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第二章 近世における排仏論と寺社整理

第二節 近世における寺社整理

(一)会津藩の寺社整理

会津藩藩主保科正之(一六一一~一六七二)は三代将軍家光の弟、七歳のと き秀忠の密命により保科正光の養子となる。寛永八(一六三一)年信濃国高遠 藩主(三万石)となる。出羽山形藩をへて、寛永二十年(一六四三)に会津に 入り、高二十三万石を領した。徳川家綱を補佐し幕政を主導した一方、家臣団 の組織、新田開発、検地、社倉・義倉の設置など、藩政の基礎をかためた。

保科正之の藩内事業の中には、寺社整理があった。寛文五年十二月、公儀よ り「諸宗寺院法度」、「諸社禰宜神主法度」が制定された頃から、会津藩でも本 格的な寺院統制が始まった。しかし実際には、それ以前から正之による藩内の 寺社整理は徐々に進められていた。領内の寺院整理、淫祠破却、名社復興とい った正之の積極的な宗教政策の基礎事業として、寛文四年(一六六四)保科正 之は領内社寺の調査を命じていた。『会津藩家世実紀』寛文四年九月十四日「寺 社縁起御改被仰付」条に、次のように記されている。

御領内並びに御預所ともに神社の数、垂迹本地名神婬祀、勧請年歴の由来、

開基年歴の由来、社人・社僧・住持・看主虚言を申さざるように、つぶさ に相改候、(中略)翌寛文五年巳四月中まで、銘々差出し、真偽取捨いた し、すべて縁起二十四冊の内、寺院十八冊、神社四冊、堂宇壱冊、新地寺 院壱冊編成就す。18

翌五年四月に家老友松氏興(一六二二~一六八七)らが各寺社に提出させた縁 起の調査にあたり、その結果、由緒のある寺院は残り、新しい寺院は逐次整理 された。その時に提出された縁起は、寛文六年(一六六六)にかけて書き上げ られ、『会津寺社縁起』19として二十四冊にまとめられ府庫に納められた20

18 会津藩編、『会津藩家世実紀』二十五巻、182 頁。(東京大学史料編纂所 近世編年データベ ース)

19 寛文六年(一六六六)成立。会津領内の寺社の縁起を改めさせ、二十四冊の書籍にまとめ たが、現在残るのはその一部に限られる。

20 豊田武監修『会津若松史』第三巻 会津藩の成立。(会津若松市、一九五六年)367 頁。

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寛文六年九月二十一日、会津領内、南山御蔵入21の全村に及んで、領内の寺 院整理が断行された。『会津藩家世実紀』には、

二十年来の仏堂僧院取毀せらる、其中に新地の寺院古蹟の様偽り言ひ立た る僧侶は急度曲事仰付られ、新地にあらずとも、久々住持も絶し場所は再 興せられたる類もあり。22

と記載された通り、二十年来新建の仏堂・僧院の取り壊しが命じられ、そして 新地の寺院を古跡のように偽ったものをきびしく処罰されるとともに、新地で なくとも、長く住持の絶えた寺の再興が許されない事となった。また、こうし た悪行の僧侶の中には、糾明の上、あるいは退院・追放され、或いは寺を破却 されたものも少なくなかった

また、『会津神社志』23は領内の由緒正しい古社二百六十八座を調査確認して 掲載した書物で、その神社改めによって神仏分離、「淫祠」破却および寺院整 理を行い、神社保護に基づく宗教政策が確立した。

但し、寺院聖地にあたっては保科正之は慎重であった。速やか破却すれば、

門跡・本山等は訴訟を起すかもしれない。後に述べる岡山藩の寺社整理につい て、保科正之は急進的に寺院整理を進めた池田光政を批判している。彼は寺院 整理を着々と進め、丁寧に処理するという方針を採っていた24。このように会 津藩の寺院整理は、幕府宗教統制の枠から一歩もはみださない、新建寺院の破 却という段階に留まっており、岡山藩・水戸藩とは内容的にはかなり相違して いることが分かる。

(二)岡山藩の寺社整理

岡山藩主池田光政(一六〇九~一六八二)は、江戸初期の著名な外様大名で

21 会津南山御蔵入領である。現在の福島県南会津郡、大沼郡の大半にあたり、江戸時代はは 幕府領で会津藩の預り地である。

22 会津藩編、『会津藩家世実紀』二十八巻、276 頁。(東京大学史料編纂所 近世編年データベ ース)。

23 会津藩内の神社について、藩主保科正之の命をうけ,服部安休が記した書であり、寛文十 二年(一六七二)十月に完成された。

24 圭室文雄『江戸幕府の宗教統制』(評論社、一九七一年)100 頁。

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あり、慶長十四年(一六〇九)四月四日岡山城で生まれる。慶長八年(一六〇 三)以降池田家が岡山藩三一万五千石を領知したが、光政は元和二年(一六一 六)父の遺領を継いで姫路藩主(四十二万石)となり、翌元和三年(一六一七)

