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第二章 近世における排仏論と寺社整理

第一節 近世の排仏論

一般に近世仏教に対する評価は、封建仏教、形式仏教、堕落仏教などの表現 が多用されている。十七世紀初頭に成立した江戸幕府の宗教政策は、仏教諸宗 と神社神道を封建宗教として固定化したものである。江戸幕府は寺社領を封土 化し、寺院を権力の支配下に置いた。

まずは、寺社奉行の設置により、僧尼の監督が強化された。寺社奉行は、選 ばれた寺社即ち「触頭」を通じて、徹底的な支配を図る。

また、宗門改め、寺請制という仏教勢力を封建支配の一環に位置づけた統制 制度は、キリシタン禁止のため、新設された。キリシタン信者ではないことを 定期的に検証する宗門改め制は、人民を監視するためのものであり、寺院が檀 徒の身柄を保障する寺請け制は、寺院に封建支配の末端として、人民管理の役 割を課した。民衆は、特定の寺院の檀徒となる事が強制され、旅行も嫁入りも、

檀那寺の住職の証文が必要であった。神職は公的身分であったが、その家族は いずれかの寺院の檀徒に帰属せねばならなかった。葬式も、檀那寺による仏葬 以外は、原則として許されなかった。こうして仏教を国教に相当するものとし ての公的地位が保障され、各宗寺院は、人民の戸籍を掌握して、封建支配機構 の一翼を担うこととなったのである。

だが、本山、本寺に定例や臨時の上納金を納める義務があったため、経営を 圧迫され末寺が末寺役などの大部分を檀家に転嫁し、寺請証文の拒否や葬儀の 際に引導を渡すことの拒否を武器に、檀家の締め付けを盛んに行った。

寺請制度の施行による檀家制度の弊害は、封建支配における矛盾を激化し、

寺院・僧侶を攻撃する理論が活発に行われていた。近世の排仏論を大別すると、

概ね儒学者と国学者の排仏論が分けられる。まず、儒学者の排仏論から触れて みよう。

藤原惺窩(一五六一~一六一九)は安土桃山時代の儒学者で、近世儒学の祖 と言われ、門人に林羅山(一五八三~一六五七)がいる。惺窩の排仏論は仏法

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そのものを否定するのではなく、現時点における仏教説のあり方、僧侶の生活 を批判していた。惺窩は『千代もと草』に仏教に対する批判を以下の通り示し た。

「今の世の出家たち、身のすぎわいの中たちに仏法をとくによりてみな人 心まようなり、釈迦如来のぢきの弟子、阿難加葉をはじめて、欲にこゝろ をけがされまじきために、一物をも身にたくはへずして、毎日古事記に出 て、其日其日の食ばかりをもとめたまふ、、今時に出家たち賊宝をつみた くわえ、堂寺に金銀をちりばめ、あやにしきを身にまとう、祈り祈祷をな して、後生をたすけんといひて、人のこゝろをまよはする事、佛の本意に もあらず、まして神道のこゝろにもかなはず、世のさまたげとなるものは、

出家の道なり、1

上記に引用した通り、惺窩は僧侶の堕落を非難している。彼の思想は排仏論の 先駆として注目されて、排仏論を促進する発端となっていたのである。

林羅山は幕府の儒学者で、藤原惺窩に朱子学を学んだ。慶長十年(一六〇五)

将軍徳川家康につかえ、以後四代の将軍の侍講をつとめる。法令の制定、外交 文書の起草、典礼の調査・整備などにもかかわって、幕府の文教政策の中心人 物として大きな力を発揮した。

林羅山は儒学を官学を引き上げることに意を用いており、仏教を強烈に批判 した。仏教が現世の人間の問題を回避して、来世を説き虚説を述べていると非 難し、その現実軽視の傾向から寺院・僧侶の浪費・堕落まで追及している2。 なお、仏教排斥は幕府文教の枢要な任務に属するものであるため、羅山の意見 は幕府首脳の意見と見てよかろう3

また、同じ朱子学者の山崎闇斎(一六一九~八二年)は、晩年、朱子学と習

1 井上哲次郎・蟹江義丸共編『日本倫理彙編』巻之七(育成会、一九〇二年)41 頁。

2 岩城隆利「林羅山」、日本歴史大辞典編集委員会『日本歴史大辞典第 8 巻 は-ま』(河出書 房新社)一九七九年。

3 石田一良「林羅山」、『日本大百科全書』、小学館、ジャパンナレッジ(オンラインデータベ ース)。

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合した「垂加神道」4を唱えた。彼は唐の韓愈の言葉を借りて、仏教を異端邪 説と批判した。仏教をに反感を持つ闇斎は、釈教を夷狄の宗教とする。そして 仏教は君臣・父子・夫婦などの間の秩序を否定し、仁義忠孝の人倫の道に反す るものであるから、神国日本人の奉ずべきものではないと主張した。

