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西暦 中国暦 和暦 主要事件 1870 年 同治 9 年 明治 3 年

6/22 5/24 日本外務省は中国を経略する遠図を抱くべ きと太政官に建言。

7/23 6/25 中国で起こった天津教案事件のため、日本 外務省は中国への遣使を太政官に促した。

7/27 6/29 太政官は柳原前光に遣中国使節を指名した 9/1 8/6 柳原一行は上海に向かって出発。

9/28 9/4 柳原一行は上海を経由して天津に到着。

10/1 9/7 柳原は成林と面会、中日間の締約交渉を開 始。

10/4 9/10 李鴻章は日本と締約すべきと総署に建言。

10/5 9/11 成林は総署王大臣の名義で書簡を柳原に送 って、中国の成例によって締約国使節でな かれば、北京に赴けないと告げた。しかし、

柳原は書簡の内容を中日間の締約に関し て、成林と商議すれば宜しいと誤解した。

10/7 9/13 成林は総署に総署から柳原宛、柳原の北京 行きを阻止する書簡を求めた。

10/10 9/16 柳原は柳原草案を成林に渡した。

10/11 9/17 成林は再び総署に総署から柳原宛の書簡を 求めた。

10/13 9/19 総署は大信不約という柳原宛の照会を成林 に送った。

10/14 9/20 成林は柳原草案を総署に渡し、柳原がかた く中日間の締約を成し遂げようと報告した が、総署は大信不約の決議を固持した。一 方、成林は李鴻章を訪れ、柳原の件に関す る意見を李に求めた。李は日本との締約を 拒んだら、日本が欧米の介入を求めるおそ

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れがあると提出した。

10/16 9/22 成林は総署に李鴻章が 9/20 提出した意見を 伝達した。一方、柳原は曽国藩、李鴻章、

成林を訪れて、彼等に総署の決議を変えよ うと頼んだ。成林は再び総署に柳原が中日 間の締約を成し遂げる意志を報告した。

10/18 9/24 恭親王は清廷に日本が中国と友好条約の締 結を求めることを報告した。それについて、

恭親王は日本の反応次第処置しようという 策略を提出して、清廷の同意を得た。翌日、

この決議を成林に伝達した。

10/22 9/28 成林は総署に柳原が先に中国と仮条約を商 議しようと固持していたことを報告した。

10/25 10/1 総署は態度を変えて、欧米の介入のおそれ があるため、先に柳原と条約を商議するこ とを拒んだが、日本との締約を許した照復 を起草して柳原に渡すことを提出した。

11/1 10/8 総署は日本外務卿宛、日本との締約を許し た照復を成林に送った。

11/12 10/19 柳原は天津を離れて、上海を経由して帰国 した。

11/18 10/26 清廷は安徽巡撫英翰からの上申書を曽国藩 と李鴻章に渡せよと命じた。

1871 年 同治 10 年 明治 4 年 1/22 同治 9 年

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李鴻章は英翰の上申に対して、日本を牽制 できる立場から日本との締約を賛成した。

3/9 1/19 曽国藩は日本との条約で最恵国待遇と「中 国と欧米との先例に同じく取り扱う」など の条文を挿入できないという建言を清廷に 捧げた。同日、清廷は李鴻章に曽国藩の建 言に従って日本との締約を用意しろと命じ た。

6/15 4/28 日本は伊達宗城を遣中国締約正使と命じた

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6 月 5 月 新聞紙は日本と中国と攻守同盟条約を締結 すると掲載した。

