酌核辦理」と指示を下した。85成林は 10 月 12 日に総署の指示を柳原に伝達した。10 月 27 日に柳原は外総署よりの返 答を務省に知らせた。86
3. 総署は態度を転換した理由
以上柳原前光らは 1870 年(同治 9 年・明治 3 年)に中国との交渉を検討し てきた。中日間の締約に関する総署の立場は、最初の通商のみを許して締約を 拒んだことより、締約を許したほうに転換したということが窺える。総署が立 場を転換したきっかけについて、今まで 2 説は提出されている。それは、1、
李鴻章の「今日本より提出した締約の求めを拒んだら、他日日本が欧米の仲介 を通して、再び中国に締約の要求を提出する恐れがある」建言によって、総署 は立場を変えたという説である。872、総署は成林の報告を通して、自ら柳原 が任務を成し遂げさせる決意を理解した故、中日間の締約を許した。李鴻章の
83『大日本外交文書』3 巻頁 211-212
84『大日本外交文書』3 巻頁 231
85 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-024-01-004 成林より総署宛「日本照會華民在該國 仿造官鈔一案應該國自行辦理由」
86 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-024-01-009 総署より成林宛「據日本照覆竹溪等官鈔 一案依日本律例辦理由」。『大日本外交文書』3 巻頁 237
87 藤村道生「明治初年におけるアジア政策の修正と中国-日清修好条規草案の検討-」(『名 古屋大学文学部研究論集‧史学』1967)44 巻 3 期頁 14。林子候「試論同治年間中日訂約經緯」(『東 方雜誌』1994)17 巻 2 期頁 39。徐越庭「「日清修好条規」の成立」-1-(『大阪市立大学法学雑 誌』1994),40 巻 2 期頁 208
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建言は総署が立場を転換するため取り上げた言い訳のみであるという説であ る。88
筆者の考察によって、藤村道生をはじめとする提出した「李鴻章の建言によ って、総署は立場を変えた」という学説は中国文献である『籌辦夷務始末』を 引用して得た結論で、李啓章より提出した「恭親王(総署王大臣の筆頭)得知 日方締約的意志已是『牢不可破』,拖延策略難以繼續,因此只得接受日本的要 求」、「(總署)利用李鴻章的說法來合理化本身方針的轉換,不過是一個藉口而已」
89という学説は台湾近代史研究所檔案館所蔵「總理各國事務衙門清檔」を引用 して提出されたものである。
藤村をはじめとする提出した結論は、『籌辦夷務始末』に記録されている恭 親王より 1870 年 10 月 18 日(同治 9 年・明治 3 年)に清廷宛の上申を引用し て、中に
…(上略)。查西洋各小國來華定約,均由英法為介紹,即倚英法為護符。此 次日本逕自派員前來,未必不視中國之允否以定將來之向背。…(中略)…。
與其將來必允,不如此時即明示允意,以安其心。前經直隸總督李鴻章函致 臣衙門,亦係敘述此意。…(下略)90
と清廷に報告した。上述の上申は明らかに 9 月 20 日に李鴻章と署三口通商大 臣成林との談話内容で、成林を通して総署に報告したものである。91そのため、
藤村らは総署の立場を変えたのが李鴻章の建言であると結論をつけている。
一方、李啓章は台湾近代史研究所檔案館所蔵「總理各國事務衙門清檔」にお ける 10 月 6 日に成林より総署宛の書簡を引用して、
…(上略)。至成林履次與柳使辯論,均以李協揆為波折。即昨日面晤該使,
猶告以總理衙門改給覆文一節,亦係李協揆加信寄去等語。此番王爺大人所 給覆函,儘可仍援李協揆為轉彎之據,且與成林連次所告之言相符。…(下 略)92
と総署立場の転換に関する言い訳について、成林が総署に以上のようにアドバ
88 李啟彰「近代中日關係的起點─1870 年中日締約交涉的檢討」(『台灣中央研究院近代史研究 所集刊』2011)72 期 頁 55-101
89 李啟彰「近代中日關係的起點─1870 年中日締約交涉的檢討」頁 92-93
90『籌弁夷務始末』78 巻頁 7197
91 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-023-01-027 成林より総署宛「函肅日本議約等情由」
92 前掲 近史所檔案館 外交部門 №01-21-024-01-003 成林より総署宛「函肅與日本使臣辯論 各情並請給覆函再條約寄下由」
