第一章 序論
1.3 研究方法
1.3.3 作品の選定
「本島人」「在台日本人」「内地人」の三つのカテゴリが確定され、作品の選 定は「国策文学」という基準に依拠して考える。つまり、内容には国家の影響 力が留められる痕跡を注目する。日中両国の衝突が長期間の戦争に変ってから、
戦争文学は時勢にしたがって現われ、その担い手が「戦争体験者」だと言われ る。軍隊体験者、従軍体験者(報道班員・記者・看護婦・軍属など)のほかに、
「銃後」も重要な分類の一つである13。例えば、旧プロレタリア作家、気鋭の中 堅・新人、兵隊作家など全文壇を網羅して国策推進を展開した文芸銃後運動に よって国策文学の活発な動きが見せる14。戦線の後方にある「銃後」は戦争に直 接的に参加していない国内の国民のことを指す。戦場で起こったさまざまな殺 戮や破壊の様相を描かれている作品ではないが、銃後で完成した文学は国家の 施策や方針を伝達する特色がある。国家・民族への団結と帰属意識を繰り返し て強調する精神的な宣伝戦という効果において、国策文学は当局にとって戦時 下に不可欠な武器だと言えるだろう。
さて、台湾を研究の中心としたので、「国策文学」以外にまた他の要件をあわ せて考える。第一に、当時、台湾のところどころは戦争によって渦巻かれた。
場所に限られたより、台湾を廻して各地の状況を描かれた作品のほうが戦争の 破壊力を全面的に理解できるだろう。第二に、軍需産業が盛んになり、都市と 工場は戦争の雰囲気がいちばん濃かったが、実は各産業を含め、戦時下におい て大規模な人力の動員は農村や山村まで及んでいた。それゆえ、作品のなかに、
帝国の建設を務めていた人びとが注目されるところに置くはずだと思う。第三 に、国家が文学者に向かって強制的な態度は「派遣作家」の出現で示唆する。
13 長谷川泉「「戦時下の文学」の構図」『国文学 解釈と鑑賞』48(11)、至文堂、1983 年 3 月、
p.7。
14 都築久義「国策文学について」『国文学 解釈と鑑賞』48(11)、至文堂、1983 年 3 月、p.13。
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自由に題材を選ぶ権力は奪われ、あるいは特定の目的のために書くことを強要 される。内地人作家が日本から帝国の領地に派遣され、本島人が皇民奉公会に 組織されて作品を完成したのは、この現象を反映する。
では、以上の条件をまとめてみると、『決戦台湾小説集』、丸井妙子の『たゝ かひの蔭に』、丹羽文雄の『台湾の息吹』と佐多稲子の『台湾の旅』という四つ の作品を選んだ。
『決戦台湾小説集』は台湾文学奉公会と総督府情報課の主導で七名の本島人 と六名の在台日本人の作家を集めて仕上げた短編小説集である。作家たちは戦 時生産の際に鉱山・油田・工場・農場、公用地や山岳地帯、鉄道などのところ を訪れた。現場で一週間に工員・船員・坑夫とともに生活し、その体験を素材 として用いられる。この計画で募られた作家は異なる出身であった一方、大抵
『台湾文学』と『文芸台湾』という対立的な文芸団体に所属された。互いに対 峙していた関係があったが、官庁の命令に順従して一同作品を発表した。本来、
両者の間に存していた民族・作風・イデオロギーなどの差異は『決戦台湾小説 集』の機にして繋がって、「国策文学」という大きな枠組みで共存した。その複 雑性は、本島人と在台日本人が同じく日本帝国に対する帰属意識を討論すると きに参考に値する資料だと思う。
なお、『決戦台湾小説集』では小説が十一篇、詩が三篇。表(1.3.3-1)で作 者・作品・発表時間と掲載機関を示す。
決戦台湾小説集〈乾之巻〉台湾出版文化株式会社、1944.12.30 決戦台湾小説集〈坤之巻〉台湾出版文化株式会社、1945.1.16
【小説】
巻 作者 作品 発表時間 掲載機関
乾
濱田隼雄 炉番 1944.7.15 『台湾時報』294 号 高山凡石
(陳火泉) 御安全に 1944.8.13 『台湾文芸』第 1 巻第 4 号 龍瑛宗 若い海 1944.8.10 『旬刊台新』第 1 巻第 3 号 吉村敏 築城の抄 不明 『台湾文芸』不明
