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第四章 明治初期の護法一揆

第二節 島根県安濃・邇摩二郡一揆

(一)騒動の背景

現在島根県西部の石見地方に該当する旧石見国は、明治四年(一八七一)十 月に(当時浜田県)安濃郡・邇摩郡両郡下における、真宗僧侶が農民に呼びか けて起そうとした百姓一揆で、事前に発覚され不発に終わった。

江戸時代の石見は、銀山領、浜田藩、津和野藩に三分された。石見地方は真 宗を篤く信仰する地域であり、明治九年(一八七六)の「島根県史料」には、

石見国について、「又本國ニ於テハ従来真宗ノ教派頗ル旺盛」28とあり、「石見 門徒」と称せられた。また、石見国の各地域における真宗寺院が占める率を、

「邇摩・安濃・那賀郡は四十~五十%」、「美濃・鹿足郡は五十~六十%」、「邑 智郡は七十~八十%」29と示している。近世初頭、銀山領を中心とする石見東 部に、浄土真宗が伝播し、石見門徒と呼ばれる強固な地盤を形成したことは注 目される。慶応二年(一八六六)長州再征のとき、親藩浜田藩は長州軍の攻撃 を受け、藩主は逃亡、城は炎上した。一方、津和野藩は長州に好誼を通じたの で、明治新政府のもとで藩主亀井茲監、藩士福羽美静・大国隆正など人材が活 躍した。

津和野は古くから神仏への信仰が厚く、多くの社寺があったが、幕末の神葬 祭復興の気運が高まる中、藩主亀井茲監自らが慶応三年(一八六七)五月、『社 寺御改正御趣意書』を発布し、神社については、吉田家の免状を持たない神社、

寛政以後に新設された神社、祭神の詳らかでない神社は破却、または旧村社に

28 「島根県史料」、竹内利美・谷川健一共編『日本庶民生活史料集成』第二十一巻:村落共同 体(三一書房、一九七二)所収、401 頁。

29 有元正雄『真宗の宗教社会史』(吉川弘文館、一九九五年)189 頁。

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併合することとされた。また、寺院も無住職の寺は廃絶し、路傍仏像は寺院に 移した。さらに神仏混合が禁じられ、葬祭は神道による「神葬祭」に、また、

祖先を神道によって祭る「霊祭」の二式の祭式が制定され、各社寺に諭達され た。一般の領民に対しては「おさとし書」として木版刷りで印刷され頒布され た。

これにより藩主の菩提寺であった永明寺をはじめとする各社寺の寺領は没 収された。それによって藩士も菩提寺との関係を断つことになり、寺院は相当 の打撃を受けたようであった。しかし、一般領民は全く神葬祭を受け入れたわ けではなく、葬式の際に出棺前に僧侶を呼ぶなど、なお仏教に頼っていたよう であった。

明治に入り、キリシタンの改宗受け入れなどの宗教弾圧が続くが、明治四年 (一八七一)に藩主亀井茲監が『廃藩の建議書』と辞表を朝廷に提出、廃藩置県 によりこれまでの宗教政策は終焉を迎えた。明治五年には藩校養老館も廃校と なり、その後仏教に対する弾圧も次第に収まっていった。

一方、浜田地方でも石仏の首が叩き落されたり、堂社が壊されたりすること があったが、明治四年(一八七一)十一月、浜田県では次のような通達を管内 へ示達している。以下は一部の抜粋である。

朝廷におかれても廃仏のお考えは更に有らせられず。僧侶も素より王臣で あり皇国のために一層心がけ候様、申論すべしとの事に候条、寺院一同ど の考えを持って檀家の者達えも申諭して御法令は勿論、仏戒宗律を一層堅 固に寄り御国恩に報いるよう心掛けるべく管内の寺院え示達すべし30

このように、浜田県に対して、分離令は廃仏ではないと、石仏を壊すことに注 意せよとの命令を与えている。

(二)事件の発端と経緯

明治四年(一八七一)、神道国教化の推進にあたり、政府は地域の大小の神

30 金城町誌編幕委員会『金城町誌:第三巻行財政続編・宗教編』(島根県那賀郡金城町、一九 九九)990 頁。

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社を取り込んで、伊勢神宮を頂点とする神社の体系的な序列化を進めた。政府 はまず四年五月に、神社を神祇官所管の官社と地方官所管の諸社に大別し、諸 社に府社、藩社31、県社、郷社の社格を設けた。ついで同年七月には、とくに 郷社について、戸籍法に基づく戸籍区(およそ千戸)に一社を置くという、具 体的な選定基準を示し、他の有力な神社は村社とする方針を打ち出した。

