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辛亥革命期的日本對中外交政策─以政治體系干涉為中心─ - 政大學術集成

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(1)國立政治大學日本語文學系 碩士論文. 指導教授:于乃明. 立. 博士. 政 治 大. ‧ 國. 學. 辛亥革命における日本の対中外交. ‧. n. al. er. io. sit. y. Nat. -政体干渉を中心に-. Ch. engchi. 研究生:陳冠甫. i n U. 撰. 中華民國 104 年 8 月. v.

(2) 辛亥革命期的日本對中外交政策 ─以政治體系干涉為中心─ 中文摘要 辛亥革命是中國近代歷史上的一大轉折點,革命推翻清朝,終結中國數千年 來的皇帝專制政治體系,並樹立民主共和制的中華民國。然而革命爆發之時,世 界列強於中國各自領有勢力範圍,也因此列強態度與革命走向息息相關,其中尤 以日本及英國為最。 日本於 1895 年甲午戰爭後便積極在中國擴展勢力,1905 年日俄戰爭勝利後. 政 治 大. 取得俄國在南滿洲利權,再透過 1910 年的「第二次日俄協約」確立日本在南滿. 立. 洲的「特殊權益」。辛亥革命爆發後,日本即確立「解決滿洲問題」、「在中國建. ‧ 國. 學. 立優勢地位」兩個對中基本政策,並且在袁世凱掌控朝廷大權後,日本便積極拉 攏他,企圖以援助袁氏為條件來說服他以「君主立憲體制」收拾革命局勢,延續. ‧. 清朝在中國的政治體系。於此同時,日本也透過外交途徑尋求其盟友英國對實現 中國君主立憲體制的支持。. y. Nat. sit. 相較於日本對中國「君主立憲體制」的固執,英國更期盼的是一個完整而穩. al. er. io. 定的中國,以保護其貿易利益,另一方面,袁世凱則冀望藉由革命登上中國權力. n. v i n Ch 去了對革命局勢的外交主導權,就結局來看,日本對中國的政治體系干涉政策, engchi U 頂點。在袁‧英關係逐漸靠攏之下,始終執著於「君主立憲體制」的日本漸漸失. 實為其在辛亥革命外交中失敗的主因。. 本文以政體干涉為主要觀點,重新比較、分析日本、英國、袁世凱三者在辛 亥革命期,針對中國政治體系所進行外交角力的過程,來探究日本固執於君主立 憲體制的具體原因。. 關鍵字:日本、袁世凱、辛亥革命、君主立憲、政體干涉.

(3) 辛亥革命における日本の対中外交 ―政体干渉を中心に― 日本語要旨 辛亥革命は近代中国歴史にとって一つの転換点であった。革命は清朝を滅び、 中国において千年にわたって封建的、専制的な皇帝政治体制に終止符を打ち、 共和民主制の中華民国を樹立した。だが革命勃発した当時、世界列強は積極的 に中国に進出し、中国各地域で各々の勢力範囲を領有することによって、列強 各国の革命に対する態度は中国の革命の成り行きに影響を与える。特に日本と. 政 治 大. イギリスの対中政策が注目された。. 立. 日本は 1895 年日清戦争に勝ち、1905 年日露戦争に勝利を収め、ロシアから. ‧ 國. 學. 南満州権益を譲られ、さらに 1910 年の「第二次日露協約」によって南満州に おける「特殊利益」が確立された。革命が勃発した後、日本は「満州問題を解. ‧. 決すること」、 「中国における優勢なる地位を占めること」と対中基本政策とし て決定した。また清朝権力者の袁世凱を積極的に手元に抑えようとし、対袁援. y. Nat. sit. 助により「立憲君主制」を革命収拾の手段として中国に強要しようとした。そ. al. n. した。. er. io. の同時に、同盟国であるイギリスに「立憲君主制」に対する支持を求めようと. Ch. engchi. i n U. v. しかし、日本の政体固執に対して、イギリスは政治体制にも関わらず寧ろ中 国において強大な統一政権の樹立を望み、自身の権益と貿易が保障できること を重視した。一方、袁世凱の意図は革命を機として中国に君臨しようとしたこ とであった。このように、袁・英連携により日本は革命に対する外交主導権を 失った。すなわち、日本の政体干渉政策は辛亥革命における対中外交失敗の原 因となった。 本論は、辛亥革命における日本・イギリス・袁世凱三者の外交交渉を比較し ながら、日本の政体干渉論を中心として立憲君主制を堅持した原因を探求した いと思う。. キーワード:日本、袁世凱、辛亥革命、立憲君主、政体干渉.