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信した。また、李鴻章は日本との締約に対して、津海関道陳欽に柳原草案を審 議させた。陳欽は柳原草案を検討したら、柳原草案を基づいて中国側の条約草 案を作成して、李鴻章を通して草案を総署に捧げた。そのため、総署は 12 月 29 日に中国側の草案をもとに日本と締約交渉を進めようという前提で、日本 との締約を許した。
以上、1870 年 11 月 22 日より 12 月 29 日(同治 9 年・明治 3 年)まで、李 鴻章と総署との間に往復した公文書の検討によって、総署が 1870 年 10 月(同 治 9 年・明治 3 年)に日本と締約することを許したのは、確かに日本を遷延す るためのみであると推知できる。総署は 10 月 12 日に日本との締約を許した照 復を柳原に渡しても、実に日本と締約したくなかったと察知できる。総署がは っきり日本との締約を許したのは、李鴻章が陳欽の作った条約草案を総署に捧 げた後のことであるということが窺える。
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まとめ
以上、1862 年より 1870 年(同治元年・文久 2 年-同治 9 年・明治 3 年)ま で中日間の交渉過程を検討してきた。以上の検討によって、日本は 1862 年よ り 1868 年(同治元年・文久 2 年-同治 7 年・明治元年)まで中国と交渉する 目的は、1、中国と通商したかった。2、在日中国人の取り締まり方を中国と定 める。続いて 1869 年(同治 8 年・明治 2 年)になると、日朝国交中断問題の 解決という視点は始めて中国と通交しべき論説に加わってきた。さらに 1870 年(同治 9 年・明治 3 年)に入ると、外務省は列強に中国を分割する意図があ ることにに注意しはじめ、太政官に中国を「経略」する遠図を抱くべしと建言 した。ちょうど 1870 年(同治 9 年・明治 3 年)4 月から 5 月にかけて、中国 で天津教案が起こったため、日本の中国遣使に拍車をかけた。
1870 年(同治 9 年・明治 3 年)における中日間の交渉過程を検討すれば、
当時日本が中国に対する意図は、以下のようにまとめられる。まず、日本は当 時すでに中国を侵略する意図を持っていたと思われている。それは外務省が太 政官に「中国を『経略』する遠図を抱くべし」という建言、また柳原が中国上 海で中国全国の地図を 8 幅外務省に献上したことより推知できる。
また、日本は中国と友好条約をまだ締結していないうちに、1、品川忠道を 上海へ派遣して彼に在中国日本人を取り締まらせたこと。2、柳原が日本との 締約を許した総署の照復をもらった後、明治政府は急ぐ公文書を上海に発し、
中国と締約したら品川を日本領事の職に当てさせるのを通告したこと。という ことによって、日本は中国に国権を伸張する強烈な意図を持っていたと窺える。
さらに、柳原前光が中国に提出した柳原草案は、中国と日本が対等的国家関 係であることを主張しながら、列強と同じような権利を中国より取ろうとする 意図も含まれいている。
一方、中国側が日本にの態度は以下のようにまとめられる。柳原が天津で中 国側との交渉過程を考察すれば、明らかに総署は終始日本との締約を拒否して いる態度を示していた。それはなぜかというと、総署は 9 月 10 日に李鴻章に 送った書簡に、「惟是中外交涉,浮雲蒼狗,變幻無窮,前史歷歷,諸祈秘密」
と答案が窺えると思われている。総署は日本との締約を許した照復を柳原に渡 しても、実には日本と締約したくなかった。総署が態度を変えた契機は、李鴻 章が陳欽の作成した条約草案を総署に献上したのであると思われている。とこ ろで、陳欽が作成した条約草案について、本稿の第 3 章で検討する。
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しかし、総署の拒否に対して、李鴻章は連日抗欧、及び日本を牽制する立場 より明白に日本と締約すべしと態度を示している。また、9 月 24 日に総署よ り清廷宛、日本が中国との締約を求める報告に対して、清廷もまったく拒否し ない態度を示した。そのため、当時中国における日本との締約に影響力、ある いは決定権を持っている 3 方、すなわち清廷・総署・李鴻章のうち、総署しか 日本との締約を拒否していなかったということが推知できる。
しかし、総署の拒否に対して、李鴻章は連日抗欧、及び日本を牽制する立場 より明白に日本と締約すべしと態度を示している。また、9 月 24 日に総署よ り清廷宛、日本が中国との締約を求める報告に対して、清廷もまったく拒否し ない態度を示した。そのため、当時中国における日本との締約に影響力、ある いは決定権を持っている 3 方、すなわち清廷・総署・李鴻章のうち、総署しか 日本との締約を拒否していなかったということが推知できる。