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第四章 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応

第二節 日本と南北会議

二. イギリスの政体に対する態度転換

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21 日タイムズで掲載された記事に、「袁世凱は取り組むべき任務が絶望的なほ ど深刻であることをよく認識しているが、安定政権を確立し、国を崩壊から救 うため全力をつくす」と書いて、袁世凱がすべての困難にも負けずに朝廷を救 うために全力を尽くしているという印象を読者に植え付けた232

12 月中旬、モリソンは上海へ行くことを決めた。これは単にタイムズ紙の 記者として会議を取材するめただけではなく、モリソンは袁世凱を共和制大総 統にすることで南北平和をまとめるよう関係者たちを説得できると期待され ていた。袁世凱はモリソンの上海行きを非常に歓迎し、なぜかというと、彼は モリソンの目的は袁世凱を担ぎ上げ、いわゆるキングメーカーの使命を果たす ことだと知っていたからであった。袁は列車の一両分をモリソンの個人的使用 に提供し、部下の軍人を護衛としてモリソンに付けた233

二. イギリスの政体に対する態度転換

12 月 20 日上海に到着したモリソンは個人的な外交を展開した。彼は上海日 本総領事館に有吉総領事を訪問し、時局打開策について次のように推奨した。

「時局解決ノ最高手段ハ両講和委員ヲシテ満洲皇室ヲ熱河ニ退却セシメテ共和政体ヲ 樹立スルコトニ合致セシメ袁世凱ヲ大統領タラシムルコトト定メテ袁世凱ノ(脱語)

確カムルニ在リ234

と、時局収拾の最良の方法は皇帝を熱河に引退させて、袁世凱を大総統とす る共和政体の樹立に講和両代表を賛成させることであったと、有吉を説得しよ うとした。これに対して、有吉は「袁世凱を大総統にする以外に時局収拾の方 法はなし」とするモリソンの勧告を直ちに内田外相と伊集院公使に報告した。

モリソンの提案に対して伊集院公使は 12 月 21 日の日記に下記のように記 している。

232 ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010、P.159-160

233 同上、P.195-197

234 『日本外交文書』(清国事変)、P.435

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「例のモリソン流にて、彼れは是に熱中し居るものの如し。或は唐紹儀とは既に北京 にて此説をなし居り、袁も敢てこれを拒絶せずモリソンの為すに任せ、他

其間に成 行を見んとするの底意を袁も有し居ることもあらん。モリソンの右様の運動は軽視す る能はず235

と、決して軽々しくは扱えない問題と認識していた。ジョルダン公使もモリ ソン勧告についての報告を受け取った。この勧告はジョルダンに決定的な影響 を与えた。12 月 20 日ジョルダンは「君主立憲云々ニ付テハ自分ニ於テ主張ヲ 持ニ変更シタルカ如キコト無」と伊集院に述べたが、翌日 12 月 21 日ジョルダ ンは伊集院公使に「袁世凱ヲ大統領トシテ兎モ角一時ヲ収ムル案ハ如何236」と 自発的に提案しに来た。ジョルダンは次のように述べた。

「満朝ヲ存シ君主立憲制ト為スノ最良案タルコト共和制ハ到底鞏固ナル能ハサルコト モ共ニ自分ニ於テモ素ヨリ信スル所ナレトモ而カモ之ヲ革命軍側ニ強制スルノ途ナキ ニ於テハ如何トモ致方ナシ要ハ妥協不成立ト共和国トノ二害悪内就キ選択ヲ為スノ外 ナカルヘシ237

と、ジョルダンは立憲君主制は最良の方法だと考えたが、南北会議で革命側 は共和制を主張し、立憲君主制を認めないので、結局妥協不成立と共和国樹立 の中に一つを選ぶしかないと語り、共和制を選択する意を表した。また、イギ リスは中国の南方勢力範囲における莫大な貿易利益があり、この権益保護のた め財界は南方革命派を「支援」すべきだと呼びかけていたので、イギリス政府 としても革命派の共和制の主張を重視せざるを得なかったものであった238。権 益保護について、ジョルダンは下記のように述べた。

235 櫻井良樹、廣瀨順皓、尚友俱樂部編『伊集院彦吉関係文書』辛亥革命、芙蓉書房、1996、

P.166

236 『日本外交文書』(清国事変)、P.437-438

237 同上、P.438

238 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.62

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「英国ハ中清南清ニ於テ貿易上重大ナル利害関係ヲ有スルヲ以テ之ニ対シ攻撃ヲ受ク ル危険ヲ侵シ南方清人ノ主張感情ヲ無視シテ君主立憲ヲ押付ルカ如キ措置ハ英国政府 ニ於テ容易ニ執リ得サル239

