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第三章 維新政府の諸政策と民衆の動向

第三節 神仏分離の諸相

第三節 神仏分離の諸相

慶応四年(一八六八)三月の神祇事務局達の別当・社僧の復飾命令を始め、

一連の宗教政策は、神社を支配している仏教勢力を排除した。

仏教勢力からの独立をかねてから求めてきた各地の神職や復古神道家は、こ れを機に離檀・毀仏・廃寺・神葬祭などの実際行動を開始した。幕藩体制下の 仏教の堕落に対して反感を持っている民衆も行動に巻き込まれ、やがて全国的

15 文部省宗教局編『宗教制度調査資料』第二巻、5 頁。

16 同前、10 頁。

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な廃仏毀釈運動に発展することとなった。慶応四年の別当・社僧の復飾命令と 神社からの仏教的要素の排除命令とを発端とし、離檀・毀仏・廃寺・神葬等の 行動は各地に展開されていく。

ところで、当時府藩県三知制の複雑な行政区画の下で、法令の伝達の迅速さ や徹底さは不十分な状況にあったため、地域の状況により、廃仏毀釈の内容や 程度に差異を生じた。以下、『神仏分離史料』に掲載した資料を用いて、各地 域における廃仏毀釈運動を概観する。

『神仏分離史料』によると、全国に先駆けて、廃仏毀釈の実力行動を起こし たのは、すでに前節に述べた近江坂本の日吉山王神社であった。指導者の樹下 茂国および生源寺義胤は、武装した神威隊と雇った農民を率いて、日吉山王神 社に乱入し、神体の仏像・仏器・経典などを破壊・焼却をした。

京都では、旧習一洗に熱心な府参事槇村正直が行政の実権を握り、廃仏毀釈 を指導した。当時神仏習合の寺社はそれぞれ神社と改称され、仏像仏具類も破 却されたり払い下げられたりした。祇園社感神院では、慶応四年二月(明治元 年、一八六八)に社僧らが復飾し、同年五月三十日に社号を八坂神社と改称し た17。さらに、薬師堂(観慶寺)を撤去し、仏像・仏具らを浄土宗の大蓮寺に 移管した。

石清水八幡宮では前述した慶応四年(明治元年、一八六八)四月二十四日に

「石清水以下八幡大菩薩ノ号ヲ止メ八幡大神ト奉称セシム」18の布告により、

神号は八幡大神と改称され、同年五月三日、神前に魚味を供すべき旨が命じら れた19。仏式であった石清水放生会は神道祭祀「中秋祭」と名を変え20、明治 三年(一八七〇)八月に「男山祭」と改称された21。明治四年(一八七一)石 清水八幡宮は、官幣大社に列せられ男山八幡宮と改称し、大正七年(一九一八)

石清水八幡宮に復称した22。それに伴い「男山祭」は「石清水祭」と改称され23

17「京都祇園社感神院改称の件」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』続編 巻上(東方書院、一九二八年)1 頁。

18 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系 5 宗教と国家』426 頁。

19 五月三日「石清水八幡大神ノ菩薩号ヲ止ルニ由り、被止候に付。魚味を供進セシム」、同前、

427 頁。

20 七月十九日「石清水放生会ヲ中秋祭ト改ム」、同前、428 頁。

21 太政官布告 八月五日「中秋祭男山祭ト改称」、同前、435 頁。

22 中野幡能「石清水八幡宮」、『国史大辞典』、吉川弘文館、ジャパンナレッジ(オンラインデ

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現在に及んでいる。

愛宕山の山岳信仰と修験道が習合した愛宕山大権現では、神仏判然令によっ て、権現号が止められた。祭神の一つ、本地仏の勝軍地蔵は金蔵寺(現京都市 西京区)に移され、仏寺が廃寺され愛宕神社となった24

また、病気治しのために御水を与えるなどの呪術行為を理由に、寺院の施設 が没収され廃寺となった例もあった。また、農村部では、路傍の地蔵などの壊 され石像を、石垣の石材として利用された。小学校の新築に、付近の石地蔵を 拾い集め、それを柱石や便所の踏み台に用いたが、児童は危惧して便所を使用 しないので、教師が自ら石地蔵の上で用を足してみせたこともあったという25。 奈良では明治四年(一八七一)から数年間、同年十一月に成立した第一次奈 良県令に上任した四条隆平26と正参事津枝正信の指導で諸大寺が破壊された27。 江戸時代に度々火災に遭った興福寺の再建は完全にされないまま、明治の廃仏 毀釈を迎えることになった。興福寺と一体となっていた春日社は、その仏教色 が除去され、興福寺と分離された。一乗院・大乗院両門跡の住僧は還俗し、春 日社の神職に転じた。