(4) 謝辭 碩士生涯終於要在八月寫下休止符。 三年前會進日文所,其實是抱持著逃避社會的心情,當時連要寫甚麼題目都 沒有方向,只能亦步亦趨跟著老師、同學們學習。所幸日文所的老師們給予學生 很大的發揮空間,讓我能夠選擇有興趣的題目,在稿紙上盡情揮灑筆墨,順利畢 業。 首先要感謝傅琪貽老師在課堂上給我論文題目的靈感,在論文起步也是最艱 難的時刻,傅老師適時給我們壓力,從後面推我們一把,可以說沒有傅老師的提 點,我就沒有辦法完成這本論文。相較於學業方面,系主任徐翔生老師對學生的. 政 治 大. 照顧無微不至,尤其是我的女朋友曾擔任她的助理,所以她時時督促我要趕快畢. 立. 業給女朋友一個交代,如今我終於畢業踏入社會,也算是完成徐老師對我的期盼。. ‧ 國. 學. 對於我最敬愛的指導教授于乃明老師,我想千言萬語都無法表達我對她的感謝, 在于老師身邊的這四年來,我從老師身上不只學習到課本的知識,最重要的是做. ‧. 人處事的道理,雖然她貴為教務長,但是從來就跟學生沒有距離,于老師就像慈 母一般,從不吝嗇與我分享她的一切,當然在論文寫作上,她也給我最專業的意. y. Nat. al. er. io. 必定歷久彌新,永不褪色。. sit. 見,我很幸運于老師能夠收我為徒,這份師徒之情,是我人生中最珍貴的回憶,. n. v i n Ch 能讓我沒有後顧之憂,專心埋首論文。如今我畢業出社會了,換我來孝順你們, engchi U 再來我要感謝我的阿嬤、老爸、老媽、老妹、KIKI,因為有家人的支持,才. 支撐這個家庭。. 另外我要特別感謝昭英學長常常請我這個窮學生吃好料,在論文寫作上也給 我許多寶貴意見,還有日系男子凱博、宥豪、家瑋、阿綠、高高、大寶、阿福、 振綱,每天在 LINE 群組裡的打屁聊天,讓我邊寫論文邊對著手機科科笑。感謝 大學同學王桑、小嘎、宛欣,還有學妹兼室友小屁,鄰居鴨強,以及一起奮鬥的 碩士生好夥伴 CANDY 姊、紫瑄、宥羽、城戶、陳祥、孝羽、雅筑,福豐國中的好 朋友譯德、倍怡,大家陪我一起渡過一段不平凡的碩士生活。 再來我很感激遠在日本的月餅學長(現在已經是葉教授)、小藍、浩克能幫 我到陰森的圖書館搜尋古老的史料,沒有你們的寶貴資料,我的論文一定無法如.

(5) 期完成。我也很感激系上助教小花、大餅,所上學姐麥壹、安奇、大寶,有關論 文寫作的問題只要問你們一定能找到答案。 最後我想對我的女朋友小四說,謝謝妳這八年來的陪伴,在我當研究生沒有 收入時,妳還跟象迷一樣對我不離不棄,省吃儉用,每天過著長途跋涉的通勤生 活,我虧欠妳太多,如今我畢業了,一定會努力工作,將來讓妳衣食無缺,過妳 想要的生活,謝謝妳。. 立. 政 治 大. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v.