6/25 5/10 外務大輔の寺島宗則は日本と中国との条約 が中国と欧米と締結したもののように締結 すると公表した。

7/3 5/18 伊達一行は日本から出発。

7/9 5/22 清廷は李鴻章を締約全権と命じた。

7/23 6/6 伊達一行は上海を経由して、天津に到着。

8/4 6/18 柳原等はぜひ日本側の条約草案をもとに、

中日間の締約交渉を行おうと中国に要求し た。

8/7 6/21 中国締約幇弁の陳欽は中国側の条約草案を もとに、締約交渉を行わなければ、中日間 の締約をやめようと日本側に脅威した。

8/17 7/2 伊達らは中国の条約草案を採用して修正し てから、中国締約幇弁の応寶時に渡した。

8/19 7/4 応寶時らと柳原らと条約約首に日本天皇の 号を掲載することと条文で中国を清国に記 すること、また中国における日本の最恵国 待遇について、交渉した。

8/23 7/8 李鴻章らと伊達らと面会して、日本の提出 した要求について交渉した。

8/29 7/14 伊達は日清修好条規が調印されたと外務卿 岩倉具視に報告。

9/13 7/29 日清修好条規が調印された。

9/18 8/4 伊達らは北京に赴き、総署を訪れる。

10/8 8/27 伊達らは北京を離れ、天津・上海を経由し て帰国した。

10/10 8/29 外務卿岩倉は伊達らを早速帰国しろと命じ た。

11/1 9/19 伊達一行は横浜に到着。

1872 年 同治 11 年 明治 5 年

1 月 同治 10 年 外務卿副島種臣は日清修好条規の一部の条

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12 月 文を直しようと総署と李鴻章宛の照会を作 成した。

3 月 2 月 日本は日清修好条規を公表した。駐日米 国・仏国・独国公使は外務省に日清修好条 規第 2 条条文が中日間の攻守同盟条約であ るかと伺った。

4/17 3/8 柳原前光一行は日本から出発。

4/24 3/17 駐日本独国公使は外務卿副島に日清修好条 規第 2 条・第 15 条が不適当であると告げた。

5/6 3/29 柳原らは上海を経由して、天津に到着。

5/7 4/1 柳原は李鴻章との面会を求めたが、拒まれ た。

5/15 4/9 柳原らは李鴻章と陳欽と面会して、日清修 好条規の改正を交渉した。

5/17 4/11 柳原らは陳欽と条約改正について面会して 交渉した。

6/18 5/13 柳原は照会を陳欽に渡して、条約改正に関 する中国の返答を促した。

6/27 5/22 陳欽は条約改正に関する中国の決議を柳原 に知らせた。

7/9 6/4 柳原らは天津を離れた。

8/11 7/8 柳原らは上海・長崎を経由して帰京した。

8/21 7/13 副島外務卿は日清修好条規第 2 条をそのま ま残すという処分書を太政官に提出。

12/29 11/19 明治天皇は日清修好条規を中国と交換する ため、副島外務卿に中国に出張しろと命じ た。

1873 同治 12 年 明治 6 年

2/17 1/20 清廷は李鴻章を日本と日清修好条規を交換 する全権と命じた。

2/28 2/2 柳原と樺山資紀らは上海に向かって日本か ら出発。

3/9 2/11 明治天皇は宮古島島民遭難事件を中国に申

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理しろと副島に命じた。一方、太政官も中 国との友好を破るなと副島に指示した。

3/11 2/13 樺山資紀は鳳凰山にある軍営を探察した。

3/12 2/14 副島らは日本から出発。

4/20 3/24 副島らは長崎・上海を経由して、天津に到 着。

4/30 4/4 李鴻章と副島は日清修好条規を交換した。

5/5 4/9 副島らは北京に向かって出発した。

5/7 4/11 副島らは北京に到着。

5/14 4/18 清帝にの謁見問題について、副島は総署と 交渉を開始。

6/19 5/25 副島は清帝にの謁見を諦めて帰国すると決 めた。

6/21 5/27 柳原らは総署に日本が台湾を攻めると告げ た。

6/23 5/29 総署は副島の要求、三揖・頭班で清帝に謁 見することを同意。

6/29 6/5 副島は清帝に謁見した。

7/4 6/10 副島らは北京を離れた。

7/27 閏 6/3 副島は天津・長崎を経由して帰京した。