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第二章 膨張の帝国―理想像を探す内地人作家

2.2 戦時下の文学者動員

前述の通り、新帝国主義の風潮は国民に偉大なる国家を創る情熱をもたらし た。政府は戦争に献身する国民の意欲をかき立てるために、社会のあらゆる面 の統制を強化し始める。軍部が総力戦構想を企図した時期は、日本ではまさに

56 尹健次『民族幻想の蹉跌―日本人の自己像』、p.158。

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大正デモクラシーの昂揚期でもあった57。一部の軍人と民間右翼は「国家改造」

による政党政治を打倒し、十月事件、血盟団事件、五・一五事件などクーデタ ー計画が相次いで起こった。事件は形成した背景が異なっているが、その基本 目標は、反政党内閣、反資本主義、反共産主義をかかげ、究極的には軍部独裁 政権を樹立することにあった58。政党内閣も完全に形骸化していた。

日中戦争から、戦争の態勢は持久戦の段階へ移行し、緊急事態に突入したの で、戦局の展開に応じる方法を探さなければならなかった。日本国内における 総力戦体制の構築はついに解決すべき課題となった。1931(昭和 6)年 9 月「満 州事変」の勃発は、民衆動員と組織化にとって画期的な意味を持っていた。そ の後、第一次近衛内閣が 1937 年に行わった政策「国民精神総動員運動」は「国 体明徴、日本精神ノ昂揚」の標語で開始した。木谷順一郎氏は総力戦体制を確 立するための日本的課題の特質として、権力の集中・物的資源・人的資源の三 点をあげた。つまり、国務と統帥の矛盾をいかに解決するか、物的資源はいか にして自給自足を達成するか。そして、人力の部分は、国民の思想動員が天皇 制イデオロギーによって築きあげると総括する59。翌年、国民総動員法が制定さ れ、政府は物資・資金・言論と労働力に対する無制限な国家統制を図った。

官制国民運動の発展では、文学との影響関係の中に一番密接なのは思想上の 統制である。早めに 1933(昭和 8)年齋藤内閣は、思想対策協議委員会を設置 した。それを先例として、徹底した思想取締方策が施され、具体的には治安維 持法の改悪による同法の適用範囲の拡大、刑罰規定の強化が目論まれた。また、

新聞に関して記事と広告の取り扱い、用紙使用の制限などの規則が示せれた通 り、検閲制度が強化される。1940 年 10 月、大政翼賛会が結成され、日本文学者 会・日本文芸中央会など大きな組織が先後して国家によって結びつかれた。皇 道翼賛の国民運動と戦力の一環として思想文化戦線が狙われた。1941 年 12 月 8 日、太平洋戦争が始まり、戦争はまったく新しい段階に入った。言論・出版・

集会・結社など臨時取締法が発令され、言論の封じ込めを策した。翌年、情報

57 中西吉治「国家改造運動―民衆観と改造運動観―」『近代日本の統合と抵抗4』、日本評論社、

1982 年、p.70。

58 由井正臣「総動員体制の確立と崩壊」、『近代日本の統合と抵抗4』、日本評論社、1982 年、p.14。

59 中西吉治「国家改造運動―民衆観と改造運動観―」、p.71。

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局の指導のもとに文学者の一元的組織として日本文学報国会が創設された。国 策文学の振興に力を入れながら、他方では国家の文化統制はさらに強まってい く60。それに、思想対策の第二の特徴は、単なる取締強化にとどまらず、反体制 思想への対抗として、「日本精神」=国体観念を積極的に国民に浸透せしめよう とした点にあった。日本精神の強調は、西欧思想全般の排斥、否定へと繋がる ものであった61

そのうえで、戦争の進展とともに国家の文化統制は思想、芸術、学問上の一 切の自由主義的、個人主義的傾向の明らさまな弾圧となって現れる62。芸術優先 の態度を堅持した伊藤整は、「事変が始まつてからのち、(略)文学人は全体と して圧迫感に襲はれ、萎縮するやうな傾向が著しかつた」と言い、「虚無的な時 期」だと形容した。これは文学者たちは時局に順応ないし便乗することによっ てその「虚無」を埋めるしかない時代である63。伊藤整が言った「虚無の時期」、 あるいは龍瑛宗が嘆いた「文学の夜」は、実は同じ状況を指していた。まるで 暗雲が立ち込められるような内地と台湾の文壇で、文学者は自由的に発声する 権力が消えていった。

