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第一章 権力者と宗教統制

第一節 信長・秀吉の宗教統制

第一章 権力者と宗教統制

第一節 信長・秀吉の宗教統制

前近代における政治権力と宗教権力との関係を見てみると、新しい統一権力 が成立していく中で、宗教は権力の対立面に立つことが多かった。戦国の世が 終わり、統一政権が確立する過程の中で、強大な仏教勢力はしばしば権力者に 大きな問題をもたらした。中世末期には、天台宗・真言宗など平安時代以来の 旧仏教は修験道との結合によって信者を獲得し、曹洞宗・浄土真宗など鎌倉時 代以来の新仏教は、葬祭と結びついて庶民の信仰者層を飛躍的に拡大した。ま た、同じ鎌倉新仏教に属する日蓮宗も富裕な都市民の中に浸透していった。宗 教勢力の武装化も顕著に見られ、本願寺・延暦寺・高野山・粉河寺などの寺院 勢力は、武装兵力を貯えて、一つの宗教的地域権力を構築した。それぞれ強大 な力を持っていた仏教勢力は、権力者の厳しい弾圧により、その力が剥がれて いた。それにもかかわらず、執拗に封建領主批判を行う新仏教の日蓮宗・浄土 真宗は庶民の絶対的支持を得て健在していた。

まず、日蓮宗についてみれば、日蓮宗は、不受不施(『法華経』信者以外の 人の布施を受けず、施しもしない)という厳格な立場を取った。天正七年(一 五七九)五月、織田信長が安土城下の浄土宗浄厳院で行なわせた浄土宗と日蓮 宗との論争「安土宗論」1以来、その不受不施派に対する権力者の弾圧が強く なっていた。そのために不受不施派はますます尖鋭化していった。京都妙覚寺 の僧日奥(一五五六~一六三〇)は文禄四年(一五九五)豊臣秀吉主催の千僧 供養会での出仕を拒否し、徳川家康の出仕命令にも従わなかった。寛文五年(一 六六五)、不受不施派は徳川幕府に禁止され、以後地下に潜んで信仰を守った。

また浄土真宗(一向宗)門徒の場合は、真宗は徳川家康が大名領国形成の過 程で、しばしばその統一を妨害している。古くから浄土真宗信仰が盛んでいた

1 天正七年(一五七九)、織田信長の命令で安土城下で行われた浄土宗と日蓮宗の宗論である。

結局この論争は浄土宗の勝ちとなり、日蓮宗側は詫び証文を書かされるなど厳しく処罰され た。これは、日蓮宗の勢力増大を嫌った信長の計画的な弾圧とされる。菊地勇次郎「安土宗 論」、『国史大辞典』、吉川弘文館、ジャパンナレッジ(オンラインデータベース)。

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三河には、三河三ヶ寺(本証寺、上宮寺、勝鬘寺)及び本宗寺を中心として、

強固な教団が編成されていた。不入特権を主張する三河三ヶ寺と、教団の利権 を解体して三河国統一を目指す徳川家康との対立が深まり、守護使不入の特権 が侵害されたことに端を発して、永禄六年(一五六三)九月に、真宗門徒は一 向一揆を引き起こした。門徒の中に家康の有力家臣たちも含まれていた。一揆 方と家康の戦いは、翌年二月まで断続的に続き、三月に至り和議が成立した。

徳川家康はそれを鎮定したが、安心ができず、平定後の永禄七年(一五六四)

五月、家康は浄土真宗方に改宗を命じた。これにともない、寺院や道場が破壊 され、坊主が追放され、武士門徒の多くも転宗させられた。その後約二十年間、

三河では浄土真宗は禁止された。

浄土真宗を厳しく抑圧した家康に先行して、仏教には殊のほか弾圧を加え、

更に厳しい姿勢で臨んだのは織田信長であった。信長は統一権力を形成する過 程で、繰り返して仏教勢力と対決した。長享二年(一四八八)に起こった「長 享の一揆」(加賀一向一揆)の蜂起を始め、本願寺は反信長戦線側に立った。

本願寺顕如は法敵信長を打倒するために、北陸、畿内の摂津・近国の伊勢で激 烈な抗争をした。天正八年(一五八〇)の顕如の石山本願寺退去によって、信 長の畿内統一政権は確立した。

元亀二年(一五七一)九月に、信長は比叡山延暦寺に対して全山焼き討ちを していた。『信長公記』元亀二年九月十二日の条には、信長が徹底した弾圧を 行っている様子が下記の通りである。

九月十二日、叡山を取詰め、根本中堂・三王廿一杜を初め奉り、霊仏・霊 杜・僧坊・経巻一宇も残さず、一時に雲霞のごとく焼き払ひ、灰燼之地と 為社哀れなれ。山下の男女老若、右往・左往に癈忘を致し、取物も取敢へ ず、悉くかちはだしにて八王寺山へ迯上り、杜内へ迯籠、諸卒四方より鬨 音を上げて攻め上る。僧俗・児童・智者・上人一々に頸をきり、信長公の 御目に懸け、是は山頭において、其隠なき高僧・貴僧・有智の僧と申し、

