第二章 膨張の帝国―理想像を探す内地人作家
2.3 内地人の作品分析
2.3.2 佐多稲子『台湾の旅』
佐多稲子(1904-1998)は、1928(昭和 3)年処女作「キャラメル工場から」
を『プロレタリア芸術』に発表し、文学者として出発することになる。この後、
プロレタリア文学者の身分として文壇に活躍した。が、1935 年(昭和 10)に逮 捕され起訴された後、転向時代の重苦しい空気の中に悩んでいる。佐多稲子は 戦後、この期間の生活を「内容的に激しい変化をたどらねばならなかった」と 告白した81。戦時下、文学協力の活動に参加した。1941 年、佐多稲子は林芙美子 らとともに戦地慰問で満州各地を旅行する。翌年、文芸講演会のために台湾を まわる。そして、軍当局、軍報道部から派遣されて真杉静枝らと中国、林芙美 子・小山いと子らとシンガポール・マレー・スマトラという戦地を訪問する経 験もある。第二回大東亜文学者大会が開催されるときに、代議員として出席す る。
『台湾の旅』は文学上の構成が丹羽文雄の『台湾の息吹』に近似している。
物語の話者といえば、「紋多」は作者自身に擬する主人公の役割を担ったキャラ クターである。『台湾の旅』で話者の「私」の名前は「宮川」であるが、実は作 者の佐多稲子のことを指すに違いないと考える。第一人称の形で『台湾の旅』
は作者の体験記に近いと推測できる。台湾を回しているうちに「皇民化運動」
を着目するより、旧友との交流、異国文化の刺激、旅情の叙述は物語の重心で あると観察できる。
「私」が台湾に到着したときに、「紋多」のもどかしさとは違って、「臺灣は すでに久しく私たちの胸に親しいものになつてゐながら、その親しさの故に劫 つて異国的な期待を重ねさせてゐる」(p.453)82という楽しみにしていた様子を 表す。台湾での滞在に、主として台湾に住む日本人が互いに労りあって生活し ていることを見抜いていた。台湾のことを「この島はまことに和やかに甘き土 地である。そのうへに豊かなバナヽの房ゝパイナップルの華麗な列、そして米」
81 佐多稲子「戦時下のこと」、p.1。
82 佐多稲子の『台湾の旅』は 1943-1944 年『台湾公論』で発表される。本論文で使ったテキス トは、『日本統治期台湾文学 日本人作家作品集 別巻』緑蔭書房、1998 年、p.451-487。以下 には脚注を省略する。
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(p.481)や「私を幸福感に頬笑ました砂糖の國である」(p.485)と描出されな がら、工業化に進んでいる台湾を「全島が農事的な生産によって偽つてゐる」
とし、「それが旅人を楽なおちついて氣にもされる」と捉えられる場合もある。
また、プロレタリア文学出身の佐多は『台湾の旅』の中に階級意識を露出し ている。満州を旅行したことがあったので、台湾の住民を接触するときに過去 の経験と互いに対照している。例えば、植民地の酒場の女や人力車の車夫に対 する描写は、性別、権力関係と階級意識などの色彩を帯びている83。労働者階級 への関心のほかに、「正しい国家意識」の表現も作品の中に織り込まれる。では、
作品の中の戦時下の「日本人化」の台湾人をどう描かれるか。
例を挙げると、旅の途中で発熱してしまった「私」は、ホテルで本島人青年 のボーイの世話を受ける。この青年は性質が穏やかで、志願兵の試験に合格し た若者である。物腰が謙譲であった様子は「内地」の模範青年のように見えた。
そして、「女なども支那服をきてはゐるが、そしてその話す日本言葉も片言では あるが、どこかその感じには、彼ら特有のものが薄れて、言つてみれば私たち に親しいものになつてゐる」(p.465)という例もある。この人々と出会った主 人公は、「この本島人がもう内地人に似てきてゐる、ということは、この地で私 の接する本島人の誰にも感じられることだつた」(p.465)(下線は筆者)という 感想ができる。
そして、佐多稲子も戦時色が植民地社会に浸透していく場面を描いた。「私」
はある日、台東のうらぶれた活動小屋で高砂族の青年に話をする。新聞社の人 が演説の中に天皇の御名を言うと、館内の反応は、
ざざつと、ひゞくやうな一齊の音がした。それは聽衆の皆の人が一齊に居ず まゐをなほす靴音だつた。青年團員たちは、黒い顔だけれど、團服に身を固 めた凜々しさだつた。(p.471)
というのである。次に、自動車の旅路では本島人の村の休み茶屋というような
83 許麗芳「殖民時空下的多重視角─佐多稻子〈台灣之旅〉(1943-1944)的台灣書寫」、『興大人文 学報』53、2014 年 9 月、p.158。
