4.1 テハ条件文に言語化される事態の性格
4.1.2 b「否定的判断」「通常の凌駕」以外にも言及するもの
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立 政 治 大 學
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表7 先行研究におけるテハ条件文の性格規定
「否定的判断」 「通常の凌駕」
松下 (1930) 言及しているが、名称はない 言及していない
川端 (1958) 言及しているが、名称はない 言及しているが、名称はない 蓮沼 (1987) 「反期待性」 「意外性」
有田 (1999) 「否定的含意」 「尋常ではない事態」
なお、蓮沼(1987)には、外見上、テハ条件文と一致していても、「動詞の条件 形の後置詞化しているもの、ないしは、その中間形態のもの」は、テハ条件文 と同じ振る舞いを示さないとの指摘が見られる。
(64) すべてが終わった今となっては、あれほどの苦労も懐かしく感じられる。
(蓮沼1987:13) (65) その上あたりは墓のようにしんと静まり返って、たまに聞こえるものと
云つては、唯罪人がつく微かな嘆息ばかりでございます。 (同上)
このようなタイプの「テハ」は、典型的なテハ条件文とは異なり、前件と後 件が「内的な因果関係」から「外的な関係」に変化していることから、例外と して、テハ条件文の持つ事態の制約(本研究の言葉で言えば、「否定的判断」及 び「通常の凌駕」という判断を言語化するという)から自由になるとされてい る10。本研究も、この指摘に同意するものである。
4.1.2 b「否定的判断」「通常の凌駕」以外にも言及するもの
塩入(1993)は、「否定的判断」「通常の凌駕」以外の事態を言語化するテハ条 件文に言及している。塩入(1993)が、「否定的判断」「通常の凌駕」以外の事態 として挙げているのは、次のような例である。
1. 原因となる事態が受身の意味を持つ(主節は「当然」の意味になる)
(66) 女の子に誉められては、ぼくだってうれしい。
10 蓮沼(1987)の注 15 を参照。
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(塩入1993:69) 2. 原因となる事態が知識の獲得を意味する
(67) あれだけ大きな魚を目にしては、見逃せない。
(塩入1993:70) (68) 財前教授のお弟子さんとあっては、安心です11。 (同上) 3. 結果となる事態が可能表現の否定である(主節は「当然」の意味になる)
(69) 母親に約束しては、破れない。 (塩入 1993:71)
しかし、 1、3 の主節が「当然」の意味になっているのは問題ないとしても、
なぜ、受身だと「当然」の意味が生じるのかが不明である。また、主節が「当 然」の意味になると、テハ条件文が「否定的判断」及び「通常の凌駕」という 判断を言語化することから自由になる理由も説明されていない。さらに、主節 が「当然」の意味になっても、テハ条件文に「否定的」という性格が認められ る例もある。
(70)あんなひどいことばかり言っていては、誰だって反感を持ちます。
(作例)
見られるとおり、例(70)の主節は「当然」という解釈を可能とするが、同時 に、このテハ条件文には「否定的判断」が言語化されているのである。また、
例(66)と(69)は、「否定的判断」「通常の凌駕」ということと無縁ではないだろ う。本研究の筆者の内省によれば、(66)は不適格というほどではないが、若干、
落ち着かない印象がある。しかし、それを、次の(71)のように手を加えると、
格段に言いやすくなる。
(71) 結局はお世辞なんだろうけど、女の子に誉められては、僕だって嬉しい。
「結局はお世辞なんだろうけど」という、話し手にとって、否定的な内容を 付加することによって、文の適格性が上がるわけである。また、例(69)の場合
11 「あっては」も、2 の「原因となる事態が知識の獲得を意味する」タイプと同じだとして
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は、母親と約束したことによって、話し手には何らかの義務が負わされること になる。つまり、話し手に負担をもたらす内容なのであって、「否定的」な側面 を持っていると考えられるのである。
一方、2 の場合、例(68)の「あっては」は、動詞「ある」を用いた条件文では なく、固定化されたもの、つまり、蓮沼(1987)の指摘する「条件形の後置詞化」
の例と見なしうるので、「否定的判断」「通常の凌駕」という性格が認められな くても問題はない。そして、残る例(67)であるが、これは「通常の凌駕」とい う判断を表すものではないだろうか。
(67) あれだけ大きな魚を目にしては、見逃せない。
(67)には、「あれだけ」という極端な程度を示す指示語が存在しており、その 点で、先に「通常の凌駕」の例とした(48)(54)と共通する。また、この文は、
通常の大きさをはるかに超えた魚を前にして、獲りたいという気持ちが高まる ことを述べている。つまりは平静な状態からの逸脱であって、ゆえに、これを