鳥取藩主(三十二万石)に転じ、寛永九年(一六三二)第三代岡山藩主となっ た。およそ四十年間藩政を主導し、陽明学者熊澤蕃山を登用した。

まず、光政は『有斐録』に次の通りに述べていた。

権現様の御意に、神仏共に御用ひなされ候との儀なり、神道は正直にして、

清浄なるをを本とし、儒道は誠にして、仁愛なるを尊む、仏道は無欲無義 にして、忍辱慈悲を行とす。三教共に斯くの如くならば、誓ひ教は品々あ りとも、世に害あるべからず、今時神道・儒道衰微なれば、善悪見るべき なし。仏道は大きに盛なれども、坊主たるものは、多くは有欲有我にして、

慳貪邪見なり、己が不祥破戒の言分は、各我等如きの凡夫は、善行をなす 事ならず、欲悪ながら阿弥陀仏を頼みて、極楽に生ず、題目だに唱ふれば、

成仏すといふ、是れ人に害を教ふるなり、自今以後、此の如きの邪法を説 きて、人の心を損ひ、風俗を乱るべからざること。25

最初は神道・儒道・仏道の本来の姿を規定している。そして、仏教は繁盛であ るが、僧侶の行為は不如法なものが多いと断じている。また、彼等の行動は庶 民に悪を教え、風俗を乱すものとしている。

寛文六年(一六六六)八月五日、光政は領民に対して、宗門手形の作成を命 じた。それは寺請証文を廃止して神道請証文に改正することであった26。 まず本人がこれまで寺請状をもらっていた寺の宗派・寺名を記し、この寺院 から離れ、これまでの仏葬祭から儒葬祭27に変わったこと、そして進行する生

25 三村永忠『有斐録』(国史研究会、一九一六年)、126-167 頁。

26 『池田光政日記』11 巻、569 頁。(東京大学史料編纂所 近世編年データベース)。

27 儒教式の葬祭をいう。遺体を火葬でなく土葬にすることと遺族が喪に服する期間が長いこ とを特色とする。儒教では陰陽説によって魂(精神)は天に上り陽に従い、魄(白骨)は地に降 り陰に従うとされる。このため遺体は土中に埋め,魂を別に神主 (位牌)へまつりこめる。

日本では近世以降に儒教の排仏思想が強まるにつれて葬祭も仏式でなく儒式に改めるべき だという主張のもとに儒葬が行われ始めたが、当時幕府の宗門改めと寺請制度により実際に は仏葬が強制されていたこともあって、儒葬を実行する範囲はごく限られていた。山本武夫

「儒葬」、『国史大辞典』、吉川弘文館、ジャパンナレッジ(オンラインデータベース)。

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所神(産土神)であることを記させた。ここで宗派を真言宗としているのは、

この宗派が領内で最も多いからである。つまり仏教信仰を捨て、何月何日より 神道を進行することを明示、それゆえ宗門手形はこれまでの寺請状ではなく、

神道請状を神官から提出させること、としている様子が分かる。神道請状の案 文は神主が作成するものであるが、神道請のため最後に産土神の神官が署名し て、キリスト教徒ではないことを保証する形を採っている。寺院側はこれに対 し、猛烈な反対を示したため、延宝二年(一六七四)には、神仏それぞれ好む ところにしたがって、貞享四年(一六八七)には、幕命により、神職の者のみ、

神道改め則ち神道請証文となった28

このように、光政は寺請制度を廃止し、神主により神道請制度を実施し、実 質的に寺の檀家を取り上げる政策を取った。その結果、六八三社の神主の手で 神道請が行われ、領内人口の九七%が神道請に替えられた。

次いで、寺社整理については、神社のほうでは、荒神をはじめ淫祠邪神等を 整理し、領内の一〇二八社を整理し、寄宮七一社に合祀するとともに、大社・

産土社六一二社を残し、合計六八三社のみの存立を許した。一方、もともと日 蓮宗不受不施派の一大拠点である岡山地域では、寛文七年に日蓮宗不受不施派 を厳しく弾圧し、同派の寺院三一三ヶ寺を整理し、五八五人の僧侶の転宗・追 放29といった厳しい宗教弾圧を行っている。

光政は儒教的な合理主義の立場から、寺院淘汰・神社整理・キリシタン神職 請制度の採用など、幕政に準じない独自の寺社政策を断行した。

(三)水戸藩の寺社整理

続いて、水戸藩の寺社整理を見てみよう。

続いて、水戸藩の寺社整理を見てみよう。