• 沒有找到結果。

第一章 権力者と宗教統制

第二節 江戸時代の宗教政策

かかる状態を受け継いだ家康にとって、キリシタンを徹底的に排除すること と、それぞれの宗教勢力を一つの枠にはめ込み、封建体制に組み込むことこそ が、焦眉の急であった。

まず、関ヶ原の戦いの後、徳川家康は自らの権力を確立するため、慶長六年

(一六〇一)から元和元年(一六一五)にかけて、諸宗派・諸寺院に対し個別 的な寺院法度をつぎつぎと布達した。

元和元年(一六一五)までの段階で、家康の手で施行した法度は天台宗・真 言宗・浄土宗・臨済宗・曹洞宗などに対するものであり、浄土真宗・日蓮宗・

時宗については法度が出されていないことである。前に述べたように、浄土真 宗・日蓮宗は庶民の根強い基盤を持っており、浄土真宗は一向一揆、日蓮宗は 法華一揆12のように、この二宗派は体制内へ組み込むことに強く抵抗する姿勢 をとっていた。そのため、あえて法度が出されなかったのである。時宗は他宗 とは異なり、常に全国を遊行廻国して布教活動をしていたので、統制の外にお かれたのである。ちなみに、神道界に対しては、寛文五年(一六六五)七月に

「諸社禰宜神主法度」が制定されている。

寺院法度の作成に際して、その中心人物は南禅寺金地院出身の臨済宗僧侶、

金地院崇伝であった。手続きの上では各宗本山から案文を出させ、この案文を 中心に幕府は法度を作成した。幕府側の一方的な押し付けではなく、寺院側特 に上層部の意見もかなり採り入れられていた。その内容は、各宗本山が中世以 来持っていた政治的、経済的特権をとりあげること、末寺住職の任免権が本山 にあること、末寺は本山の命令に絶対服従すべきこと、宗派の教学・修行の場 は本山が提供し、ここで一定の期間の服務を義務づけること、僧階の格づけは

12 室町末期、京都の町衆(商工業者)は、日蓮宗の信者が多かった。不受不施の法理に従っ た信者は、特に山門(比叡山延暦寺)からたびたび攻撃を受けたため、段々武装化するよう になった。天文元年(一五三二)に、彼等は細川晴元が山科本願寺を攻撃した時、晴元に協 力し、本願寺を焼き払った。これが、大規模な法華一揆のはじまりである。天文五年(一五 三六)二月、比叡山延暦寺西塔の華王房が法華門徒の松本久吉と宗論して破れた(松本問答)。

これに端を発し,長年対立してきた山門と法華宗との戦闘に発展し、天文法華の乱が勃発し た。山門側が近江六角氏の援助を受け、京都の日蓮宗寺院二十一カ寺を焼いた。このためそ の後数年間、日蓮宗は洛中では禁教の状態におかれた。天文十一年(一五四二)に勅許が下 り、十五本山が京都に戻った。藤井学「天文法華の乱」、『国史大辞典』、吉川弘文館、ジャ パンナレッジ(オンラインデータベース)。

16

17

18

島原の乱が終結する寛永十五年以後、禁教対策として実施された宗門改・寺 請制度はさらに厳しくなり、同十七年に宗門改役が幕府に設けられ、寛文四年 以後には各藩にも置かれた。それに伴い、宗旨人別帳の作成がすすめられ、家 ごとに氏名・年齢・宗旨・異動状況を記し、檀那寺の僧侶の証明を受けて宗門 改に提出することが義務づけられた。また人々は婚姻・奉公・旅行・移転など に際しても寺院からキリシタンでないことを証する寺請証文を受けねばなら なかった。

この宗門改・寺請制度を通して、人々は形式上特定の寺院に檀家として結び つけられ、檀那寺は檀家のために葬儀・年忌法要などの仏事の執行や墓地の管 理などの機能を営み、檀家はその寺院を経済的に支えるといういわゆる檀家制 度が確立し、人々の日常生活の中に定着した。こうした優位に立つ仏教に対し て、神道による神葬祭を進める運動もあったが、大勢を揺るがすまでに至らな かった。後に明治時代になって、制度の束縛がなくなり、宗教の自由が認めら れるようになっても、寺院による家単位の墓地の管理が続き、葬式仏教は寺院 を支える大きな経済的基盤であると同時に、仏教は草の根レベルでなお大きな 影響力を持ち続けていた。