「通常の凌駕」という判断が表されたものと解することに問題はない。これら の他にも、塩入(1993)で挙げている文は、みな「否定的判断」「通常の凌駕」を 言語化するものと解釈可能であり12、「否定的判断」「通常の凌駕」以外の性格を 認めようとする塩入(1993)の見解は、説得的なものであるとは言えないのであ る。
ここまでは、テハ条件文が話し手の「否定的判断」及び「通常の凌駕」とい
12 そのうちの一部について言及しておく。
イ 試験会場に親が来ては、受験生も失敗できない。
ロ 敵も準備を進めていると聞かされては、負けられない。
イの場合、親が試験会場まで来ることによって、受験生には「絶対に失敗できない」といっ た負荷がかかることになる。この「来ては」を、たとえば「来ると」に変更した文が、より 客観的な叙述となるのに対して、イからは「親が来たらプレッシャーで大変だ」といったニ ュアンスが感じられる。つまりイは、話し手が受験生の側に少し寄って、受験生にとっての
「否定的判断」を言語化しているのである。一方、ロは先掲(67)に通ずる例だと考えられる。
つまり、このテハ条件文に言語化されているのは、話し手に「負けられない」という感情の
高まりをもたらす、刺激的な事態なのである。その点で、「通常の凌駕」という判断が言語
化されたものと考えられる。
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う判断を表すものであり、その点で、第 3 章で見た女性語の「わ」と共通して いることをあらためて確認した。次節では、いかなる理由によって、テハ条件 文に「否定的判断」「通常の凌駕」という性格が生じるのかに関する、先行研究 の言及を見る。
4.2 「対比」性との関連 4.2.1 有田節子 (1999)
有田(1999)は、テハ条件文に見出される「は」には、係助詞「は」の「対比」
という性格が認められ、テハ条件文の「否定的含意」は、その「対比」性から 生じるものであるとしている。次に有田(1999)の述べるところを引用する。
P という事態にとって典型的な対比的事態は¬P(P の否定)である。¬P の含 みをもっとも効果的に引き出すのは、「P と不可避的な関係にある結果的事 態 Q が望ましくない」ということを表すことによってである。不可避的な 関係において、望ましくない結果を回避するためには、原因自体を取り除か ねばならないというところから、テハ構文に否定的含意が生まれるのである。
(有田1999:136、下線は引用者による)
本研究は、この見解には問題があると考える。先掲(58)を用いながら述べる ことにしよう。
(58) 君が行っては、みんなが迷惑する。 (有田 1999:136)
有田(1999)は、P「君が行く」に対する、典型的な対比事態が¬P(=P の否定)、
つまりは「君が行かない」であると述べている。ここで注意すべきは、この「否 定」という概念が、これまで本研究の述べてきた「打ち消し」概念に相当する ということである。そうである以上、テハ条件文の「は」が持つ「対比」性に よって否定的含意が生じるのであれば、それは「打ち消し」に関わるものであ ろう。つまり「君が行っては」というテハ節からは、「君が行かなかったら」と いった否定的含意が生じてくるはずである。しかし、「君が行っては」というテ
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ハ節が帯びる否定的含意とは、そのような「打ち消し」に関わるものではない。
それは「君が行く」ことを「不望」とするような否定的含意だったわけである。
実際、有田(1999)も、「P→Q の Q が望ましくない」ことを表すと、望ましくな い結果をもたらす原因は取り除かねばならないため、¬P の含みが最も効果的に 引き出されて、テハ条件文に否定的含意が生じる、としている。つまり、有田 (1999)においても、ここでの否定的含意が「不望」に関わるものであることが 述べられている。しかし、その「不望」概念としての否定的含意と、¬P、つま りは「打ち消し」とを、無条件に結びつけるわけにはいかない。前章で述べた とおり、同じ「否定」という言葉で表されはするものの、「不望」と「打ち消し」
とは異なる概念として区別されるべきだからである。有田(1999)においては、
「否定」という一つの言葉の中で、「打ち消し」概念と「不望」概念とが混同さ れているように思われる。
4.2.2 「通常の凌駕」という判断に見られる「対比」性
前節で確認したように、有田(1999)の述べるような意味で、「否定的判断」を 係助詞「は」の「対比」性と結びつけることには慎重であるべきである。ただ、
有田(1999)は、「通常の凌駕」という判断に関しても、「対比」性との関連を指 摘しており、本研究は、それにはもっともな面があると考える。
(72) あんなにあわてて引っ越ししては、家の中はむちゃくちゃでしょう。
(有田1999:136)
例(72)は、急に引っ越しが決まり、短い時間で引っ越しの作業を行っている がゆえに、家の中がむちゃくちゃになっているという文である。有田(1999)は、
例(72)は、急に引っ越しが決まり、短い時間で引っ越しの作業を行っている がゆえに、家の中がむちゃくちゃになっているという文である。有田(1999)は、