第四章 異色の大和桜―自己像を探す本島人作家
4.3 本島人の作品分析―『決戦台湾小説集』
4.3.1 言外の意味―醸しだされる作家の態度
4.3.1.3 楊逵「増産の蔭に―呑気な爺さんの話―」
日本統治期から戦後まで、台湾における著名な作家の一人として、戦時下の 楊逵は国策の線に沿って動くように見せかけながら、積極的に農民の中へ入っ ていた233。幼いとき公学校に入学し日本語教育を受け、渡日した後、昼は労働し、
夜は日本大学文学部で文学を学び、社会主義運動の影響を受けた。日本統治時 代に社会運動で十回くらい入獄している。1936 年本島人作家中心の『台湾新文 学』を創刊して、自らも写実主義文学主体の作品で台湾の現実とその矛盾を描 いた234。漢文の禁令が公布、日中戦争も勃発後、文学活動が少なくなる。フェイ・
阮・クリーマン氏は「植民地時代の楊逵ほど、この社会的リアリズムの達成を 追求した作家はいなかった」と称え、「小説については賛否両論あるにせよ、植 民地台湾の社会的・経済的状況に関する彼の観察眼は非常に鋭かった」235と評価 する。
石底炭鉱に派遣される楊逵は、「増産の蔭に」の語り手を肉体的に虚弱な「私」
として設定する。却って、同小説に登場する坑夫たちは頑健で勤勉なイメージ が鮮やかである。第一人称の「私」は「情報課のお世話でこの炭礦を見せて貰 ひ、それを小説に書く為めに来たのだ」と述べるので、語り手は作者自身の投 射だと考えよう。「私」と「私」が炭鉱で巡りあった知人「張君」、「呑気な爺さ ん」の家に養女になった「金蘭」の三人は、ここで分析したいキャラクターで ある。さらに、これも作家自身の「実像」と彼が創造したキャラクターの「虚
233 尾崎秀樹『近代文学の傷痕―旧植民地文学論』、p.157。
234 『日本統治期台湾文学小事典』、p.104。
235 フェイ・阮・クリーマン『大日本帝国のクレオール――植民地期台湾の日本語文学』、p.199-200。
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像」と同時に作品の中に登場する例だと見なす。
「この若き労働者の顔に、私は閻魔様の尊嚴さを見た」(坤、p.98)と労働者 を尊敬している楊逵は、台湾人労働者の「張君」をどう描くだろう。張君とは、
前に「私」の農園で働き、「私」のことを「世話役さん」と呼ばれ、いま坑夫を 勤める男である。「彼は所謂無學文盲の男であるが、私の小説の愛讀者であると ともに、私の先生でもあつた」(p.103)。皇民化運動が白熱化していった時代に
「国語不解者」の人を「先生」という高い社会的地位を認め、楊逵は「国策」
の標準に対する皮肉ではないだろうか。彼は自分で理由を解釈する。
文字は知らなかつたが、その鋭敏な感性と豐富な經験から、何時も澤山の小 説の種を供給して呉れた男であつた。そして、私は私で、何か書く度に必ず それを讀み聞かせ、彼が面白くないと言ふものは惜しげなくたきつけにして 來たのであつた。(p.103-104)
彼は私の小説のよい鑑賞家だつたばかりでなく、實に私の生き方の辛辣な批 評家であつた。(略)彼は私の臆病風を吹き拂ひ、私を元気づけ、鋼鐵が鍛へ られることに依つて益々堅くなることを、卑近な生活で以つて私に教へて來 た、正しく私の先生であつた。こんな人達を見下げることに依つて、自分の くだならさを無遠慮にさらけ出して來た吾々所謂知識階級は、今こそ褌を締 めなほさねばならぬと思つたりした。(p.131-132)(下線は筆者)
坑夫の張君は委嘱計画の中に国策にふさわしい「産業戦士」の代表である。し かし、張君は楊逵に称えられる理由は、国のために奉公する労働者であること ではない。それに労働者という勤勉な性質は「日本人」との間の関連性もあま り遡らない。楊逵にとって、張君が「無学文盲」として、小説が鑑賞できる経 験と豊富な感受性を持つ気立ては褒めるところである。まして、張君の性格の 堅さも「知識階級」の楊逵に恥ずかしいと思わせる。世間に頑強な生き方を教 える張君に対して、楊逵は先生のように尊う。
張君以外に、「漫画の中に出た呑気な爺さん」も重要なキャラクターだとされ