この混乱時には、南都諸大寺の仏像・経典・文書・什器などが売却されたり、

焼却されたりした。当時の唐招提寺僧・北川智海管長の談話によると、「当時 焼き棄てられた残部の書籍は、小僧共に依り綴絲を切られて、反古紙とせられ、

奈良塗の漆器の包紙にせられたり、茶箱の張紙にせられたりしました。明治二 十年頃まで、奈良塗の漆器の包紙は、皆此類の反古紙でありました。二十銭三 十銭の茶盆が、天平の写経で包まれて旅客の手に渡されたこともありましょ う。」28とあるように、特に興福寺の書庫にある膨大な仏教書籍は、酷い破壊

ータベース)。

23 中野幡能「石清水放生会」、『国史大辞典』、吉川弘文館、ジャパンナレッジ(オンラインデ ータベース)。

24 「愛宕神社 京都市:右京区/上嵯峨村」、『日本歴史地名大系』、吉川弘文館、ジャパンナ レッジ(オンラインデータベース)。

25 羽根田文明『仏教遭難史論』、136 頁。

26 修史局編『百官履歴 下巻』(日本史籍協会、一九二八年)317 頁。

27 「明治初年の南都諸大寺」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻中(東 方書院、一九二六年)171-172 頁。

28 「南都諸大寺に於ける佛典の焼棄」、同前、168-169 頁。

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に遭っていた。さらに、この頃興福寺は荒廃し、五重塔は二十五円の値段で売 り出された。ところが、塔は取壊しに費用がかかるところから、買主はこれを 焼いてその金具だけをとろうとしたが、類焼する危険があると、付近の住民の 反対が出たため、辛うじて無事に残ったという29

興福寺の一乗院及び大乗院両門跡は、国家に没収され、それぞれ奈良県庁30、 鉄道院の用地31に転用された。また食堂は破壊され、その材木は建材として、

原祉で洋館の寧楽書院(奈良師範学校)が建てられた32。貴重な文化財も次々 に持ち出され、古物商の手に渡されたりして散佚した。

伊勢の場合は、度会府知事で公卿出身の橋本実梁が、神宮の神職と結んで、

廃仏毀釈を強行した。橋本知事は伊勢の宮川と五十鈴川との間にある川内神領 地での仏葬を禁止し、神葬に改めるべきと定められた33。次いで各寺住僧を呼 出し、「檀徒が奪われた寺院は維持することができないため、住僧は檀徒総代 と連署して、廃寺願書を差し出し、住僧は帰俗すべし」34といい、「今廃寺を 願い還俗する者は、身分を士族に取扱い、そしてその寺院に属する堂塔等の諸 建造物、及び什器等ことごとく皆前住僧の所得に帰す。もし、この際、廃寺願 書を呈せず猶予する者は、近く廃寺の官令降る時は、上記の物件みな官没とな る。ゆえによく利害得失を考え、一刻も早く、廃寺願書を呈出する方が得策で あろうと」35橋本知事は各寺院の住僧に説諭し、廃寺の願を差し出すように強 要した。

また、度会府では、明治二年(一八六九)の明治天皇行幸を控えるために、

「今般行幸御参拝被遊ニ付、神領中ニ参道ニ有之候、佛閣佛像等、盡取拂可申」

36とあるように、伊勢神宮参道周辺の寺院をすべて取払うよう指示が出た。六

29 「興福寺における神仏分離」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻中(東 方書院、一九二六年)103-104 頁。

30 同前、86 頁。

31 永島福太郎「興福寺:大乗院」、『国史大辞典』、吉川弘文館、ジャパンナレッジ(オンライ ンデータベース)。

32 「興福寺における神仏分離」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編、前掲書、104-105 頁。

33 「伊勢度会府廃寺の件」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』続編巻上(東 方書院、一九二八年)56 頁。

34 辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻上、38 頁。

35 羽根田文明『仏教遭難史論』、145-146 頁。

36 「伊勢に於ける廃寺の件」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻下(東

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宗派(天台・真言・浄土・臨済・曹洞・真宗)合計二八六ヵ寺37のうち、一九五ヵ寺が 廃寺対象(廃寺率は約七割)になった38

寺院の廃止併合は、佐渡・富山・松本・美濃苗木などの各藩では、とくに激 しかった。天領であった佐渡では、判事奥平謙甫は北辰隊を率いて島に入った。

奥平は日本の僧侶を「天下ノ遊民」、多数の寺院を「国家ノ贅物」と看做し、

「多数ノ寺院ヲ減少シ、無用ノ僧侶ヲ淘汰」すべきであると主張した39。彼は 明治元年(一八六八)年暮れの十一月に、五三九の寺院40を八十カ寺に合寺す ることを強行し41、廃寺された寺の仏像仏具を没収し、鑄銭所で金具を取り出 して天保銭に鑄直した42。さらに、十二月に下記の制限を命じていた。

一、土民を勧め僧侶に致す間敷事、

一、土民を勧め僧侶に致す間敷事、