第四章 異色の大和桜―自己像を探す本島人作家
4.1 皇国思想と天皇制による「皇民化運動」
いわゆる「皇民化運動」を研究するときに、「天皇」にかかわる一連の言葉を も見逃せないと思う。1936(昭和 11)年に小林躋造は第十七代台湾総督へ就任 に始まり、彼の著名な台湾統治の三大方針は「皇民化」「工業化」「南進基地化」
に集約される。第一項の「皇民化」について、小林総督は「内地と同様の神経 感覚を持つ所謂同化された天地」を創出するために「国語の普及、敬神崇祖の 美風、国土の為になる合同奉仕作業等を奨励し一面従来の慣習にして日本人た るに適せざる陋習を打破する等ゝ」の「皇国民精神強化運動」であると示す135。 1940 年(昭和 15)年に鷲巣敦哉は、『台湾保甲皇民化読本』において島内の皇 民化運動の現状を感想の形で記す。満州事変、国際連盟の脱退事件、戦争がも たらした思想界と政界の反省などの経緯で「本島人に日本精神をわからしめ、
形、心共に立派な日本國民に導くへし」と思った鷲巣敦哉は、「皇民化運動」の
「真意義」を解釈しようとした時に、同じく小林総督が地方官会議での発言を 引用する。
殊に帝國の使命と臺灣の地位と現下の情勢とに鑑み、五百萬島民打つて一丸 となり、齊しく皆國民たるの資格を體得し、相携へて國運の興隆に貢獻する 覺悟を新にするは最も緊要の事に屬す。之が為め汎く皇國精神の徹底を圖り、
普通教育を振興し言語風俗を匡勵して忠良なる帝國臣民たるの素地を培養し、
併せて多數健全なる母國人を誘致して淳良なる民風を振作するを要す136。
135 山本有造「日本における植民地統治思想の展開(2)―「六三問題」・「日韓併合」・「文化政治」・
「皇民化政策」―」『アジア經濟』32(2)、日本貿易振興機構アジア経済研究所研究支援部、1991 年 2 月、p.47 から引用する。
136 中島利郎・吉原丈司編『鷲巣敦哉著作集3―台湾保甲皇民化読本』、緑蔭書房、2000 年、p.168。
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小林総督と鷲巣敦哉など「日本人」の視点からみると、彼らにとって「同化」
と「皇民化」との間に大きな差はないようである。なぜ台湾人は「日本人」の 一員になれない理由は、台湾人の心の中にに「支那人民族であるか」の考えを ずっと持っていたのである。なので、以上の引用文で、被植民者の台湾人が統 治者の日本人から「さっそく皇国精神を受け入れて日本国民のように国家のた めに犠牲する」と要求されることが明らかに観察できる。それゆえ、ここでは 二つの結論を再び検討することできると考える。第一に、「天皇制」の性格はい かに台湾の政策を影響したかを理解してから、「皇民化運動」を施すときに「日 本人化」運動という名称を使わず、「皇民化」を使うことを知る。第二に、台湾 統治の実状を関心するにともない、常に台湾人の主張を代弁する姿勢をとった 泉哲は、台湾での社会的不平等の問題を直ちに指す。社会的待遇の不当なる事 に関し台湾人は極度の屈辱を感じていた137。換言すれば、1895(明治 28)年に て領台から 1937(昭和 12)年皇民化運動の展開まで、「皇民化」の責任を担う べきだった台湾人は、平等的な「日本人」の地位を一度も持っていなかった。
さて、近代日本帝国主義思想の最有力な鼓吹者であった徳富蘇峰は 1916(大 正 5)年『大正の青年と帝国の前途』の序文で「君民徳を一にし、挙国一致的の 帝国主義なり、即ち内に平民主義を行ひ、外に帝国主義を行ひ、而して皇室中 心主義を以て両者を一貫統制するなり」という。ここにいう平民主義は、蘇峰 のことばによれば「国家的平民主義」もしくは「天皇の臣民主義」である138。そ れは「天皇制の帝国主義」に進む道を予告したと言えよう。
近代になると、日本は東アジアにおいて唯一の立憲制国家とはなったが、ま さしく絶対専制的・軍事的・警察的な天皇制の性格を持っている。大日本帝国 憲法の最大の特色は、万世一系の天皇が統治権を総攬する天皇の大権(第一条)
によって、帝国憲法の権限と国民の基本的權利がいちじるしく制限されていた139。 国家の形成は国民の誕生を促し、民間では徳富蘇峰らの平民主義、陸羯南の国
137 山本有造「日本における植民地統治思想の展開(2)―「六三問題」・「日韓併合」・「文化政治」・
「皇民化政策」―」、p.41 から引用する。
138 井上清『日本帝国主義の形成』、岩波書店、1974 年、p.1。
139 松尾章一『近代天皇制国家と民衆・アジア』上、法政大学出版局、1998 年、p.203。
