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第三章 維新政府の諸政策と民衆の動向

第五節 国民教化運動

明治四年(一八七一)八月、神祇官は太政官所管の神祇省に格下げられ56、 政府の宗教政策は、大きく転換し始めた。廃藩置県を経て権力の基盤を確立し た天皇制政府は、旧習一洗・文明開化・富国強兵をスローガンに、一連の近代 化政策を実施した。明治維新以来、復古神道家が主導してきた祭政一致の急激 な神道国教化政策は、政府の新方針との矛盾を時とともに深めていった。明治 五年(一八七二)三月の神祇省廃止により、全国の神社・神官は仏教寺院・僧 侶とともに新たに設置された教部省において管轄され57、同年八年には神官は すべて教導職を兼補することとなった。

教導職は「敬神愛国」「天理人道」「皇上奉戴・朝旨遵守」の「三条の教則」

の趣旨を国民に教化する役目を担った。また、国民教化の中央機関として東京 に大教院、地方の府県庁所在地に中教院、その他各地に小教院、伊勢神宮に神 宮教員が設置された。教化にあたる要因を確保するために無給の教導職が設け られ、神官・神職はもとより、僧尼も順次教導職に採用された。やがて教導職 の採用範囲は、有志の者に拡大され、民間宗教の布教者、区長・戸長ら末端支

56 太政官布告 八月八日 「神祇官ヲ神祇省ト改ム」。安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想 大系 5 宗教と国家』442 頁。

57 太政官布告 第八十二 明治五年三月十四日「神祇省ヲ廃シ教部省ヲ被置候事」。文部省宗 教局編『宗教制度調査資料』第二巻、87 頁。

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配層から俳優・講釈師・落語家に至るまで、およそ人にものを説く能力のある 者が総動員された。

教部省を中心とする国民教化運動の目的は、国民に天皇崇拝と政府への服従 の精神を植えつけるための、天皇制イデオロギーの組織的強制的な普及にあっ た。同時に、この運動は、「三条の教則」を肉付けする教化の内容として提示 された「十一兼題」「十七兼題」58が示すように、文明開化の新しい生活信条 や産業技術などを含む、いわば上からの国民啓蒙運動ともいうべき側面を備え ていた。

こうして神職とともに僧尼が奉仕する神仏合併布教が全国的に実施された 結果、維新当初の神仏分離の大方針は、わずか数年で崩れ去った。国民教化運 動の全面的展開とともに、神道側は、教義・布教技術・組織の各面における実 態の脆弱さを露呈し、神職は形の上では強化の主導権を持っていたが、各級教 院の経営は、実際には実力派の仏教側に完全に依存せざるを得なかった。

国民教化がもたらした、もう一つの局面は、民間宗教への禁圧の激化であっ た。支配体制の枠から外れた宗教に対する禁圧は、新政府が江戸幕府から受け 継いだ宗教政策の基本方針であった。

小結

倒幕と王政復古の実現によって誕生した新政府は、成立直後の慶応四年(一 八六八)正月十七日に、太政官のもとに七科をおいて政務を分掌したが、七科 の筆頭に神祇事務科が設置された。また、同年二月三日、官制改革のため、神 祇事務科を神祇事務局に改めた。そして、新政府は、一八六八年(慶応四)三 月十三日、祭政一致、神祇官再興の政令を布告した。同年閏四月二十一日には

58 明治時代初期の大教宣布運動における、教導職の採用・進級試験の課題または学習目標と して、明治六年(一八七三)教部省が発布した十一の項目である。十一兼題の内容とは、神 徳皇恩・人魂不死・天神造化・顕幽分界・愛国・神祭・鎮魂・君臣・父子・夫婦・大祓の各 説から成っている。同じ目的で同年大教院が十七兼題を制定した。その内容は文明開化の知 識に関する成人教育の諸問題で、皇国国体・外国交際・権利義務・政体各種・国法民法・富 国強兵など十七項目にわたった。両兼題を合わせて二十八兼題ともいう。平井直房「十一兼 題」、『国史大辞典』、吉川弘文館、ジャパンナレッジ(オンラインデータベース)。

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神祇官が設置され、翌年七月八日の官制改革では、神祇官はついに太政官の上 位に置かれるようになった。

一方、平田派の平田銕胤・矢野玄道、津和野派の亀井茲監・福羽美静らの国 学者・神道家は、祭政一致という共同目標を目指し、まず、慶応四年(一八六 八)三月から四月にかけて、数回の布告を総称する神仏分離令を発し、神社の 別当・社僧などの僧職者を還俗させ、神社に権現などの仏号や、仏像を神体と することを禁止した。これによって長年に続いてきた神仏習合という信仰状況 に終止符が打たれ、既存の宗教形態に大きな変容をもたらした。

神仏分離令は直ちに廃仏毀釈を意味するものではないが、神道優位の気運の 下に廃仏的な雰囲気が高まり、廃仏毀釈運動を招くことになった。廃仏毀釈の 内容としては、寺堂・仏像・仏具・経巻などの破毀・焼棄、寺院廃合、僧侶に 対する立ち退きや還俗の強要が多かった。

ところが、実際に仏教はやはり大きな社会的影響力を持っており、神道のみ を国教化することが不可能である。神祇官再興・神仏分離によって展開された いわば神道国教化政策は、明治四年(一八七一)半ばまでは華々しい展開を見 せたが、同年七月十四日の廃藩置県を境として、急速に衰退の一途を辿ってい った。そして、ついに明治五年(一八七二)三月の神祇省廃止、教部省設置と なると、これまでの政策に大きな路線修正を加えることになった。教部省は、

仏教を含める全宗教を組織的に動員し、国民教化運動を進めた。教化の基準と して、三条の教則(敬神愛国・天理人道の明示・皇上奉戴と朝旨遵守)を制定 した。

その後、地方における神職と僧侶との対立が深まるに連れて、この政策の実 効性を疑問視する声が高まった。明治八年(一八七五)年、真宗四派が大教院 を脱退し、信教の自由を求めた。こうして、国民教化運動は挫折に遭い、各宗 教の教化活動もある程度認められるようになった。

神道国教化政策の展開と破綻は、当時の歴史状況から言えば、かなり象徴的 なものであった。王政復古と御一新(明治維新)という二つの言葉に表わされ たように、復古と維新が錯綜して、同時進行的且つ互いに牽制しあいながら展 開していったのである。維新政府は、設立当初から、この矛盾を抱えながら、

新国家の構築を進めていき、これらの神道国教化政策は結果として試行錯誤に

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終わってしまったのである。しかし、この試行錯誤をもとに、維新政府の宗教 政策はようやく天皇制宗教原理の枠内で、各宗教に対して、その信教の自由を 容認する方向に歩みだした。

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