(6) 目次. 第一章 緒論 .......................................................................................................1 第一節. 研究動機と目的 ................................................................................................... 1. 第二節. 先行研究 ............................................................................................................... 4. 第三節. 研究方法 ............................................................................................................... 7. 第二章. 武昌蜂起をめぐる日本政府の対応 .......................................................9. 第一節. 武昌蜂起 ............................................................................................................... 9. 第二節. 革命初期の日本の対応策 ................................................................................. 11. 立. 袁世凱の登場をめぐる日本政府の対応 .............................................. 18. 學. ‧ 國. 第三章. 政 治 大. 日本の対袁外交 ............................................................................................... 18. 一.. 袁世凱の出馬 ................................................................................................... 18. 二.. 対袁政策の決定 ............................................................................................... 21. 三.. 伊集院・袁世凱会談 ....................................................................................... 23. 四.. 伊集院の積極策 ............................................................................................... 26. 第二節. 日本の対英外交 ............................................................................................... 28. 一.. 日英共同干渉の申込み ................................................................................... 28. 二.. イギリスの共同干渉拒否 ............................................................................... 32. 第三節. 袁世凱の計略 ................................................................................................... 34. ‧. 第一節. n. er. io. sit. y. Nat. 第四章. al. Ch. engchi. i n U. v. 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応 .......................................... 40. 第一節. イギリスと南北和議 ....................................................................................... 40. 一.. 袁世凱の野心 ................................................................................................... 40. 二.. イギリスの南北和議工作 ............................................................................... 43.

(7) 三.. 南北和議から日本の排除 ............................................................................... 44. 第二節. 日本と南北会議 ................................................................................................. 52. 一.. 立憲君主と共和民主の論争 ........................................................................... 52. 二.. イギリスの政体に対する態度転換 ............................................................... 54. 三.. 政体干渉策の挫折 ........................................................................................... 59. 第三節. 日本の立憲君主制の堅持 ................................................................................. 64. 一.. 満州権益擁護の視点 ....................................................................................... 64. 二.. 思想抑制の視点 ............................................................................................... 67. 第五章. 治 政 終章 ..................................................................................................... 73 大 立. 参考文献(年代順) .......................................................................................... 79. ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. i n U. v.

(8) 第一章 緒論 第一節. 研究動機と目的. まず、辛亥革命というのは何物であろうか。 辛亥革命は、狭義では 1911 年 10 月 10 日の夜武昌で一部の「新軍1」が清朝 に反旗を翻した蜂起から、1912 年 2 月 12 日の清朝皇帝(宣統帝溥儀)が退位 詔書を出した日までの期間に、中国全国各地で起った清朝支配を崩壊させた武 装闘争を指すものである。広義では、清朝末期からの一連の革命運動から、武. 政 治 大. 昌蜂起を経て中国における共和制の確立までの期間を指すものである。一見す. 立. ると、辛亥革命は中国の一事件にすぎないが、しかし辛亥革命は古代より続い. ‧ 國. 立した2。. 學. てきた君主政治を終わらせ、中華民国というアジアにおける最初の共和国を樹. ‧. 政治的側面から言えば、中国において数千年にわたって封建主義的専制主義 的統治システムの中に、頂点に立っている最高支配者は皇帝である。辛亥革命. y. Nat. sit. によってこの皇帝制度は潰され、権力中心は大統領と国民会議等近代民主国家. n. al. er. io. 制度に取って代わられた。すなわち、辛亥革命は中国が数千年にわたって築い. i n U. v. てきた古い統治システムを打ち壊したのである。思想的側面から言えば、民主. Ch. engchi. 主義の高揚と思想解放による、君主専制制度の下では皇帝が絶対的で冒涜して はならない神聖な存在であったが、辛亥革命はこのような伝統を打ち破った。 つまり、国家と個人との関係について、中国の民衆に大きな意識変化が起った ことである3。 続いて、日本にとって辛亥革命は何物であろうか。 辛亥革命勃発当時の国際情勢から見ると、世界列強は経済利権を獲得するた めに、積極的に中国に進出し、中国各地域で各々の勢力範囲を領有した。この. 日清戦争後,創建された中国の洋式軍隊。 「新建陸軍」の略称。袁世凱が統率し,北洋軍の母 体となった。義和団事件後逐次増設され,各地の新軍が辛亥革命の推進力となった。『大辞林 第三版』三省堂 2 王柯編『辛亥革命と日本』藤原書店、2011、P.17 3 同上、P.4 1 1.