次いで、陽明学者の祖と言われる中江藤樹(一六〇八~一六四八)と、その 門人の熊澤蕃山(一六一九~一六九一)とは有名な排仏論者である。中江藤樹 は『翁問答』で仏教の本質・教義などに批判の目を向けている。

元来釈迦達磨の法を立めされたる心根は、衆生のまよひてあさましきてい をあわれみ、かなしびて、色々さま/\゛の寓言を立、勧善懲悪のためな れば、一段殊勝なれども、その徳狂者なる上に天竺戎の風俗をもとゝして 立たる教えの法なるによつて、逸狂偏僻なることばかりなりその上すゝむ るところの善、真実無妄の至善にあらず、三才一貫中庸精微の至道にそむ きて、人極のさまたげとなること多し。(『翁問答』下巻之末)5

まず、仏教の本質は日本の国情にそぐわないもので、仏法は狂者の教えである としている。さらに、排仏論を現実の政治の中で実施しているのが熊澤蕃山で あった。熊澤蕃山は岡山藩主池田光政につかえて、藩制の担当者としてその手 腕を活かし、治山・治水・明暦の飢饉対策などに力を発揮した。

熊澤蕃山は僧侶の頽廃の原因が寺請制度にあると批判し、檀家制度の廃止を 唱えている。そして寺院経済の縮小論を主張し、建築の抑制、寺領の縮小、寄 進の制限、新建禁止などを通して、寺院経済の民衆に対する圧迫の改善を図っ ていた。蕃山はまた『大学或問』に次のように述べている。

乱世の不自由なるによりて、寺の務おろそかならん、万人に百人の真の出

4 江戸初期に、山崎闇斎が提唱した神道説。朱子学者の山崎闇斎は、朱子学や吉田神道・伊勢 神道などを集大成した独自の思想。儒教的な敬みの徳や天と人との融合を説く。また、神道 の核心は皇統の護持にあるとする。天照大神の神勅「神垂は祈祷を以て先とし、冥加が正直 を以て本とせり」(『倭姫命世記』など)を重視して、自身の霊社号を「垂加」とした。岡田 荘司『日本神道史』(吉川弘文館、二〇一〇年)206 頁。

5 山井湧・山下龍二・加地伸行・尾藤正英校註『日本思想大系 29 中江藤樹』(岩波書店、一九 七四年)119 頁。

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家は、其時とても法力にて今日の飢はすくはるべし。千人の人たちざる出 家も、人のあはれみにて、かつ/\乞食し暮すもあるべし。餓死するもあ るべし。其外は盗賊と成てうちうたれて亡ぶべし。堂寺は一度焼れなば、

二たひ建事あらじ。残たるも狐狸の栖となるべし。出家の無道にて盛なる は亡ぶべき天命ならずや。此必然の理をしらで、いつまでもかくのごとく 繁昌ならんと思へるははかなき事なり。6

この引用から、民衆が相次いで出家することについて、蕃山は憂いを感じた事 が分かる。

一方、古学派では、山鹿素行(一六二二~一六八五)は『山鹿語類』巻三十 三では、次のような意見を示している。

彝倫之道者、人之自然、而其所致有自然之則、其功易成、其生易遂、釈氏 以此為妄為幻、令人同木石、内外自他脱去而后為得其極、其道豈可得哉、

故終髠髪離倫為桑門之徒、以為厭離穢土、其行法衣食居、尤近禽獣、或曰、

四民各居其職、又可修此道、然其所師離彝倫、今所学、其極不至髠髪離倫、

則不可謂実学、天下如此乃無四民之業、国家頓廃壞去矣7

という。そして江戸中期の儒学者荻生徂徠(一六六六~一七二八)も、「それ 仏には天下を安ずるの道なし。あに以て仁となすに足らんぞ」(『弁道』)8と述 べ、仏教の反倫理性を非難した。さらに、徂徠は幕藩権力の宗教制度、政策が 形式主義的なものであり、人々の内面に立ち入らない欠陥を有する批判した。

さらに、徂徠は政治権力が「天・命・鬼・神」を祭祀することの重要性を説 いた9。徂徠のこの思想を受け継いたのは太宰春台(一六八〇~一七四七)で あった。太宰春台は、「祭礼ハ天神地祇人鬼ヲ祭ル儀式也、天地山川社禝ヲ祭 ルハ天子諸侯ノ事也、父母先祖ヲ祭ルハ天子ヨリ庶人迄一同也」(『経済録』巻

6 後藤陽一・友枝龍太郎校注『日本思想大系 30 熊沢蕃山』(岩波書店、一九七一年)446 頁。

7 田原嗣郎・守本順一郎校注『日本思想大系 32 山鹿素行』(岩波書店、一九七〇年)369 頁。

7 田原嗣郎・守本順一郎校注『日本思想大系 32 山鹿素行』(岩波書店、一九七〇年)369 頁。