其外美女・小童其員を知らず召捕り、召列れ御前へ参り、悪僧の儀は是非 に及ばず、是は御扶けなされ侯へと声々に申上侯といへとも、中々御許容 なく、一々に頸を打落され、目も当てられぬ有様なり。数千の屍算を乱し、

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哀れなる仕合なり。年来の御胸朦を散ぜられ訖。2

と記載されたように、信長が比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、勢を山にのぼら せて、根本中堂・山王二十一社をはじめ、霊仏・霊社・経巻のことごとく、一 宇も残すところなく焼き払わせた。これにより叡山は一日にして灰燼の地と化 してしまった。老若男女問わず数千人を焼き殺したという、なかなか残酷な一 面が描かれている。

また、信長は伊勢長島、紀州雑賀、越前などで浄土真宗を信仰する一向一揆 と戦い、最後には石山本願寺で顕如の率いる勢力と対決した。

信長の対一向一揆戦略は、降伏を乞うても許さず、全滅策を採ったというこ とである。越前で浄土真宗を討伐した信長は、その時のことを京都所司代の村 井貞勝に八月一七日付の書状でこう記している。

府中へ十五日夜中ニ相越候て、二手ニつくり相待候処、如案五間・三間つゝ にけかゝり候を、府中町にて千五百ほとくひをきり、其外近辺にて都合二 千余きり候、大将分者西光寺・下間和泉(頼総)・若林討取候、若林仮名 可書候へ共、それの名ニまきれ候て、如何之間不書候、定くせものにて候 間、不可有隠候、即両日之間ニ一国平均ニ申付候、府中町ハ、死かい計に て一円あき所なく候、見せ度候、今日ハ山々谷々を尋捜可打果候3

上記の内容から、完全に崩壊した一揆勢に対し、信長は殲滅の手をゆるめず、

府中で千五百ほど首を斬り、近辺でも二千あまり斬殺された。この書面により、

当時の鎮圧した惨状を窺い知ることが出来る。

信長と敵対した一向一揆衆の多くは、地元の農民門徒、在地武士、漁師、鍛 冶屋などの職人により組織されたのである。加賀では「百姓の持ちたる国」と いう門徒より成立した一つ地域自治組織が形成された。真宗門徒は「自らを〈王 孫〉あるいは〈公儀の御百姓〉と捉え、本願寺の聖なる支配者を〈国王〉にし ようと公言した。」「一向宗の徒は、最高権威である王すなわち天皇、あるいは

2 奥野高広・岩沢愿彦校註『信長公記』(角川書店、一九六九年)127 頁。

3 奥野高広『織田信長文書の研究〈下巻〉』(吉川弘文館、一九七三年)62 頁。

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本願寺の聖人と自分たちとの間にどんな介在者も許さなかった。」4という、農 民門徒は新しい大名勢力に対抗する立場を取った。門徒にとって、最高権威で ある天皇あるいは本願寺の最高指導者と自分たちの間に、信長みたいな中間権 力者の介在は拒絶されたものである。

「タヽフカクネカフヘキハ、後生ナリ。マタタノムヘキハ弥陀如来ナリ。信 心決定シテマヒルヘキハ安養ノ浄土ナリトオモフヘキナリ」5という蓮如の教 えのように、弥陀一仏をひたすら信じ、後世を願う。そして信心が定まったら、

念仏を「仏恩報謝」と見做す。そしたら、阿弥陀如来に救われ、後生の一大事 が解決されて、いつ死んでも浄土往生間違いない身になることである。仏法の ために死ぬのは、阿弥陀と親鸞に対する報謝であり、「救済への確かな保証と なる」6のであるという。こうした「死を恐れずに敢然と敵に立ち向かう」真 宗門徒の持つ宗教観が、支配の邪魔という点に気付いた信長は、一向一揆を残 虐に殲滅する理由は恐らくここにあると考えられる。

また高野山に対して、信長は天正九年(一五八一)八月高野聖そのほか、高 野山から諸国に赴いている僧一三八三人を安土および京都の七条河原におい て殺害し、そのうえ高野山破却を宣言した。その後も高野山征伐が続けられた が、それが、天正十年(一五八二)六月本能寺の変で信長の横死により中止さ れた。信長の後継者として台頭してきた豊臣秀吉はその意志を受け継ぎ、天正

また高野山に対して、信長は天正九年(一五八一)八月高野聖そのほか、高 野山から諸国に赴いている僧一三八三人を安土および京都の七条河原におい て殺害し、そのうえ高野山破却を宣言した。その後も高野山征伐が続けられた が、それが、天正十年(一五八二)六月本能寺の変で信長の横死により中止さ れた。信長の後継者として台頭してきた豊臣秀吉はその意志を受け継ぎ、天正