(9) ように、中国は清朝中央政府を有する独立国家であったが、ある意味で半殖民 地になっている状態であった。そのため、辛亥革命は世界列強に衝撃を与えた 一方、各国の革命に対する態度も辛亥革命の成り行きに影響を及ぼした。 その中に、中国と隣接しているアジア唯一の帝国主義国家たる日本はショッ クを受けた。日本は 1895 年日清戦争に勝ち、1905 年日露戦争に勝利を収め、 1910 年韓国併合4を果たして中国大陸に大きく伸びる機会を捉えた。朝鮮半島 を経由して満州に進出することは、日本の外交政策にとって至上使命であった。 1905 年のポーツマス条約5によって、日本がロシアから南満州権益を譲られて から、日本は英露両国と協調しながら漸進的に影響力拡大を図る方針をとった。 1906 年の南満州鉄道株式会社創設6、1909 年日清協約によって満州に関する諸. 政 治 大. 条約が実現され7、さらに南満州を「特殊利益」地域として日露両国で共同して. 立. 守ることを約束した 1910 年の「第二次日露協約」によって補完された8。. ‧ 國. 學. 満州経営に着々と歩みを進めている際、中国大陸に革命が発生し異なった政 体の出現は、言うまでもなく日本に衝撃を与えた。辛亥革命の勃発に対して、. ‧. 日本政府はおよそ二週間後の閣議決定で「同国ニ対シテ優勢ナル地位ヲ占メン コトヲ努メ合ワセテ満洲ノ現状ヲ永遠ニ持続スルノ策9」として、要するに日. y. Nat. sit. 本政府は中国本土に勢力を扶植することを目的とし、あくまで列国と共同動作. n. al. er. io. を取り官革双方を刺激しない、という静観的な最初方針を取った。. i n U. v. 11 月に入り南方の革命気運は一層盛り上がった。清朝は今までもなく危機. Ch. engchi. 1910 年「韓国併合ニ関スル条約」により日本が韓国を併合し,自国の領土としたこと。日露 戦争後,日本は三次にわたる日韓協約により漸次韓国支配を強めてきたが,併合以後は朝鮮総 督府を置き 1945 年の敗戦まで完全支配した。日韓併合。 『大辞林第三版』三省堂 5 1905 年 9 月,アメリカのポーツマスにおいて調印された日露戦争の講和条約。アメリカ大 統領ルーズベルトの仲介によるもので,日本全権代表は小村寿太郎,ロシア全権代表はウィ ッテ。日本の韓国における権益の承認,旅順・大連の租借権および長春以南の鉄道と付属の 利権の譲渡,樺太南半の割譲などを決めたが,賠償金は獲得できないなど講和の内容に対す る国民の不満が高まり,東京では暴動が発生した。 『大辞林第三版』三省堂 6 ポーツマス条約によって帝政ロシアから譲り受けた東清鉄道の一部 (旅順-長春) とその支 線,撫順炭鉱などの権益,財産を運営するため,1906 年勅令によって資本金 2 億円 (うち政府 現物出資 1 億円) で特殊法人として設立された。 『ブリタニカ国際大百科事典小項目事典』 7 朝鮮の外交権を奪った日本と中国(清)との間で,1909 年に結ばれた国境に関する協約。間 島地方は中国領とされ,かわりに日本は中国東北部に対する利権を拡張した。 『大辞林第三版』 三省堂 8 日本とロシアが英米の東アジア進出に対抗する目的で、1907 年から 1916 年まで四回にわた り締結した協約。1910 年 7 月 4 日調印の第二回協約は、満州の現状維持と特殊権益防衛に相 互援助すること。 『日本大百科全書』小学館 9 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.50 2 4.