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る。「毛髪は霜降りをとほり越して、九分通りの白さだつた。六十に近いのであ らうが、ただ顔は日にやけて元気そうだつた」(p.111)老人は勞務係嘱託の佐 藤金太郎と呼ばれる人である。「私」は張君とめぐり合ったときに、彼の国語が うまくなることを驚かせるが、爺さんの指導で進歩してきたのである。普通に も子供たちに国語を教える爺さんの姿を見て、子供たちが今後「私より立派な 國語を使ふだらう」と嘆く。優しくて穏やかな日本人のイメージで登場する爺 さんは、二十ぐらい本島人の孝行娘の金蘭を養女として引き取る。最初から女 中であったが、今後も爺さんの家から嫁に出す。爺さんの自慢の孝行娘は、本 島人百姓の娘に生まれてから十五歳まで学校のことを知らなかったが、日本人 の養女になってから「日本人」の性質も付けられる。
(十九の年)新聞を讀み、小説などを愛讀し、早稲田の文學講義を讀みかけ てゐたさうである、それはそれで大したこともないが、爺さんが一番喜んで 話すのは、この娘が、日本娘のよい點をすつかり身につけてゐたと言ふこと であつた。(p.124)
「台湾人同化のモデルは、官公庁的で型にはまってお」るとフィックス氏が指 摘するように、新聞や小説を読める高い国語の能力、日本人の女性と同じ美点 を持っている金蘭はその典型に属される。
人物を分析するまえに、楊逵の作風について検討する。「楊逵はプロレタリア 文学の作家だが、社会運動家でもあり、彼の作品では、社会的メッセージや使 命感が芸術的表現を凌ぐことがしばしばであった。楊の作品に一貫して見られ る主題である、社会正義を申し立てる切迫感は、彼の人生と密接に関連してい た」236と指摘される。主な作品は「社会批評の媒体」で、「登場人物は十分に掘 り下げられていない。たとえば張文環や呂赫若といった作家と比較すると、楊 の登場人物は複雑な心理的側面の描写を欠いている」237とフェイ・阮・クリーマ ン氏はさらに批判する。確かに、「張君」あるいは「金蘭」というキャラクター
236 フェイ・阮・クリーマン『大日本帝国のクレオール――植民地期台湾の日本語文学』、p.193。
237 同上、p.201。
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の心理状態は欠落の傾向がある。では、楊逵はこのキャラクターを借りてどん な「社会正義」を追求したいだろう。これは「作者」=「私」に戻らなければ ならないと考える。
小説のはじめのところに、炭鉱を見学する「私」はケーブル・カーに乗り、
眼前の採炭夫たちはみな真っ黒であって、地獄を一巡りしている悲壮感を持っ た。
夏目漱石の「坑夫」を讀み、それで鑛山の凄慘さと坑夫の荒々しさを印象つ けられて來た私は、どきつとして二三歩後しざりした。私は猛獸に挑戰され た錯覺にとらはれて慄然とした。自然に聲も顫へて、――どなたです?と訊 く。(p.100)
弱くて卑怯な「私」は浮かび上がってくる。通念上、決戦期における文学作品 の知識人をいうと、自信に欠けて、個性に乏しい、あまりに定職につきない状 態に囲まれて焦っている模様が浮かんでくる。これは戦時下の知識人による自 己否定の表象だと認められる。しかし、作者の楊逵はここで自己の価値を拒否 するつもりがあるだろうか。戦争期に入り、本来文学界に活躍していた楊逵は 必ず文学に対する深い感情を持っている。しかし、時勢の関係で労働者を尊重 している彼は、その憧れが一段と高くなった。派遣感想文の「勤労禮讃」にお いて彼の理念を掲げる。
情報課とは無論宣傳啓發の為であり、自分としても小説の種を捜しに行つた のであるが、人としての生き方、國民としての生き方に、一週間の生活を通 じて私は啓發されるところ多かったことを有難く思つてゐる。(略)彼等はそ の勤勞を通じて錬られ、鍛へられ磨かれてゐる。雨に打たれた石炭のやうに、
底光を放つてゐる。238
238 楊逵「勤労禮讃」『台湾文芸』(台湾文学奉公会)1-4、1944 年 8 月、p.73-83。『日本統治期 台湾文学 文芸評論集 第五巻』緑蔭書房、2001 年、p.289。
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小説の新たな題材を試した楊逵は、文学に執着する心があるが、人間として生 きている価値が社会の一般庶民の中に探し得ることによって、もっと満足にな るという姿勢を示される。そこで、炭鉱内の試練に対して「私」は猶予なく立 ち向かって自分の実力を証明したかったが、坑夫たちの勤労で堅強に傾倒し、
彼らの長所が自分の弱点であることを意識する。つまり、楊逵は自分の弱さを 強調するより、むしろ坑夫たちを心から賞賛するだろう。
感想文で、階級意識を持っている楊逵は彼が一般民衆に対する尊敬心を表す。
当時の社会で、皇国勤労観のもとに「戦争を決する」米や石炭が敬重されなが
当時の社会で、皇国勤労観のもとに「戦争を決する」米や石炭が敬重されなが