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第四章 明治初期の護法一揆

第三節 福井県大野・今立・坂井郡一揆

(一)騒動の背景

明治六年(一八七三)三月、敦賀県下の大野・今立・坂井三郡下で、三万以 上が出動する、真宗門徒の大一揆が勃発した。そもそも越前は真宗の金城鉄壁 とも言われ、真宗地帯と言えば直ちに想起される程であり、天正年間に起きた 越前一向一揆は、時の権力者織田信長を苦しめたことも周知の通りである。明 治十三年(一八八〇)の統計でみると、福井県下の寺院総数は一八二〇、その 中に、浄土真宗は九八四、半分以上の寺院が真宗に属する50。これに加えて、

49 安丸良夫・宮地正人校注『日本近代思想大系 5 宗教と国家』、130 頁。

50 福井県史統計編 付録 統計データ 寺院、住職

(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/tokei/hyou(Excel)/600hyo.xls)

2013.12.12 参照。

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真宗の場合は寺院の末に道場が存在していたことを思えば、その勢力は絶大で あったといえる。

明治初年以来、維新政府は神道を基軸として展開した「神道国教化」政策に より、神仏分離・廃仏毀釈運動が全国的に誘発された。越前での廃仏運動のう ちとくに顕著な具体例として、大野郡石徹白村51が挙げられる。同村では、明 治二年(一八六九)四月二十七日夜の廃仏沙汰で、神社前の河原に、社内の仏 像を持ち出して打ちくだき焼き捨てたが、その後「焼跡の仏像の御手やら、御 光やら、焼け残りを拾ひ持来る人もあり」52という有様であった。こうした廃 仏運動に憤慨した地域の民衆の上村五郎左衛門・須甲磯右衛門らが、同年秋に、

はるばる京都の本願寺に「出訴」するために出向いた。次いで、全国の諸藩で 強引に実施された廃合寺問題については、明治四年(一八七一)、福井藩にお いて、天台宗四二、浄土宗一〇、真言宗九、曹洞宗七、日蓮宗七、臨済宗五、

黄檗宗二、時宗一、真宗一の計八四か寺を「無禄無檀」の寺院として廃合処分 とか53、また同年白山修験道の拠点であった平泉寺では、本坊の賢聖院の住職 義章によって仏堂・仏像・仏具などの廃仏が行われ、寺号が捨てられ、白山神 社に改変されたとか、こうした強引な「神道国教化」政策に起因する廃仏毀釈 や廃合寺問題は、政府に政策の路線を変えさせた。従来の過激路線を調整とし て、明治五年(一八七二)三月、政府は神祇省を廃止して、教部省を新設した。

神祇省時代の宣教使に代わって、教導職を置き、その下に教正・講義・訓導な ど十四級の制を定めた。そして、神宮祭主近衛忠房・出雲大社大宮司千家尊福・

東本願寺光勝・本願寺光尊以下神官僧侶の有力者が教正に任命され、他には国 学者・神官・僧侶・民間の有識者・芸能家など多様かつ多数の人々が教導職と して選ばれた。

教導職というのは、「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事」「一、天理人道ヲ明ラ カニスベキ事」「一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」54という同年四月

51 現在の岐阜県郡上市・福井県大野市に該当する地域である。

52 「石徹白村神仏分離書類」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻下、904 頁。

53 『福井県史』通史編 5 近現代一

(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-05-01-03.htm)

2013.12.12 参照。

54 「三条教憲附教導職学爵建設ノ大意」『太政類典』2 編 250 巻、国立公文書館 デジタルアー

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二十三日に発布した「三条教則」を中心として、民衆に国民教化を行った。最 前線に立った教導職は、明治政府の強力支配を推進する一翼を担ったのである。

当時、事件の舞台となった敦賀県、その配置下の教導職の分布について、神 官は三三人(越前国一八人・若狭国一五人)、僧侶が七六〇人(越前国五一九 人・若狭国二四一人)計七九三人を数えるが、全国平均では、神官が全体の約 六〇パーセントであるのに対して、敦賀県では、僧侶が九六パーセントという 圧倒的な比重を占める55。この数字から、敦賀県における教導職体制の推進に あたって真宗寺院の協力が不可欠であるといえよう。

(二)石丸八郎の発言による波紋

教部省の教導職として、敦賀県に教化方針を徹底したのが、今立郡定友村56の 唯宝寺(西本願寺派)出身で、教部省十一等出仕の石丸八郎であった。彼は明 治五年(一八七二)七月教導職に任用され、翌年明治六年(一八七三)一月に帰省 した。同年一月六日、石丸八郎は岩本成願寺における「石丸発言」は、僧侶の みならず、門徒農民層にもかなりの動揺を与えた。「本県出張所へ差出候始末 書」57によると、石丸は、「唯宝寺五尊は大滝村成願寺方へ預け、家内諸共東京 私宅迄引越し」との届を出した。また同一月十五日、「明日早朝岩本成願寺方 へ御出合下されたく候」という内容の回文を差し出し、その回文は今立郡岡本 の各寺に回ってさせた。翌十六日、岩本村成願寺に集まった十四ヵ寺の僧侶達 に、石丸は「敦賀県は当地の社寺に小教院を設立し、いずれ官員を派遣する予 定だが、とりあえず成願寺を仮教院と定める。そして、小教院を創立した際に、

