• 沒有找到結果。

泉州での輸入と栽培に関して

2.3 民間人によるタマネギの輸入と栽培

2.3.2 泉州での輸入と栽培に関して

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

明治10 年(1877)8 月号の『農業雑誌』に「玉葱の説」と題する記事が掲 載された。「玉葱の説」は次のように書いている。

作りて巨額の利潤を占め食して吾人の栄養に効あるは諸種の蔬菜中恐くは玉 葱の右に出る者之あるまじ従来我国に培養せる葱はその種類甚だ悪しくして 只夫の甘味の少く香気の薄き而已ならず永日を貯ふることの出来ざる者なる が故に之を遠国に輸送し或は航客の食料に供する抔の事は決して能はざる 処なりみるべし(中略)。嘗て横浜在留の英人スミッス氏が玉葱の種をその本 国より取寄せて数年の間を培養するやただの一回だに充分の豊熟を見る能 はざりそより終に玉葱は日本の風土に適せずと失望の言葉を発せしめたり(中 略)。曩に各種の葱種を米国より購求せし以来之が培養を試むること茲に数回 年は年を累ねて能く充分なる豊熟を見ることを得殊に一昨年の如きは最も好 作にして其の収穫中一箇にして量目壱斤に至る者あり(中略)之を択びて上野 なる勧業博覧会場の農業館中に排列せり(中略)。玉葱の園作は苗種にして まだ能く熟らず稍緑色ある者を把ねて賣出し野作は種蒔にして充分に成長し たる者を乾かし之を諸方へ輸送するなり(後略)。50

つまり、タマネギの長所、英国の種子の栽培に失敗したが、タマネギの種子 を米国より数回取り寄せ、一昨年にはよい収穫を得、タマネギ一個の重さが一 斤もあるものを収穫したこと、タマネギを明治10 年(1877)内国勧業博覧会 場の農業館に出品する予定と当時の栽培方法などが記されている。津田が熱心 的にタマネギを栽培している様子がわかる。また、明治21 年(1888)12 月号 の『農業雑誌』に「内外有益植物一覧表」51という種苗の通信販売のカタログ が掲載されている。その中に、種子類の所にタマネギの名が挙げられている。

そして一包拾銭という値段とつけられている。この通信販売により、普段に手 に入れにくい種苗も買えるようになった。

こうして、タマネギは政府の手だけではなく、民間人の手にも導入され、栽 培された。また、彼の著書により、タマネギに関する知識が紹介され、タマネ ギの栽培に拍車がかかったと考えられる。

2-3-2 泉州での輸入と栽培に関して

泉州地域は近世に天下の台所といわれた大坂市域の南部近郊に位置し、米の ほかに綿、菜種、甘蔗、タバコなどの商品作物の栽培を展開してきた地域であ った。

綿については、徳川中期以降、泉州が摂津、河内と共に全国で突出した産地

50『農業雑誌』(学農社、1877 年)。

51 同上、P65。

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

である。明治15 年(1882)には大阪府の実綿は全国の 24%の収穫高を示して いた。明治16 年(1883)の府の栽培面積 18,240 町のうちに泉南地方は 418 町、

当年府の収穫高3,753,145 貫のうち泉南地方は 58,553 貫である。しかし、明治 初年から始まる唐糸の輸入に加えて明治29 年(1896)の綿花輸入関税の撤廃 は大阪府の綿作を壊滅状態に追い込んでいった。

甘蔗の栽培は八代将軍吉宗の奨励により全国に普及したといわれ、これをう け岸和田藩でも領内に甘蔗の作付を奨励した。こうして、和泉地方の甘蔗は讃 岐、阿波に次ぐ大産地となった。明治16 年(1883)の甘蔗作面積は南、日根 両郡で431 町に達し、綿作と伯仲する産物である。しかし、この甘蔗も低廉良 質な大量輸入蔗糖に対して太刀打ちすることはできず、明治末年には壊滅状況 に陥っていった。

また、菜種は甘蔗の裏作として適しており、その油かすが綿作に有効な肥料 であることから泉南地方に広く普及した。しかし、明治16 年(1883)には 2603 町あった栽培面積も、明治34 年(1901)には 1,682 町に、さらに大正元年(1912)

には306 町に急減する。灯火用としては石油に、食用としては他の植物、動物 油脂に圧迫されていった。

すでに述べてきたように泉州地域の農家経済を支えてきた商品作物である 綿、甘蔗、菜種が明治前期を通じてしだいに衰退に向かいつつあった。

【表7】泉南地域における主要作物作付面積の推移 (指数)

品目 明治16 年 21 年 26 年 33 年 38 年 43 年 米 100 105.9 115.0 117.2 118.0 119.5 麦 100 126.5 148.0 139.3 191.8 136.2 綿 100 95.0 60.0 19.9 11.5 1.5 菜種 100 103.0 86.0 67.8 46.2 40.8

『泉南市史』52より作成

52 泉南市『泉南市史 通史編』(泉南市、1987 年)P344。

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

【表8】泉南地域における甘蔗作付反別の推移 年 甘蔗 (反)

1900 143 1905 82 1910 42 1915 70 1920 74 1925 -

1930 44

『泉佐野市史』53より作成

そこでこれらに代わる換金作物として導入され栽培されたのがタマネギで あった。

昭和3 年(1928)の『大阪毎日新聞』では、

泉南の五恩人の表彰式を挙ぐ

今井氏と四氏の遺族はたゞ涙とゝもに感激 本社の玉葱功労者表彰 54

という記事があり、タマネギ功労者として表彰されたのは泉南郡土生郷村の坂 口平三郎、泉南郡田尻村の今井佐治平、大門久三郎、道浦吉平、と今井伊太郎 である。

篤農家として知られる坂口平三郎は泉州の在来特産商品作物だった綿や甘 蔗が衰退していくのを憂慮していたところ、たまたま神戸の居留地のレストラ ンでの食事ではじめてビーフステーキに添えられたタマネギを味わいを味わ い、大いに関心をそそられた。さっそく神戸在住のアメリカ人から「イエロー

·ダンバース」というタマネギ三個をわけてもらい、明治12 年(1879)に自宅 に試植した。55

一方、この坂口平三郎がまだ試作段階のタマネギと取組んでいたころ、たま たま明治18 年(1885)4 月に岸和田郡役所で開催された農談会に出席した日 根郡田尻村の篤農家今井佐治平、大門久三郎、道浦吉平ら三人がその機会に坂 口平三郎からタマネギについて教えられた。ちょうどその頃は西洋崇拝の盛ん な時代で西洋人が入り込んで、内地雑居が目の前だといった騒ぎで、それに農 家の生活が『ドン底』に落ちた際なので、三人は相談して試作してみようと決 め56、坂口平三郎の紹介で横浜からタマネギの種子を取り寄せた。明治18 年

53 泉佐野市役所『泉佐野市史』(泉佐野市役所、1980 年)P373。

54『大阪毎日新聞』(毎日新聞大阪本社、1928 年)。

55 南野純子『泉州玉葱と坂口平三郎』(南野純子出版、1987)。

56 畑中加代子『玉葱王今井伊太郎とその父佐治平』(毎日新聞社大阪本社総合事務局、2002 年)。

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

【表9】大阪府下におけるタマネギ栽培面積の推移 年次 泉南郡(町) 大阪府(町)

明治39 年 110 113 42 年 230 244

大正元年 393 461

昭和元年 1,512 1,644 『泉南市史』64より作成