一方、伊達らが条約の締結した後、「北京に赴き、総署王大臣らを訪れたい」
142 前掲『籌辦夷務始末』巻 82、頁 7537-7539
143 前掲『使清日記』頁 141、158-160
55
と李鴻章に頼んだ故、7 月 16 日に李鴻章は江蘇記名海関道孫士達に伊達一行 の嚮導をさせた。144
8 月 4 日、伊達一行は天津より出航、8 月 14 日に北京に到着して金魚胡同に ある賢良寺に泊まっていた。8 月 17 日、伊達らは総署王大臣らと面会、清廷 と恭親王らへの贈物を差し上げて、8 月 18 日に駐北京英・仏・米・魯・プロ シア公使を訪れた。145
8 月 24 日、総署王大臣らは伊達らの泊まる賢良寺に至り、清廷と恭親王が 明治天皇と伊達らへの礼物を送った。8 月 25 日、伊達らは各国駐北京公使に 告別した後、8 月 27 日に天津に向かって出航し、9 月 1 日に天津に着いた。146
伊達らは天津に到着した翌日、李鴻章・陳欽をはじめ、天津に駐在する中国 官員ら、また駐天津各国領事らに告別して、9 月 4 日に天津より上海に出航し た。147
ところで、伊達は 7 月 14 日に外務省に条約が既に調印されたと報告した後、
明治政府内部の激しい反発が起こったため、8 月 19 日に岩倉外務卿148に公文書 を作成し、
清朝総理各国事務衙門諸大臣を始め、条約全権李鴻章、幇弁応保時・陳欽 等の所意には、清人の日本に通商すること、明末清初よりして絡繹不絕。
又昨年中、前光等出使の節、説に日本人の清国に行きて通商するを欲する 而已ならす、日本国各港に充満する清人管束の法に乏しきの儀をも合述し たる脈絡有しを以て、逐条両国と掲載して約結いたし度趣に有之。是は情 実尤の儀にも有之、且実地上に於て、格別差支へも無之候に付、宗城、全 権の重嘱を辱し罷在候得は、便宜の処置を以て、此の意を斟酌し立約いた し候。
一 修好条規第二条中、「両国好みを通せし上は、必す相関切す。若し他 国より不公及ひ軽藐する事有る時、其知らせを為さは、何れも互いに相助 け、或は中に入り程克く取扱ひ、友誼を敦くすべし」。右は宗城等発帆前
144 前掲 近史研究所檔案館 外交部門 №01-21-051-01-008 李鴻章より総署宛「函述與日本辦 理換約會晤辯論各情由」。前掲『使清日記』頁 144
145 前掲『使清日記』頁 177、181-187
146 前掲『使清日記』頁 195、209、211
147 前掲『使清日記』頁 213、215
148 日本内閣修史局『百官履歴』上巻(日本史籍協会、1928)頁 30-33、37-41、71-72。1871 年 6 月から 7 月にかけて(同治 10 年・明治 4 年)、明治政府内部には大変動があった。6 月 25 日、西郷隆盛は参議に就任。6 月 27 日、大久保利通は伊達宗城に代わって大蔵卿に就職。7 月 14 日、元の外務卿沢宣嘉に代わり、岩倉具視は外務卿に就任した。
56
に方りて、外国公使論に、「清国と犄角連衡の約を修せは、日本の福に非 す」云々申出候に付、政府に於ても御配意有之候末、故彼より申出候共、
断然拒絶候心得に有之候処、李鴻章等より、「和清の際は同文同風の隣邦 にして、他国に比較すへきに非す」…(中略)…。就ては再三回考、同行 諸員共会議仕候処、彼の云ふ所は、専ら善隣の意より出て候事柄に有之。
…(中略)…。加之既に米国の先例も有之、且前件の文面上を案視すれは、
犄角連衡して攻守相助くといふ義も無之。…(下略)149
と説明した。上述伊達より岩倉宛の報告によって、明らかに明治政府が日清修 好条規を忌むところは、1、条文を逐条掲載していること。2、第 2 条相助けの 決まりが載せられていること。であると察知できる。
しかしながら、岩倉は伊達の説明をもらっても納得できなく、8 月 29 日に 書簡を作成して、外務大記花房義質をして上海まで送らせて、伊達一行の帰航 を促した。
…(上略)第二条の儀に付ては、猶次便御報知可有之との儀もいさゐ致し 承知候処、右二ヶ条、両国別段の交誼云々の廉は、不容易筋にて、第一自 主立国の主権に障碍有之。第二は既に柳原初御承知の通、当地御出発已前、
米国公使より云々申出、猶仏公使よりも論議の趣も有之。米国の方は新聞 紙に書載有之廉、更に新聞紙を以て及弁解候義も有之、誓て両国の間、別 段の交誼を立ず、北独逸条約に効、各国平等の体裁に約定可被致筈にて、
其趣意を以御委任相成候儀の処、右緊要の廉、返て徹底不致、拙者共一同 致驚愕候間、不取敢其段政府へも申立候処、同様の義にて、此の儘被差置 候ては西洋各国交際に取不信を取候は勿論、往々国家の御難題を醸出可致 も難計筋に付…(下略)。150
上述岩倉書簡の内容をまとめれば、明らかに伊達らが清国に出航する前、米・
仏駐日公使は明治政府に「中国と攻守同盟条約を締結するか」と詰問したと窺 える。そのため、明治政府は日清修好条規第 2 条の相助けの決まりを忌んでい て、それが日本の「自主立国」(すなわち「条約改正」)を妨げるものである と見なしていた。
伊達らは 9 月 8 日に上海に到着した間もなく、花房義質も岩倉外務卿の書簡 を上海まで携行してきた故、伊達一行は 9 月 9 日に駐上海各国領事らに、9 月
149 前掲『大日本外交文書』4巻 頁 236-237
150 前掲『大日本外交文書』4巻 頁 238