このような状況について、戦時体制下の作品と文学者を論じる場合に、当時 の苛烈をきわめた言論・思想統制とその弾圧政策への言及が不可欠の要件であ ることを戦争文学研究者の都築久義氏は説明する。政府指導者は、一切の言論 を戦争推進に向けようとして、戦争も国民世論の統一の絶対条件となる。国民 の側からすれば、戦争体制を翼賛する「自由」を除いて全く言論、表現の「自 由」は存在しなかったと言えよう。その反面、一定の国家や組織に属される構 成員にとって、無制限・無限定の言論・思想の表現の自由は本来ありえないの である。当時台頭した民族主義思想は多くの国民の共感を得たと都築氏が推測 する。「あの戦時下、知的青年やインテリゲンチャを含む大多数の国民が、国家 民族の危急存亡を意識し、民族主義的主張に耳を傾け、狂喜し、興奮し」て、

60 市古貞次ら編『増訂版 日本文学全史6現代』、學燈社、1994 年、p.263-265。

61 由井正臣「総動員体制の確立と崩壊」、p.15-16。

62 曽根博義「戦前・戦中の文学―昭和 8 年から敗戦まで」『昭和文学全集 別巻』、小学館、1990 年、p.380。

63 同上、p.381。引用する部分は伊藤整が 1939 年(昭和 14)に書いた「日本文学の現在」から 抜粋する。

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これも「一つの言論であり思想であるということである」64と認められる。自発 的な国民は、決して政府・権力の指導や弾圧に屈服させたというわけではなか った。要するに、戦時体制下の圧迫を論難するときには、制度の問題しか取り 扱わないにもかかわらず、内容の価値観、作者が国家の方針に対して賛否する 態度にも見逃せないと考えられる。

文壇の新体制が形成されて、戦争を支持する世論も社会に溢れてきた。文学 者は文学者なりの身分のほかに、新たな任務を与えられた。それは、日中戦争 が始まってから従軍作家は国家の要求によって集められ、いわゆるペン部隊が 組織されたのである。文学者は新聞や総合雑誌からの委託を応えて次々と中国 に派遣されてから、彼らの「現地報告」がそれらの誌面に掲載された。銃後の 国民は前線の戦闘や将兵の活躍していた姿に対する強い興味を持っているので、

「ルポルタージュ」という斬新な記録文学や圧倒的な迫力に富んでいる戦争小 説も読者に生々しい現場の刺激感をもたらした。しかし、戦争中に発表された ものが軍部による厳しい制限で審査を受けた。国民に有害だと思われる事実が すべて省略されたと曽根博義氏は提起し、戦争の暗黒面を削除された「虚偽の 記録」であると批判する。

例えば、丹羽文雄は漢口攻略のときに陸軍部隊に選ばれ、その後もさらにソ ロモン海戦に参戦し直接に砲火を浴びた。台湾に滞在していたうちに、従軍の 感想に基づいた時局講演を発表した彼は、作品の『台湾の息吹』に常に戦争に 参加した人間の誇りを流露してきた。曽根氏は文芸者が大量に戦地に送られる という前代未聞の施策に対して、「計画が発表されると従軍作家は新聞に大き く取上げられてマスコミのスターになったので、作家たちの間でも人選につい てあれこれ噂が飛交った」という観察を提出する。要は、選ばれて従軍するこ とは作家が文壇で重んじられている証拠であり、国民としても名誉なことだと 考えられる時代になっていたのである65

では、文学者が処した時代背景のもとに創作してあげた作品について、吉田 精一氏は国策と戦争の関係で導かれた文学と芸術の壊滅を述べる。

64 同上、p.9。

65 同上、p.385。

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戦争文学と並んで生じた新しい現象として、文学意識が無意識の内に、ある いは意識的に変わってきて、国策に順応する文学――具体的に言うと農民文 学・生産文学・大陸文学・海洋文学――などの、作家・文学者と政治との妥 協から生まれた国策文学が次々と誕生した。こういう事実は純粋な文学的意 義から言うと、芸術的衰亡・後退と言わざるをえない66

また、文芸評論家の平野謙氏が「国策文学」の大きな文学的マイナスは、生硬 な素材主義を強引に押しきった方法上の鈍感にあったと批判する67。ダグラス・

L・フィックス氏は「このような当局の戦時計画による産物を読み解くことは決 して容易な仕事とはいえず、しかも作品分析の責任にもっとも耐ええると思わ れる人々は、往々にしてこういった作品をまったくつまらないものと感じるの

L・フィックス氏は「このような当局の戦時計画による産物を読み解くことは決 して容易な仕事とはいえず、しかも作品分析の責任にもっとも耐ええると思わ れる人々は、往々にしてこういった作品をまったくつまらないものと感じるの