(10) に陥ったので、下野した袁世凱を再起用せざるを得なかった。袁世凱の登場に 対して、日本は静観策から積極の干渉策へ転換した。日本政府は駐清伊集院公 使に通じて、「貴方ニ於テモ徒ニ世評ニ迷ヒテ帝国ノ誠意ヲ疑フカ如キコトナ ク必要ノ場合ニハ虚心坦懐心情ヲ打明ケテ助力ヲ求メラルルコト得策ナルヘ シ10」と袁世凱に伝え、袁に援助を与えることによって革命を干渉しようとし たことを明らかにした。その干渉策とは立憲君主制を中国に強要したことであ った。 この立憲君主制の干渉策は間接に日本の外交失策を招いたといえる。中国の 立憲君主制を実現するために、協調外交を重視した日本は同盟国たるイギリス の協力を呼びかけたが、イギリスは政体問題において経済権益保護を重点とし. 政 治 大. 政体を問わず現実的な態度を取ったので、共和制に妥協した。一方、日本は立. 立. 憲君主制による時局収拾策を袁世凱に強要したが、袁の南北会議により中国に. ‧ 國. 學. 君臨しようとした真意を始終把握できなかったので、袁は日本の期待を裏切っ て国会による政体採決策を選択した。. ‧. ここで興味深いのは、日本の立憲君主制に対する堅持である。袁世凱の登場 から、日本は対中援助より袁世凱の立憲君主制支持を要求したが、情勢の推移. y. Nat. sit. に伴って共和制による時局収拾の傾向が止まらなかった。日本は中国に親日勢. n. al. er. io. 力扶植の企図を実現し、袁を手元に抑えようとしたために、1911 年 12 月 24. i n U. v. 日の閣議で一度「(立憲君主)主義は之を放棄するを得策とす11」と、立憲君主. Ch. engchi. 制による中国時局収拾方針を放棄した。にもかかわらず元老会議によって閣議 決定が否定され12、日本政府は最後まで依然として立憲君主制の干渉策を固執 したことが明らかにした。このように、日本は立憲君主制の堅持のため、イギ リスと袁世凱に働きかけた外交努力は何らかの成果を収めることが出来ず、逆 に日本に対する疑心を深め警戒心を高めた。政体問題をめぐって日本は外交孤 立状態に陥った13。 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.378-379 原圭一郎編『原敬日記』第三巻、福村出版、1981、P.198-199 12 第二次大戦前,後継首相候補者の推薦など,重要な政治問題について天皇の諮問に答える国 家の最高機関的役割を果たした政治家。詔勅を受けて元勲優遇とされた者で,黒田清隆・伊藤 博文・井上馨・西郷従道・大山巌・松方正義・山県有朋・桂太郎・西園寺公望の九人。西園寺 の死をもって消滅。『大辞林第三版』三省堂 10 11. 13. 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.70 3.

(11) 本論は、日本政府・外務省の革命勃発初期における対清政策の模索と形成過 程を考究すると共に、袁世凱の登場による南北関係の急激な変化に伴う日本・ イギリス・袁世凱三者の外交交渉を比較しながら、日本の政体干渉論を中心と して立憲君主制を堅持した原因を探求したいと思う。. 第二節. 先行研究. 辛亥革命における日本の対応について、日本の研究の中に、彭澤周氏は西園 寺内閣を中心に考察を試みた。彭氏の論稿『辛亥革命與西園寺内閣』(1964) 14によって、辛亥革命における日本の対華干渉を検討する際に、二つのポイン. 政 治 大. トを把握しなければならない。第一は明治日本の政体を理解することであり、. 立. 第二は日本の在華利権を認識することである。彭澤周氏は、当時の日本政府は. ‧ 國. 學. この二点を基づいて対中政策を執ると指摘した。. まず日本の政治体制について、1889 年発布した「大日本帝国憲法」によって. ‧. 日本は「立憲君主制」国家になったが、憲法は民衆権力を弱化するとともに、 天皇の支配権を強化し、すなわち「絶対主義天皇制」を確立した。このような. y. Nat. sit. 政治背景のもとで、日本は国内の民主勢力を抑えながら積極的に中国侵略をし. n. al. er. io. つつあったので、もし隣接している中国で「民主共和制」の統一強固政府が樹. i n U. v. 立されれば、立憲君主制の日本と政体的に根本的な矛盾が起き、中国侵略にと. Ch. engchi. って障害になったのが予想される。ゆえに、日本は清朝政府の存続を望んで、 中国の立憲君主制に尽力し、革命勢力を抑える政策を明らかにした。 続いて日本の在華利権について、日本は日清戦争、日露戦争に勝ち、中国か ら莫大な利益を獲得した。近代資本主義の中に、立憲君主制度でありながら封 建的な天皇制を採用する日本帝国主義は二つの特徴を有する。いわゆるロシア のような封建帝国主義的な領土侵略性格とイギリスのような近代資本主義的 な経済侵略性格である。しかし、日本は北進し満蒙問題を解決すれば、ロシア の極東政策と衝突する。その一方、南進し中国本土で経済的権益の発展を図れ ば、イギリスからの干渉を招く。このように、辛亥革命をきっかけとして中国 彭澤周「辛亥革命與日本西園寺内閣」 『中國近代現代史論集 18』第 17 篇(下)、台灣商務出版 社、1986 4 14.

