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第四章 明治初期の護法一揆

第一節、 愛知県三河大浜騒動

第一節、愛知県三河大浜騒動

(一)騒動の背景

大浜騒動とは、明治四年(一八七一)三月上旬、三河国碧海・幡豆・額田郡 など西三河地方菊間藩管下の大浜領を中心に起きた真宗護法一揆であり、鷲塚 騒動、菊間藩事件とも呼ばれる。

十五世紀後半になると、蓮如上人(一四一五~一四九九)の三河進出につれ て、三河地方の真宗信仰は大いに発展した。特に西三河では戦国時代に全国有 数の規模の三河一向一揆が起こり、昔から真宗信仰がこの地方に根付いている と言えよう。

天明二年(一七八二)、駿河国沼津城主であった水野出羽守忠敬は、三河碧

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従って、服部少参事は同三年十一月に碧海郡大浜村称名寺の藤井説冏、棚尾村 光輪寺の高木賢立ら二人の僧侶を教諭使に任じた。二人は各村を巡回して、民 衆に敬神愛国孔孟の教え、神前念仏の禁止、神前祝詞の読み習いなど神道の在 り方・作法、または、仏教との混交を避けるなどの事を指導した。当時教諭使 に民衆に教えていた日拝祝詞の内容とは以下のような文面である。

産土神うぶすなかみ大前おほまへ安全や す き祈祷こひのりまをす白祝詞の り と、此邑このさとすべまもり守賜たまうぶすなの産 土大神おほかみま へつ ゝし みうやま敬比 夜守日守よのまもりひのまもり 守理ま も り幸閉さ い は へ 畏美畏美か し こ み か し こ み

拝美を が み奉留たてまつる10

しかし、元来真宗門徒を中心に行われていた社前での高声念仏が神前祝詞に変 更させられたことは、門徒の反感を買っていた。浄土真宗の根本聖典である『顕 浄土真実教行証文類』(略称:一般には『教行信証』)には、『般舟三昧経』を 引用して「自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ふるこ とを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視 ることを得ざれ。」11と記されている。開祖親鸞は「神祇不拝」を主張して、神・

仏を拝むことを徹底的に否定した。「神祇」とは、まさにこの「鬼神」のこと を言う。また、室町時代の蓮如はその『御文』(御文章)12に、物忌をせず吉良 日をえらばず鬼神を祀らずと明記されている。そして、現世祈祷や迷信なども 真宗の教義に否定されている。門徒にとって、天拝日拝・祝詞(祈祷文)など は、完全に浄土真宗の教義に反するものである。

また、もう一つの原因は、民衆は新政を強力に推進した少参事服部純を耶蘇 教の宣教使と勘違いしてしまい、上記の祝詞は耶蘇教の教えが含蓄されている と思い込んだ。そして彼が派遣した教諭使は仏教僧侶でありながら、耶蘇を引 き入れようとするものであろうと13、当時民衆の中にこの噂が流れたという。

10 辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻中、240 頁。

11 山折哲雄「親鸞における『内なる天皇制』化身土巻の魔的世界」、丸山照雄編『天皇制と日 本宗教』(亜紀書房、一九八五年)105 頁

12 蓮如は浄土真宗の教えの要義や信仰のあり方を手紙の形でわかりやすく門徒たちに伝える ものである。

13 青木虹二・森嘉兵衛共編『日本庶民生活史料集成』第十三巻:騒擾、651 頁。

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こうしたことから窺えるように、強制執行の新政に対する誤解とキリスト教に 対する恐怖心との結合によって、民衆は新政策に対して不安を抱えたことが分 かる。

さらに、事件勃発の導火線となったのは、寺院廃合寺の問題であった。明治 四年(一八七一)二月十五日服部少参事は、大浜内一般各宗寺院の僧徒を呼び 出して、宗教改革の一環である寺院の併合及び僧尼の制限について下問書を出 した。下問として出された十一カ条の内容は下記の通りである。

一、無檀無縁ノ寺院ハ年限ノ新古ヲ問ハス、合併スヘキノ論、可否如何、

一、合併令ルニ付テハ、住僧并ニ留守居の僧尼ハ、本寺引取ベキノ論、可 否、

一、本寺ニ差シ置キ難キ僧尼ハ、本寺申立次第生国ヘ可送屆、但、此ノ路 銀ハ、本寺ヨリ出スカ、又ハ生国ヨリ出スカ、藩ノ金庫ヨリ出スベキ カ、路費出方、可否、

一、一向宗ノ寺院合併ノ節、家族ノ進退ハ、本寺ノ関係ナルヤ、或ハ其村 関係ナルヤ論、可否、

一、還俗帰農願出ノ向ハ、本寺申立ノ次第人物ニ依テハ可聞屆ノ論、可否、

一、御新政ノ御趣意ヲ奉体シ、本寺ニ於テ、合併行屆候様尽力可有之筈也、

然ルニ檀家ヲ無実ニ分配シ、本山ヲ欺キ、是迄末寺屆致シ来ル寺院且 無住ノ末寺等ハ、檀家多少ヲ算シ、虚実ヲ梭シ、合併ノ術行屆候様可 心掛也、又法類ニ於テモ、同断私利ヲ営マズ、至当公平ノ議ヲ起シ候 様、尽力可致筈也、此ノ理ヲ背キ、ナカマ申合ニ泥ミ、己ノ存意ヲ包 ミ、私論ニ渡リ、檀家ヲ鼓舞シ、法類ヲ頼ミ、無謂故障抔隠微ニ醸シ 成ス事後日顕レ候節ハ、本寺法類寺相違ナキニ於テハ、直ニ廃寺可申 達ノ見込、兼テ本省ヘモ申立置方可然哉ノ論、