張文環 雲の中 1944.11.10 『台湾文芸』第 1 巻第 5 号 河野慶彦 鑿井工 1944.11.10 『台湾文芸』第 1 巻第 5 号 坤 西川満 幾山河 1944.8.1 『旬刊台新』第 1 巻第 2 号
10
1944.8.20 1944.9.18 1944.11.10
『台湾新報』 ようと中島氏は考える。p.579-583。
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督は丸井妙子を接見し、しかも出版するときに「麗筆繪蓬莱」という題字を送 った。また、本の序言も東洋大学学長で日本文学報国会の評論随筆部会会長の 高嶋米峰が書いたものである。国家の最高権力者や国策の執行者に関連してい たことからみると、作品の中身が国家の方針に符合して認可されたはずである。
そして、作家の政治的立場も比較的に明らかであったと言えよう。
主題・取材・内容上に言えば、『決戦台湾小説集』は『たゝかひの蔭に』と同 時に類似点を持っている。作者たちは関心した対象が主に戦時下の庶民であっ た。「産業戦士」として働いている様子を生き生きに描いたことに加え、文学者 もキャラクターを借りて自分の立場を示した。ところが、作家が創作するまえ の自主性を言うなら、前者が受動的、後者が能動的だという相違点もあるが、
この二作の国策の色彩が強烈であった。
そして、台湾が日本の植民地になってから、内地人は記した紀行、随筆や小 説などの作品が少なくないである。戦争が勃発以来、文学者はほとんど「文芸 講演会」の理由で来台した。佐多稲子は 1942(昭和 17)年に豊島与志男・浜本 浩・村松梢風らとともに台湾に行った。翌年、丹羽文雄は文学報国会「台湾支 部」の設立で日本文学報国会の事業部長戸川貞雄、庄司聡一と日本文学報国会 及び皇民奉公会台北支部が催した「文学報国講演会」に参加した。彼らは総督 府の仲立ちで台湾全島を遍歴して、林献堂や楊逵などの有名人と会面し、皇民 化運動の最中の台湾印象を各自の観点で記録した。その後、『台湾の旅』と『台 湾の息吹』は『台湾公論』で連載して出版した。
本島人と在台日本人のセクションと比べて、内地人の部分で選ばれる作品は 同じく「大東亜戦争」の雰囲気に籠もられた台湾に暮らしていた人間や社会現 状に対して鋭敏な観察が提出される。また、佐多稲子と丹羽文雄は植民地を訪 問した理由は軍部の文学者動員計画によって促される。台湾以外に、二人の作 家は派遣作家の身分でいろいろな海外の戦地に遊歴した経験があった。国家か ら渡してきた宣伝の任務を負いながら、国家意識の有無や強弱も彼らにとって
「台湾人」のアイデンティティ認識問題に影響を与えたと推測できよう。
表(1.3.3-2)に用いて、三つの分類と作品をまとめて示す。
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日新報』『興南新聞』など台湾の六大新聞18を統合され、「国民をして弥やが上に も戦意を昂揚せしめ、必勝信念の推進と確保」という目的で官許の『台湾新報』
を出版した。台湾新報社もまだ『旬刊台新』の旬刊雑誌を発行した。政治家の 発言、官庁の文書、国家の立場を支持していたマスコミの報道などの資料は「国 家の語る言葉」と認められており、「厳密には『現実』そのものではないが、い わば言説が『現実』に影響をあたえる接点として重要である」ので19、この資料 をも考察の一部にする。
以上の文献は政策主体の「公文書」の性質を帯びたので、その時の人びとが 対面していた困難、緊張、不安定な社会の情勢を理解するときに役に立つ資料 だと考える。というわけで、民間の文芸誌(例えば『文芸台湾』『台湾文学』『台 湾芸術』など)に掲載される評論・散文、作家自身の文章・エッセイなどは、「作 品」以外に文学者の意向を示した著述をも参考にする。こうして、できるだけ 公的や私的な資料を両方ともに備える。