• 沒有找到結果。

第一章 権力者と宗教統制

第三節 権力者の神格化

戦国時代という武力の時代では、権力者は自分の支配を正当化・神聖化する ために、まずは「自己神聖化」を通じて、その「露骨な支配装置である軍事権 力」を「大明神、権現、神君、明君という聖なるもの」と結合させたため、同 権力は「宗教性を帯びた政治的権威」へと変質したのである16

織田信長の自己神格化といえば、天正十年(一五八二)に作られた安土城下 の総見寺が想起される。「信長は、己自らが〈神体〉であり生きたる〈神仏〉

である。世界には他の主なく、彼の上に万物の造り主もないと言っていた」17と フロイスが書いているように、信長は民間神道「盆山」という御神体を自らの

16 ヘルマン・オームス著、黒住真・豊沢一・清水正之・頼住光子共訳『徳川イデオロギー』、

83 頁。

17 同前、56 頁。

19

化身として、総見寺本堂ご本尊の上に「仏龕」を造って祀った。

秀吉の場合、彼は朝鮮侵略の過程で、東アジア世界を支配しようとしていた が、死後も皇祖神である伊勢と並ぶ八幡として君臨しようとしたのである。し かし、朝廷に認められなかった。結局彼の神名は、吉田神道の方式で、豊国大 明神として豊国社に祭られることとなった。これは、自分の名前「豊」と「国」

を仄めかすのみならず、彼自身の遺言に述べたところでは、『古事記』におけ る日本の名前を縮めたもの「豊葦原中国」であった18。のち、豊臣氏の滅亡と ともに、豊国社は潰された。

家康もまた自ら神となることを望んでいた。三代将軍家光の相談役、天台僧 の天海は、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合した山王神道説 をもとに、山王一実神道へと発展させた。家康の歿後、家康を山王一実神道の 方式で祀ることにした。

比叡山の麓にある日吉大社は、「大山咋命」という農耕の神と「大己貴神(大 国主神に同じ)」、この二柱の神を祀っていた。この二柱の神及び境内全ての神 は「日吉大神」と称されて、天台宗の教学と日吉大神が結合した「山王神道」

が確立された。そこで日吉神社は天台宗の鎮守神として山王権現とされて、山 王権現が釈迦の垂迹と定義された。鎌倉後期には、更に天照大神と同一視され た。

天海は反本地垂迹論を真似し、本地仏と垂迹神との関係を逆転させた。天照 を本地にし、家康は国の神・朝廷の祖神である天照の垂迹となった。また、比 叡山と京都の関係を模して、江戸に東叡山寛永寺を創建し、天皇に対抗する将 軍の権威を確立しようとした。家康を「東照大権現(東を照らす偉大な化身)」

として祀っており、それによって、天台系山王神道における山王権現という土 着神、皇祖神天照大神、将軍家祖神東照大権現、この三者の同一化を図ろうと した。

このように、権力者は大明神、権現、神君、明君という神聖な表現を通して、

「その政治的なものが『有徳なもの』になってしまったのである。露骨な支配 装置である軍事権力は、聖なるとも結合を通じて宗教性を帯びた政治的権威へ

18 ヘルマン・オームス著、黒住真・豊沢一・清水正之・頼住光子共訳『徳川イデオロギー』、

71-72 頁。

20

と変質したのだ」19という、権力者の支配を正当化・神聖化する意識的な作為 にほかならなかった。

小結

戦国の世が終わり、統一政権が確立する過程の中で、大きな課題となったの は強大な仏教勢力をどう扱うかという問題であった。中世末期には、浄土真宗 の一向一揆の勢力は勿論、京都の町衆を背景とした日蓮、また比叡山の天台宗、

高野山の真言宗などの旧仏教勢力が、それぞれ大きな経済力と武力を持ってい た。キリスト教に対しては寛容的な態度を取った信長は、自分の天下統一を邪 魔する仏教勢力に対しては容赦なく弾圧した。信長は比叡山延暦寺を取り囲み 焼討ちした。また、彼は石山本願寺、伊勢長島、越前一向一揆を徹底的に弾圧 し、戦いの最後はしばしば皆殺しを行った。真宗門徒にとって、最高権威であ る天皇あるいは本願寺の最高指導者と自分たちの間に、中間権力者の介在は許 されず、新しい大名勢力に対抗する立場を取った。親鸞の複雑な教学を「弥陀 一仏をひたすら信じ、後世を願う」ものとして単純化し、単一神教的な性格を もつ浄土真宗を当時の人々に広く受容されたのが蓮如の教えである。死を恐れ ずに敢然と敵に立ち向かう真宗門徒の持つ宗教観が、支配を邪魔するという点 に気付いた信長は、一向一揆を残虐に殲滅する理由は恐らくここにある。

キリスト教の教義は真宗とよく似ていて、排他性が強い。そして、キリシタ ンの武士の場合、神への信仰が常に主君への忠誠より優先することとなり、支 配者の側からすればそれは叛逆思想であり、封建社会の秩序を乱すに足るもの と解された。よって、秀吉と家康などの支配者はキリスト教を禁止することに した。

その後、江戸幕府の厳しい弾圧を受けたキリシタンは、それに反抗し島原の 乱を起こしたが、禁制が一層強化されることになった。幕府は、切支丹ではな いことを証明するために寛永十七年(一六四〇)寺請制度を施行した。庶民は

19 ヘルマン・オームス著、黒住真・豊沢一・清水正之・頼住光子共訳『徳川イデオロギー』、

83 頁。

21

みな寺の檀家に加入する証明と、寺請状を奉行所に提出した。寺請制度を通し て、人々は形式上特定の寺院に属する檀家として結びつけられ、檀那寺は経営 が安定することになり、僧侶が葬式や法事に係わることが多くなったのも江戸 時代からである。近世の寺院や僧侶は結果として封建的支配の末端を担うこと になった。

近世以来の権力者は、単に政治的権力の掌握だけではなく、自らの神格化と、

宗教的な権威づけに腐心していた。死後自ら神として祀られることを表明し、

それによって自己の神格化を求める具体例としてあげられるのは、織田信長、

豊臣秀吉、徳川家康である。信長は民間神道における「盆山」を自らの化身と して、総見寺本堂ご本尊の上に「仏龕」を造って祀った。秀吉の場合は、吉田 神道の方式を援用し、豊国大明神という神名で豊国社に祭られている。家康の 場合は、天海の建言によって、「東照大権現(東を照らす偉大な化身)」という 天台系の山王神道の方式で徳川幕府に祀られていた。

これらの例は、現世での最高権力者が大明神、権現、神君、明君という神聖 なるものとなって、死後も神として天下に君臨しようとするにほかならない。

こうして、個人的な権威が形成されつつ、その支配が正当化・神聖化が図られ ていた。

22