一、深ク御政体ヲ考察シ、復古ノ御趣意ヲ奉戴スル時ハ、武門政権ヲ握リ シ以来、開基ノ寺院ハ、本末共其前ヨリ在来ノ本寺ヘ合併スベキ論、

可否、

一、前件ネンゲンヲ以テ定ムベカラザルハ、檀家ノ数多少ヲ以テ合併定ム ヘキ論、可否、

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一、檀家ノ数多少ノ論可ナランヤ、然レドモ、其数限幾許ヲ以テ可トナス ヤ、或ハ曰ク十軒已下ヲ以テ合併スベシ、或ハ曰ク五十軒已下、或ハ 曰ク有檀合併行フ下ナランヤ、或ハ曰ク百軒已下檀家ヲ以テ、此ノ御 趣意ヲ奉ジ得ザルハ、檀那寺本寺法類等尽力未タ公平ナラザル処ニ出、

可否、

前論多端、尚是ヲ再考シテ、左ニ公義ヲ問、

一、無檀無録ト雖モ、一村ニ一寺院ヲ存シ、有檀有録ト雖モ、一村数宗数 寺混交村里ハ、檀家百軒已上已下ヲ区分シ、已下ヲ以テ之ニ合併令メ、

旧院寺格ヲ不問、村高戸籍ニ応シ、智識ヲ選ンテ国用タラ令ンコトヲ 要ス、私情ヲ去リ、公平ノ衆議ヲ待ツ、請答議アランコトヲ、

一、有檀ト雖モ、居邑ニ檀家無之、他檀家多キノ寺院ハ、其最寄同宗ノ寺 院ヘ合併シテ、至当可成、此議云何、

已上14

上記の下問書について、主な内容は次のようにまとめられる。

第一は、檀家の無い寺院は、古い新しいを問わず他の寺院に合併することにし たらどうか。

第二は、合併においては、僧侶を本寺に引き取ることにしたらどうか。

第三は、檀家の数量によって、合併基準を決めること。たとえば、十軒以下、

五十軒以下、百軒以下のいずれかをもって、他の寺院と合併したらどうか。

第四は、檀家がない寺院でも、一村に一寺を置くようにし、一村に宗派異なっ た寺院が混在し、その数が百軒以下の場合は全て他の寺院と合併したらどうか。

第五は、所在地の村に檀家がなく、他の村に檀家が多い寺院は、最寄りの寺院 に合併したらどうか、等の質問であった。

服部少参事は強制的に寺院代表に寺院廃合の請書を差し出させようとした が、真宗僧侶にとって、廃合寺案は重大な案件で、僧侶には経済面での衝撃が 大きい。特に真宗は他の宗派とは異なり、寺院数が多いため、このような重大 事には即答できず、本山へ伺いの上にしたいと、藩に関わりのある西方寺・光

14 辻善之助・村上専精・鷲尾順敬共編『神仏分離史料』巻中、247-248 頁。

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輪寺に日延べ申し入れを依頼した。ところが、藩役人の高圧的な態度に押し切 られた西方寺・光輪寺は、すでに檀家数による統廃合の区切りを”百軒以下”、 ” 十軒以下合併可”と即答して、下問書に対し請書を出し、同意を示した。

当地の護法会の僧侶たちは、天拝日拝、寺院廃合などの重大な問題について、

夜を日にかけて奔走している。三月二日、暮戸会所15に会合し、その後、三月 四日、五日に、中心メンバーの蓮泉寺台嶺・専修坊法沢を含め、若い僧侶たち は、天拝日拝、寺院廃合について何度も協議を重ねた結果、西方寺・光輪寺、

そして菊間藩の服部少参事に、命を捨てる覚悟で抵抗するとの合意を達した。

彼等は三月八日に暮戸会所に会合するよう旨の回状を作成した16。そして、護 法会の中心人物はそれぞれ回状を以て各寺に回って護法の決心を述べ、同志を 増やせようと奔走し尽力していた。

(三)一揆の勃発

三月八日に護法活動に参加する僧侶たちは暮戸会所に集まり、当日参集の僧 侶は百余名に及んだ。一刻も待たない寺院廃合の難件について、台嶺の提案と しては、まず大浜に赴き、西方寺・光輪寺に詰問する上、当局に論議に及ぼう という。僧侶たちは台嶺の提案に賛成するものが多く、直ちに連判帳を作り、

三月八日に護法活動に参加する僧侶たちは暮戸会所に集まり、当日参集の僧 侶は百余名に及んだ。一刻も待たない寺院廃合の難件について、台嶺の提案と しては、まず大浜に赴き、西方寺・光輪寺に詰問する上、当局に論議に及ぼう という。僧侶たちは台嶺の提案に賛成するものが多く、直ちに連判帳を作り、