(12) からいっそう利益を奪取しようとすれば、経済問題について、日英同盟を基盤 としてイギリスの外交を追随する一方、満蒙問題について、ロシアの諒解と支 持を取り付けせざるを得なかった。 辛亥革命勃発後、北方の清朝政府で実権を掌握したのは実力者の袁世凱であ ったので、各国は袁世凱を清朝政府の代表者と見なし対中外交を検討した。日 本も例外ではなく、政府は駐清伊集院大使に通じて対袁工作を始めた。池井優 氏は論文『日本の対袁外交(辛亥革命期)』 (1962)15で、池井優氏は袁世凱を 中心として日本の外交政策分析した。 池井優氏は清朝が袁世凱を再起用した後、日本が革命に対する静観策から積 極的干渉策を踏み出したことを二つの原因に整理した。まずは袁世凱の意図が. 政 治 大. 立憲君主制による収拾にあると判断したこと。次はイギリスが中立を表明し、. 立. 日本が先に働きかけるのが有利であると判断したこと。しかし、西園寺首相、. ‧ 國. 學. 内田外相を初めとする政策決定者が中国の情勢判断に対して不明であり、出先 機関すなわち北京の駐清伊集院公使の袁世凱に対する判断の誤りによって、袁. ‧. が共和制に賛成し自ら大統領となる意向を把握しなかったので、結局対袁外交 が失敗に終わった。. y. Nat. sit. 辛亥革命期における日本の外交は始終同盟国たるイギリスに追随した。協調. n. al. er. io. 外交を重視した日本政府は、イギリスに対して対革命干渉の協力を求めたが、. i n U. v. イギリスはしばしば曖昧の態度で日本の共同干渉策を拒否した。臼井勝美氏の. Ch. engchi. 論文『辛亥革命と日英関係』 (1977)16から、辛亥革命期の袁世凱をめぐる日英 外交が窺える。. 臼井勝美氏は、イギリスの中立政策は袁世凱をバックアップするという偏向 を持った中立であると指摘した。日本は辛亥革命をきっかけとして中清・南清 へ政治的・経済的進出を企んでいたが、楊子江を中心とするこの地域は中国最 大の市場であり、イギリスは勢力圏として貿易権益を守るために、決して日本 の進出を許せなかった。イギリスは強大な軍事力を背景にもつ袁世凱を擁護し、 袁世凱体制を推進することによって、日本の意図を牽制するとともに、自国権. 池井優「日本の対袁外交(辛亥革命期)(1)(2)」 『法学研究』35(4)(5)、慶応義塾大学法学研究会、 1962 16 臼井勝美「辛亥革命と日英関係」 、『季刊国際政治』 (58)、日本国際政治学会、1977 5 15.

(13) 益の確保、拡大を期待した。 辛亥革命期に中国現地にいる駐清北京公使伊集院彦吉は忠実に日本政府の 訓令を従い、対袁世凱・イギリス公使ジョルダンの外交工作に努めていた。櫻 井良樹氏・廣瀨順皓氏・尚友俱樂部によって編集された『伊集院彦吉関係文書』 (1996)17は伊集院の日記を通して、辛亥革命期の中国現地外交を明らかにし た。その中に注意すべきのは、10 月 27 日の日記に記している「此機を利用し て清国人間に分割するの手段方法」、すなわち中国分裂策であった。伊集院は 清国の分割・対峙状態を作り出して、終局には日本の満蒙への影響力を高めよ うとした構想が明白である。 ウッドハウス暎子氏は著書『辛亥革命と G.E.モリソン』 (2010)18で辛亥革命. 政 治 大. 期に「ロンドン・タイムズ」の駐北京ジャーナリスト、ジョージ・アーネスト・. 立. モリソンを対象として、モリソン文書(日記、往復書簡、覚書など)を読み解. ‧ 國. 學. くことから、モリソン個人外交の重要性を強調した。. 日本政府は袁世凱の立憲君主制による時局収拾策を期待した。それとは反対. ‧. に、モリソンは自らの判断で、袁世凱を共和制大統領にするほか時局収拾策は ないとして、彼は個人的外交を展開し、袁の共和制大総統実現を支持するよう. y. Nat. sit. にと、日本政府に強く促した。モリソンの提案は南北平和会議に決定的な影響. n. al. er. io. を与え、国民会議による政体決定案に繋がっていった。イギリス政府はモリソ. i n U. v. ンの提案を重視し、時局収拾を共和制支持として転向した一方、日本は対中政. Ch. engchi. 策を君主制に固執し、政策転換の時期を誤った。日本の外交失策に対して、ウ ッドハウス暎子氏は、辛亥革命期の日本外交は常に事態の展開から一歩遅れて ついていったと指摘した。 辛亥革命に対する日本政府の対応については、兪辛焞氏の著書『辛亥革命期 の中日外交史研究』 (2002)19は比較的新しく体系的で詳しいものである。同書 は、日本で起ったさまざまな動きを多くの一次史料を使用して描いている。 兪辛焞氏は袁世凱と日本・イギリスの関係を二重的外交関係として新しい観 点を提出した。袁と日・英は、一面においては、侵略と被侵略の問題に関して. 17 18 19. 櫻井良樹、廣瀨順皓、尚友俱樂部編『伊集院彦吉関係文書』辛亥革命、芙蓉書房、1996 ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002 6.