さらに、これと並んで「大小神社氏子取調規則」を同時に公布し、郷社や村 社に列格した神社から、当該戸籍区の戸長を介して、すべての人民に氏子守札 を発行することにした。いわゆる、氏子調、氏子改め制の導入である。その主 の内容は、出生児あれば戸長の証書をもって神社へ参り守札を受けること、他 へ移転の時は管轄地神社の守札を別に受けること。死亡した者は戸長を通じて 守札を神官に返すこと。六年ごとに戸籍改めがあるとき、守札を出し戸長の検 査を受けること、などである。このように、郷社・村社は、氏子改めを行い新 たに導入される戸籍制度を補完するという、きわめて行政的な役割を担わされ たのである。このシステムは、江戸時代に寺院が担った寺請・宗門改め制に似 たところがあった。守札の授与を通じて戸口が把握されることになっている。

ところが、戸籍編製の作業が実施された明治四年(一八七一)八月になると、

門徒や真宗僧侶の間に寺請証文に変わる氏子札制度に対して不満が起こって いる。浜田県那賀郡でも反対の動きが見られ、広島県側にも連絡をとって一揆 を起こす相談が始まっていた。そうした情勢のなかで、安濃郡東用田村(大田 市)蓮教寺住職の唯行は、報恩講の集会を利用して一揆の計画をもちかけ、安 濃・邇摩両郡では、十月十一日の夜 五ッ時に各村を同時に出発して、大森・

大田を目指して強訴するようにと、農民に呼びかけた。しかし、この一揆計画 は事前に発覚し、唯行など七名が捕えられて終わった。

(三)事件の原因

この一揆が計画された原因について、まず、一揆勢の主導唯行が作成した一 揆廻状の内容を示そう。

31 同年七月、「廃藩置県」により消滅された。

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一、守札社人共仕出致スモノ、此後ニウチハラヘノ事。

一、是マデ石仏カタキノ事32。 一、古帳役人33ヲカタキ取ル事。

一、ホツトウセンギ34ノ時ハミナ一同ト申事。

一、シンメイヲヲシマズノ事。

一、畑方上納四割増ノ義ハ不承知ノ事。

一、手道具ノ儀ハ竹ヤリ持出行ノ事。35

とあるように、一揆勢の主張は、神官からもらった氏子調をすてること、道端 の石仏を破毀したものを仇討ちすることという門徒としての要求のほかに、戸 長役人の征伐とか、畑方年貢四割増徴に反対することなどの内容が記されてい る。この廻状の中で特に注目すべきは、「畑方上納四割増ノ義ハ不承知ノ事」

という部分である。また、邇摩郡大国村百姓頭の順吉郎の口供は以下のように 記されている。

説得ノ意味至極尤ノ次第トハ存込猶倩相考候ニ、先般畑方上納定一石代銀 六十匁ノ處、其節ノ相場ニテ金一両ヲ以相納来リ、十貫文替ニ相成、其後 一昨巳年銀名目被廃一両拾貫文替ニ相成、一石代六貫文ヲ以テ上納致シ居 候ニ付、下方莫大ノ助リニモ相成候ノ處、此度者又銭相場ニ不拘一石代一 両ヲ以、前ノ通上納可致樣相成、夫ニテハ下方百姓ノ難澁彼是ト不平申立 候折柄、素ヨリ佛道滅亡邪宗入交リ候樣ノ儀ハ何レ迄モ不承知旁々ニテ終 ニ同意可致旨約定36

前近代、つまり江戸時代の貢租は現物納を原則とするが、畑地では納入すべき 石高を貨幣に換算して納めるという石代納が一般的であった。こうした貢租制

32 石仏破壊者の意。

33 戸長役のこと。新政府の政策の地域での推進者として、戸長層が明治初年の農民一揆の攻 撃対象となった事例は多い。

34 発頭詮議。一揆の発頭人の取調べ。

35 安丸良夫・宮地正人校注『日本近代思想大系 5 宗教と国家』、127 頁。

36 同前、129-130 頁。

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度は、明治に入ってからも一八七三年(明治六)の地租改正までは基本的には 江戸時代の制度を踏襲していた。一石代銀六十匁とは、納入すべき石高一石に つき銀六十匁に換算して貨幣で納入することをいう。しかし、この事件におい て、明治政府は当時の銭相場を無視し、一石代を六貫文から十貫文に値上げ、

四割ほど増税した。つまり、農民の立場から見ると、石代上納が四割も増える ことは非常に重い負担であり、多くの農民の反感を招いたことは想像するに難 くないだろう。さらに、上に挙げた順吉郎の口供が如実に示しているように、

農民にとって、経済的な要求が最も重要なことで、恐らく信仰よりも、むしろ 経済問題のほうが優先的に考えられている。だから、石代納問題に対して大き

農民にとって、経済的な要求が最も重要なことで、恐らく信仰よりも、むしろ 経済問題のほうが優先的に考えられている。だから、石代納問題に対して大き