第一に村々町々の氏神を安置、第二に諸寺院の仏祖を安置、第三に教導職を集 め、四方に長屋を建てて家内眷属を同居させる。次に宗名及び門徒同行の名称 を廃して『三条宗』と称し、『三条の教則』を教導職によって徹底させること にする」等と発言し、教部省の教化方針を伝えた。

カイブ所蔵。

55 『福井県史』通史編 5 近現代一、

(http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-0a1-02-01-05-01.htm)

(2014 年 1 月参照)。

56 現在の福井県越前市にあたる。

57 金森顕真編「越前暴動一件」、辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻下、

754 頁。

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しかし、寺院側は石丸の発言に対して、早速同月十八日には松尾村善休寺、

十九日は栗田部道場で会合して協議した。僧侶側が最も危惧した廃合寺問題は、

直接彼等の生活を脅やかし、僧侶側が自分の生存権を守るために、門徒農民に 石丸のことを「耶蘇ヲ勧ムルナリ」、「石丸発言」が「耶蘇」の教法であると宣 伝して、耶蘇嫌いの檀家農民に煽動的な言葉を説き聞かせた。当時今立郡には 不穏な空気が漂っており、混乱はいつ起きてもおかしくない、との状況は次の 文面から窺い知れる。

且ツ今日ノ暴挙実ニ一朝一夕ノ事ニアラズ、既ニ去ル一月頃ヨリ萌芽醸成 致居候処、…(中略)、当時既ニ沸擾ノ形勢相成リ不容易次第ニ候所、幸ヒ 出張官員居リ合セ、懇々説諭ニ因テ其場ハ直チニ静穏相成候ヘ共、兎角人 心騒然ノ際忽余焰大野郡江傳播シ、頃日ノ騒乱ニ及ベリ58

このように、出張官員の説諭がなければ、一揆が爆発する可能性も高いという 当時険悪な情勢が察知される。そして留意すべきことは、「人心騒然」の不穏 な情勢は急速に今立郡近隣の大野郡に波及したことである。

このような雰囲気のなか、今立郡の情勢を耳にした大野郡上据村最勝寺(本 願寺派)住職の柵専乗(当三十八歳)、友兼村専福寺(真宗高田派)住職の金森顕 順(当四十一歳)、上据村上層農門徒の竹尾五右衛門(当二十八歳)三名を中心に、

二月二十日に凡そ四十三ヶ村の代表は寄合し、護法連判の協議をしていた。同 月二十七日に凡そ六十五ヵ村は友兼村専福寺へ連判状を持参す。

事件後の竹尾五右衛門の口述書によると、「耶蘇宗に不立入候様、相防法談 御免の義」を出願し、「福井御支庁ニテ御採用無之候ハヽ、本県ハ勿論東京迄 も罷出、其節ハ仏号ノ籏ヲ立銘々竹鎗等ヲ携罷出候様下致約定致シ、就テハ 村々連判致シ置一人ニテモ捕縛被致候ハヽ、南無阿弥陀仏ノ籏ヲ立銘々竹鎗其 外携可押出評議ニテ其場ヲ引取」59と示したとおり、要するに、石丸を「耶蘇 宗の者」とみなし、「耶蘇」の侵入には、村ごとに「南無阿弥陀仏」の旗を押

58 三上一夫校訂「明治六年三月暴動始終奏上簿」、青木虹二・森嘉兵衛共編『日本庶民生活史 料集成』第十三巻:騒擾、750 頁。

59 同前、755 頁。

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し立て、断固一揆という強硬手段で対抗することを誓い合ったのである。そし て、福井支庁で受け入れられなければ、敦賀県本庁、さらには東京の中央政府 まで強力に訴えるため意思の統一を図っていた。

こうした情勢の中、たまたま大野町の辻々に立てられた「今般東西両部の名 号を廃停し爾後一般に神道と称すべき事」60の高札に、門徒農民は「東西両部」

を「真宗東西両本願寺」と誤解したという、村々を護法に一段と結束させるこ とになる。

門徒農民は真宗の習俗に馴染んでいたので、真宗寺院との関係やその信仰を 奪われることは日常生活の支柱の一つを奪われることを意味した。しかも大野 郡の農村地帯は真宗一色であり、真宗が大野郡全体を一丸たらしめる可能性は 十分あったと考えられる。

(三)一揆の展開とその顛末

このように、一揆の準備が出来上がったが、三月六日、福井支庁から派遣さ れた役人は、連判状のあることを知り、急遽専福寺の金森顕順・竹尾五右衛門 らの中心人物を「護法連判」の主導者として逮捕したが、竹尾五右衛門は役人

このように、一揆の準備が出来上がったが、三月六日、福井支庁から派遣さ れた役人は、連判状のあることを知り、急遽専福寺の金森顕順・竹尾五右衛門 らの中心人物を「護法連判」の主導者として逮捕したが、竹尾五右衛門は役人