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第四章 明治初期の護法一揆

第四節 民衆蜂起の意識

明治時代にはいり、政府による政治・経済・社会・文化など諸方面にわたる 積極的な開化政策は、西洋文明を手本とした風俗習慣、生活様式、衣食住など の改善を民衆に要求した。

しかし、政府が意図した生活様式や衣食住などの改善に関しては、政府関係 機関や東京・大阪・横浜・神戸などの一部階層に浸透したにとどまり、国民の 大部分を占める地方都市や農村の民衆には一朝一夕に及ばなかったのが実態 であった。地方都市や農村においては、依然として新風俗の導入を拒み、村落 共同体の伝統が根強く残り、政府や県の急激な改善要求に対して抵抗する者も いた。

特にこの時期には、特に異人(外国人)に関する流言が飛び交っていた。明 治四年(一八七一)三月上旬の三河大浜騒動では、当時天拝日拝・神前で祝詞 を読むこと、寺院廃合などの神道国教化的な施策の強行により、真宗僧侶・門 徒の反感を買った。蜂起した民衆は、交渉しに来た役人を見ると、「耶蘇がで た」と騒ぎだし、つい竹槍で残虐に突き殺して、一人が死亡した事件になった。

民衆は新政を強力に推進した少参事服部純を耶蘇のこととし、彼が遣わした教 諭使の僧侶は耶蘇を引き入れようとするものと誤解したという。

明治四年(一八七一)十月石見地方の安濃・邇摩両郡下で戸籍法に反対した 農民や僧侶は蜂起しようとしたが、事前発覚されて未発に終わった。その中で も、「百石高ニ付人三人牛一疋宛御付取 異人ヘ渡ル哉ノ風聞、其外下方一統 衣類諸具農具ニ至ル迄付立テ御取上ゲト云評判モ有之」80、「静間村辺ニハ牛ヲ 釣上ゲ血ヲ取、耕作ノ役ニ立ザル様致し候趣、是等異人ヨリ伝リ候事成ルヨシ、

彼是ヲ案ジ番札等モ不審ニ存ジ候モノ多く」81という噂が囁かれている。

明治六年(一八七三)三月福井県大野・今立・坂井郡一揆では、「頑民共名 トスル処ノモノハ耶蘇宗拒絶ノ事、真宗説法再興ノ事、学校ノ洋文ハ耶蘇ノ文

80 安丸良夫・宮地正人校注『日本近代思想大系 5 宗教と国家』、133 頁。

81 同前。

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ナリ、斯三条ニシテ、彼ノ頑民共唱フル処ノモノ、朝廷耶蘇ヲ好ム、断髪洋服 耶蘇ノ俗ナリ、三条ノ教則ハ耶蘇ノ教ナリ、学校ニ洋文ヲ廃スル事、其他地券 ヲ厭棄シ諸簿冊灰燼トシ、新暦ヲ奉セス、唯旧暦ヲ固守シ、囂々浮説妄誕ヲ唱 エ、兎角旧見故態ヲ脱セズ」82、「教部ニ於テ追々御改正ニ相成、教導施行ノ御 趣意ヲ誤解シ、耶蘇宗教御布行仏教御廃絶ニ相成候ヲ、無拠ノ妄誕浮説紛々流 布候ヨリ、其議愚頑ノ土民洋伝ニ属スル事柄悉ク皆耶蘇ト相心得候ヨリ、散髪 及洋服・洋巾ヲ着ルモノヲ見レハ、耶蘇宗徒ト称ヘ罵詈誹謗シ、或は彼等従来 信仰スル処ノ寺僧モ、偶教導職ニ被為補、三条ノ御趣意ヲ以説教致候得は、忽 チ洋教ニ馴染シ彼ノ宗徒江誑誘スル抔申唱仇視拒絶スルニ到ル83」、と示された ように、維新政府の新政策に対して民衆の完全拒否な態度が窺え知ることが出 来る。

上記にあげた資料のように、当時の地域社会では、異人に関わる流言蜚語が 飛び交い、さらに維新政府の諸政策は異人への恐怖感と結びつき、農民を恐慌 状態に陥れた。この問題ついて、幕末以来の民衆の対外観について若干触れな がら論及したい。

江戸幕府の鎖国体制下に置かれた民衆は、外国人との接触が遮断されて、民 衆は伝統的な意識に止まり、キリスト教を邪宗と見なし、異国(外国)や異人(外 国人)は民衆の日常意識の外にある存在であった。

ところで、幕末の外国船来航により、民衆は異人(異国船)の渡来を凶兆とし、

民衆に災いをもたらすものであるという意識が形成されつつあった。

こうした状況の中で、攘夷を打ち出した長州藩は四国連合艦隊下関砲撃事件 によって欧米列強の力の強大さを見せつけられて、攘夷の不可能を悟り、藩論 を尊攘から討幕へと展開させていった。同藩は対外和親の方針に転じるように なった。それにもかかわらず、維新期の民衆にとって攘夷は相変持続すべきこ とであった。