平川清風氏もイギリス公使の態度変更に下のように要をつかんでいる。

「革命か起るや在支英人の態度は自ら二途に岐かれた。一は北京外交官の態度であり、

一は南方における商業家、操觚者、宣教師等の態度である。前者は最初の間厳正中立 の名の下に何程か君主立憲制維持に傾き後者は徹頭徹尾共和体制の樹立に同情した…

…上海を中心とする南方一帯の商業家、操觚者、及び内地到る所に散在する宣教師等 は一様に革命軍に同情を表し、且つ北京外交団が動もすれば君主立憲制を主張する袁 世凱を援助せんとするに反対の意を表した。240

このように、ジョルダンは南方におけるイギリスの貿易関係を顧慮したので、

南北和議において立憲君主制の圧迫・関与によって妥協を成立させることはで きないと、伊集院の主張に反対した。

しかし、伊集院は依然として「満朝を存続して君主立憲となすを以て最良案 なり」と強調して、その理由については次のように述べた。

「若シ共和国トナサハ到底満足ニ統治ノ実ヲ挙ケ得スシテ四分五裂ノ悲運ニ陥ルヘシ 而シテ事茲ニ至レハ単ニ清国限リノ内政問題タルニ止マラス直チニ国際問題ヲモ惹起 スルコト明瞭241

伊集院は中国において共和制の実施に対する悲観視して、共和制を採用すれ ば大混乱を招致するおそれがあると判断した。このように、伊集院は清国全土 を保全するために干渉による立憲君主制の堅持を主張し、共和制による解決を 主張するジョルダンと対立した。

239 『日本外交文書』(清国事変)、P.438-439

240 平川清風『支那共和史』春申社發行、1920、P.123-126

241 『日本外交文書』(清国事変)、P.438

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翌日、伊集院公使はジョルダン公使を訪ね、政体問題について双方の意見を 調整しようとした。だが、ジョルダン公使は「何レニモセヨ要ハ清国保全ト永 久ノ治安ヲ確保スルニ適フヘキ解決ヲ希望スル次第ナリ242」と述べた。これは イギリスは立憲君主制或いは共和制にもかかわらず、強大な統一政権を樹立し、

中国における列強の権益と貿易が保障されることを重視したものであった243。 イギリスの態度変化に対して、伊集院公使は「共和制ノ到底永ク鞏固ナル能ハ スシテ或ハ間モナク大混乱ヲ釀ス可キ大危険ニ伴フ」と繰り返し説明し、「元 来日本ハ本問題ニ関シ他諸列国トハ異ナリ独特ノ関係ヲ有スル地位ニ立チ清 国ニ於テ共和制ノ実現延イテハ大混乱ヲ醸スカ如キ独リ実質上之ニ依リ多大 ノ影響乃至損害ヲ被ル可キノミナラス我思想界ニモ至大ノ影響ヲ及ホス如キ コト万ナキヲ保セス244」と、政体問題と日本のこの独特の立場を了解するよう 特に切望した。これは日本が立憲君主制を固執した政治的・思想的な理由を吐 露したものであった。政体問題に対する態度の相違について、兪辛焞氏は「イ ギリスが政体問題において植民地権益保護という現実的な態度をとったのに 対し、日本はイデオロギー的であり、観念的な態度をとっていたのである」と 指摘した245

伊集院公使は中国に立憲君主制を強要するために「尠ナクトモ或ハ圧迫ヲ加 フルヨリ他ニ道ナカルヘシ」と提言し、日英が共同して干渉する意見を率直に 表明したが、ジョルダンは「唯タ圧力ヲ加フルノ途ナキヲ如何ト再ビ繰返シ且 本問題ハ既ニ自分ノ頭脳ト力ノ及ハサル所246」なりと再び伊集院の提案を拒否 した。

ジョルダン公使と唐紹儀の共和制・袁大総統による時局収拾への転向につい て報告を受けた内田外相はすぐさま動き始めた。12 月 22 日彼は山座臨時代理 大使に通じてイギリスのグレー外相にイギリス政府公式の意向を打診した。内

242 同上、P.444

243 羅家倫主編『新譯英國政府刋布中國革命藍皮書』中國國民黨中央委員會黨史史料編纂委員 會發行、1983、P.189

244 『日本外交文書』(清国事変)、P.444

245 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.65

246 『日本外交文書』(清国事変)、P.445

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田外相はたとえ共和政治の樹立が実現されば、南北両派は袁世凱を大総統に推 挙する決心あるかどうかを疑っていた。三つ理由を下記のように挙げた247

(一)「袁ニ於テ其ノ従来標榜セル所ヲ棄テ諸方面ノ反感ヲ顧ミスシテ大統 領ノ位ニ就クヲ承諾スルヤ否ヤ不明」なること

(二)「満洲朝廷並ニ満人カ其袁ノ為ニ売ラレタルヲ忘レ袁ノ皇位ヲ廃シテ

(二)「満洲朝廷並ニ満人カ其袁ノ為ニ売ラレタルヲ忘レ袁ノ皇位ヲ廃シテ