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店で、「私」は鄙びたうまい汁を啜ったり、西瓜を食べたりした。そのとき、「村 の小學校には國旗が掲揚されてゐて、本島人の學童の君が代の歌聲が聞えてゐ た」(p.487)。では、作者は以下の段落を以て、旅路に出会った色々な「皇国」
のために奮戦している人間像をまとめる。
臺北のホテルのボーイで、表情も日本人に似て謙讓で落ちついてゐた本島人 の青年が、志願兵に應召してゐたことや、高砂族の青年團員の訓練された統 制の姿や、本島人の女たちの男と見ちがへるやうな逞ましさで田仕事や土木 工事や工場に働いてゐる姿などに、敢へてこの地に挺身してゐる内地人のこ とにはふれずともこの島の活気は見られるのであるが、全體に燃え上がる活 気が、騒々しく旅人を落つかせないといふことはない。(p.481)
以上のようないろいろな場面で、台湾社会の「内地色」が溢れている情況をわ かる。では、本当の内地人の作者は、国語を使ったり、天皇を尊敬したりする 本島人に対する直接的な評価は「本島人がもう内地人に似てきてゐる」という のである。「内地人である」「内地人になる」を使わず、「内地人に似てくる」と いう言葉を用いる。前の節で討論したように、「大東亜戦争」という大きな架構 の下に「共栄圏」の中の民族融和を求め、しかもほかの民族を「日本人になれ る」と要求した日本人は実に「民族」と「血縁」を甚だ重視する。それゆえ、
本島人は理想的な皇国臣民のイメージを完成しても「内地人に似ている」にと どまり、本当の日本人になれないと推測しても過言ではないだろう。
さらに、軍事上や産業上に動員される本島人や高砂族の姿に対して、旅人で ある「私」は「この島の全体に燃え上がる活気」を感じて落ち着いた。国家の 動員体制に帰属される植民地台湾の本島人に親しい感じを持つ原因の一つは日 本語の使用からみると、作者は「台湾人」が「日本人」の一員を内包する事実 を受け入れる。では、「台湾人」が「日本人」として認められる過程に、「私」
は人間の性格が変えられると思うが、その不確定性も感じる。
人間の性格といふものは、何と環境の作用を受けるものなのであらう。それ
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は人間の悲しみであり、そしてまた人間の、雑草の強さにも似た逞ましさで ある。(p.465)
ここは、人間の「民族」「血縁」「身分」などの国策的な言葉を使わず、「性格」
を用いる。つまり、佐多稲子の考えでは、民族とは先天的な要素として変えら れないものであるが、性格の中の感情や意志は後天的なものであるゆえ変えら れる。また、「改変」の原動力は「環境の作用」であると作者は表明する。帝国 は、植民地の環境を恣意的に改造する権力がある。なので、「雑草」という比喩 を利用して人間の強さを感嘆する作者の姿勢が現われるが、環境に従って自分 の性格を変えることを迫られる「台湾人」に対して同情の念を持っていて、国 家の「人格改造」にやや不賛成の雑音が隠される。
戦時の女性は、国民国家の事務に参加して積極的な姿で表われ、それにとも なって女性の地位が向上していたが、民族と国家の問題を向かうときに、かな らず矛盾を遭遇した。動員される男性作家と同様に自由に創作するチャンスが なくなり、当局の指示で国策に協力しなければならなかった84。故に、佐多稲子 は『台湾の旅』に「私」の嘆きを借りて、女性の身分で作家という職業を選ん だ辛さを描き出す。
文学の仕事などゝいふものは、世間の常識からみれば、危かしくもあり、世 上の幸福にははづれることもありがちなのだ。それが女であればなほさらの ことで、女ひとり文学の道に生きてゐる、そのことの辛さは端のものには解 してもらへない。(p.484)
戦後の佐多稲子は、「戦時の作家」という職業の真実を打ち上げる。
作家などという特殊な職業のもの、殊に私自身の、つい先頃まで治安維持法 で警察につながっていたような立場に対して周囲の目は、複雑にそそがれて いた。私はこれに負けたとおもう。周囲の複雑な視線に負けたと同時に、周
84 同上、p.162。
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囲の悲しい事実に対して主観的に負けたとおもう。85
国家の力は文学者の想像に介入しはじめる時点から、文学者が思ったもの、考
国家の力は文学者の想像に介入しはじめる時点から、文学者が思ったもの、考