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粋主義、内村鑑三のキリスト教思想、あるいは北村透谷ら体制拒否者など、さ まざまな形の社会像・国民像が構想された140。が、「現人神」の天皇は「国家統 治ノ大権」を掌握して国家の頂点に立つ。天皇の絶対的神聖化の上に建設した
「皇国」において、憲法体制で規範された臣民像が、民衆の内部に浸透し、人 民はついに「臣民」の道へ歩んでいく。「臣民化」の過程では、「臣民」が伝統 的な儒教的忠孝主義、天皇への絶対的忠誠観念によって大きく規定されざるを えない枠組みの中に置かれた141。
では、「国体」の中心思想は天皇制をめぐって「正当性」が樹立された後、教 育政策の基本内容は天皇主義・帝国主義教育の徹底化と「立身出世」主義によ る学歴社会の確立であったと松尾章一氏が指摘する。その主柱はいうまでもな く「教育ニ関スル勅語」であった。「常ニ国憲ヲ重シ、国法ニ遵ヒ、一旦緩急ア レハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ、是ノ如キハ独リ朕カ忠良 ノ臣民タルノミナラス、又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」と宣明され た内容では、天皇はが「忠君愛国」のシンボルに位置され、あらゆる「臣民」
に「皇運」という大きな目標の下に奉公させる。きわめて天皇制的国家主義が 完成した。
天皇制が組み立てられるうちに、政治体制と教育方針の結合が明らかに現わ れ、さらに「天皇」の宗教性も深める。前述のように「教育勅語」が渙発した 後、神話重視の歴史教育は余すところなく実行されていた。例えば、教科書の 改訂によって、皇国史観の概念が繰り返して強調された。尹健次氏の考察によ ると、日本は「神国」である記述が増えることに加えて、「神国」の理念に基づ いた国土の領域は、地域的・身分的に各種各様であった人民を「国民」を囲い 込むという作用を発揮した。言い換えると、これは「国体的君権の至高性・無 制限性を統合原理にした同祖同族的な民族的一体感を醸成し、近代天皇制国家 の支配の正統化をはかろうとするイデオロギー操作であった」142という。
日本帝国はどうやって海外拡張の行為を合理化させるだろうか。その根本的 主柱は「政治・教育・宗教」の三つの面が互いに強い繋がりを築き、「天皇制」
140 尹健次『日本国民論-近代日本のアイデンティティ』、p.98。
141 尹健次『民族幻想の蹉跌―日本人の自己像』、p.33。
142 同上、p.58。
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の影響力を最大化させようとするのである。それゆえ、帝国は強大な統御力を 獲得するとともに国民精神も涵養できる。この精神は植民地にも及んでいる。
鷲巣敦哉の考えでは、「新しい国民」であった台湾人は「教育勅語」を深く理解 しなければならないと主張する。何故かと言うと、八紘一宇の皇道精神も、敬 神尊皇の精神も、君民一体の忠君愛国の精神もみな教育勅語の趣旨であると彼 は思う。なので、「本島人の皇民化」について、鷲巣敦哉の意見は以下のように 示す。
本島人の皇民化には、本島人が我國が世界に誇る國體の尊いことを知り、日 本臣民たる道を知り、同時に支那の歴史や外國の新領土統治等と比較して、
我が一視同仁の仁政に感謝し、支那民族であるやうな考へをすてゝ立派な日 本國の一人として心から内地人と共に、手をとつて行かうと云ふ考へになる ことが大切であります143。
第二章で討論するように、西洋帝国の文明発展に比べて劣位に屈した日本人に とって、「天皇制」は民族の誇りとして重んじられる。現在、一般に台湾におけ る「皇民化運動」を論及していたときに、まず、四つに分けられる政策が注目 される。具体的にいえば、第一に漢文廃止と日本語教育の徹底、第二に寺廟整 理と神社の建造の強制、第三に改姓名運動、第四に皇民奉公会の結成である。「同 化運動は、政治的同化と経済的同化を意味していたが、皇民化運動は文化的同 化を意味していた」144と伊藤幹彦氏が評論し、『台湾の息吹』でも「内地の翼賛 運動は多分に政治的な運動だが、おなじ政治にしろ、皇民化運動となると、ス ケールも大きく、深さもあるんぢやないか」145と記す。
しかし、いわゆる「皇民化」という言葉の出現は官庁が主導して使ったのか。
蔡錦堂氏の詳しい考察を参考にすると、「皇民化」の使用は最初から 1936 年 8
蔡錦堂氏の詳しい考察を参考にすると、「皇民化」の使用は最初から 1936 年 8