その後、薩長を中心とする勢力が討幕運動を展開し、やがて維新政府を成立 させるに至った。維新政府は「民衆の伝統意識からは理解しがたい諸政策」84

82 青木虹二・森嘉兵衛共編『日本庶民生活史料集成』第十三巻:騒擾、727 頁。

83 同前、728-729 頁。

84 安丸良夫著「日本の近代化と民衆思想」(青木書店、一九七四年)273 頁。

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次々と実施していった。

幕府は西洋列強の脅威によって開国を強いられた。そして、幕府を倒して成 立した維新政府は、本来の攘夷の方針と違って、「異人」に倣って諸政策を推 進していった。幕末以来、敵対的な〈他者〉(異人)のイメージが新政府と結 びついて、新政府が民衆を脅かしす敵対的な〈他者〉となった85。民衆の伝統 意識からは理解しがたい諸政策を出した維新政府の背後には、異人の勢力があ って、そうした「異人」を排除することこそ、民衆の幸福と安寧があるという 意識が潜んでいた。

したがって、維新政権が全体的に敵対的な〈他者〉として見なされていたた め、その諸政策も全体的に反発された。例えば、大野・今立・坂井郡一揆のよ うに、三条の教則(敬神愛国・天理人道の明示・皇上奉戴と朝旨遵守)をはじ めとし、断髪・学制・地券・新暦などの政策が民衆に反抗されて、「既ニ大野 町地券役所ヲ放火シ、亦戸ニ強壮ノ者ヲ募リ殆ト三千人余ニ及ヒ、福井支庁ニ 襲来ノ勢ヒ有リ」という官側を攻撃するような情勢になっていった。「古帳役 人ヲカタキ取ル事86」「大野出張所放火焼失、…(中略)夫ヨリ戸長佐々木脩方 破却87」とあるように、権力側の地方組織である官吏及び地域での政策推進者 戸長も、敵対的な〈他者〉と同一視されて、一揆側の攻撃の対象となった。

明治維新は江戸時代の封建体制を一挙に改革したが、民衆にとって、すでに 根ざした旧習や諸政策を廃棄して、一挙に新規なものに切り替えるのが、そう 簡単には出来ない。当時不穏な状況が続くなか、民衆の維新政府に対する不信 感が高まり、異人に対する恐怖感を伴いつつ、維新政府が推進する開化政策に 対する様々な疑惑・反発が高まるようになったと考えられる。

小結

明治初年において明治政府の宗教政策を主要な原因とする有名な農民闘争 に、明治四年(一八七一)三河大浜の騒擾事件や明治六年(一八七三)越前の

85 安丸良夫著「日本の近代化と民衆思想」(青木書店、一九七四年)274 頁。

86 安丸良夫・宮地正人校注『日本近代思想大系 5 宗教と国家』、127 頁。

87 青木虹二・森嘉兵衛共編『日本庶民生活史料集成』第十三巻:騒擾、734 頁。

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一揆及び未発に終わった明治四年(一八七一)島根県安濃・邇摩二郡一揆など がある。これらの一揆は護法一揆及び新政反対一揆の両性格を持っている。

三河大浜の騒擾事件の原因について、維新政府の路線に沿ってに積極的に新 政策を展開した菊間藩少参事服部純が、寺院の廃合、僧尼の制限などをすすめ、

法談講釈などの私的集会を禁じ、国学の天拝日拝や産土神の唱言を念仏から祝 詞に変えようとしたことなどがその原因であった。

島根県安濃・邇摩二郡一揆の原因について、廃仏毀釈の状況を背景に、戸籍 制度と氏子調が仏教破滅という噂を助長した。さらに、石代納のような経済問 題も農民に不安をもたらした。

越前の場合は、西本願寺の僧石丸八郎が門末に寺院廃合をすすめ、三条の教 則を説いたりしたことが直接的なきっかけとなり、農民たちは、(一、耶蘇宗 拒絶の事・一、真宗説法再興の事・一、学校に洋文を廃する事)三か条を要求 したという。「耶蘇宗拒絶」というのは、三条の教則など、大教院制度の下で の神道国教主義的な教説を「耶蘇宗」としたので、農民たちは、「学校ノ洋文 ハ耶蘇ノ文ナリ、朝廷耶蘇ヲ好ム、断髪洋服耶蘇ノ俗ナリ、三条ノ教則ハ耶蘇 ノ教ナリ」88などととらえていた。この一揆は真宗信仰の根強い地域で始まっ たものであったが、地券の廃棄など、新政の全体に反対するいわば新政反対一 揆の性格をも持っていた。

三河大浜一揆の場合でも、農民たちは天拝日拝などを耶蘇の教えとし、洋服 姿の役人を「耶蘇」だと批判し、それらの人を殺した。新しい中央集権的な国 家の成立が、民衆の既存の生活を脅かすとき、民衆の行動は廃仏への批判や「耶 蘇」への攻撃に転化したのである。民衆は自分の生活様式を外から脅かすあら ゆる威力を敵対的な〈他者〉と見なし、「耶蘇」がその最も排除すべき敵対の

三河大浜一揆の場合でも、農民たちは天拝日拝などを耶蘇の教えとし、洋服 姿の役人を「耶蘇」だと批判し、それらの人を殺した。新しい中央集権的な国 家の成立が、民衆の既存の生活を脅かすとき、民衆の行動は廃仏への批判や「耶 蘇」への攻撃に転化したのである。民衆は自分の生活様式を外から脅かすあら ゆる威力を敵対的な〈他者〉と見なし、「耶蘇」がその最も排除すべき敵対の