(14) 互いに対立的であった。だが、他方では、日・英間の中国をめぐる争いにおい て中国に君臨しようとする袁を自分の手元に抑えようとして、日・英は袁をめ ぐって争いを始めた。被侵略者の袁はこの争いを利用して、侵略者のイギリス を選択し、イギリスに頼ろうとした。兪辛焞氏は、このような二重的外交関係 から生ずる袁と日・英の三者関係は一時だくではなく、この辛亥革命期に始終 作用したと指摘した。 上述したように、辛亥革命に関する研究について、革命に対する日本政府の 対応策、革命をめぐって外交、また革命期における個人的外交を踏まえる研究 は決して少なくないが、従来の研究は辛亥革命期における日中外交の進行・展 開に対して多くの関心がある。その中に、彭澤周氏は革命干渉について、原因. 政 治 大. は政治体制の根本的な矛盾という論点を提出したが、政策決定者の中心思想の. 立. 形成過程を詳しく論じなかった。すなわち、日本はなぜ立憲君主制を中国に強. ‧ 國. 學. 要したのだろうか、誰が立憲君主制を固執したのだろうか、干渉策の真意につ いてはあまり注意を払ってない。したがって、本論は日本の立憲君主制に対す. ‧. る固執の視点から、更に綿密な史料を加え、辛亥革命期の日本外交について一 考察を試みたいのである。. n. Ch. engchi. er. io. al. 研究方法. sit. y. Nat. 第三節. i n U. v. 本論の研究範囲は、1911 年 10 月 10 日辛亥革命の武昌蜂起から、1911 年 12 月 27 日内田康哉外相がイギリス政府に「暫ク事態ノ発展ヲ観望スルコトトナ シタル20」という対中干渉策を放棄する電報を発したまで、日本政府の対中干 渉過程を分析しながら政体干渉の原因を探求するものである。 まず、辛亥革命期における中国現地の状況を明らかにするために、本論では 張國淦氏の『辛亥革命史料』、李廉方氏の『辛亥武昌首義記』を参照し、どち らでも辛亥革命の成り行き及び南北和議の様子を詳しく還元した重要な資料 である。また、日本政府の革命に対する対応策及び後の干渉策について、外務 省が編集した『日本外交文書』 (清国事変)に、革命期における外務省と中国、. 20. 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.471 7.

(15) イギリスに駐在していた外交官との間に連絡手段として使われた電報が詳し く整理されている。特に内田外相・駐清伊集院公使、そして内田外相・駐英山 座臨時大使の間に発し合う電報を取り上げて、日本政府の視点から日本・中国・ イギリス三国の外交経緯を明らかにする。また、羅家倫氏によって編集された 『英国外交青書-辛亥革命に関する資料』に、イギリスのグレー外相と駐清の ジョルダン公使の間の電報が詳しく記録されていて、イギリスによって南北和 議斡旋の始末が窺える。以上は本論で使用した基本史料である。 次に、干渉策形成の背景を理解するために、政策決定者の思想を無視しては ならないと思う。徳富蘇峰が編述した『公爵山縣有朋傳』によると、辛亥革命 期に対中政策に於いて強い発言権を持っていた元老山県有朋はの共和制に対. 政 治 大. する批判は明白である。また、櫻井良樹・廣瀨順皓・尚友俱樂部によって編集. 立. された『伊集院彦吉関係文書』を利用して、辛亥革命期に駐清伊集院公使が書. ‧ 國. 學. いた日記を分析しながら、彼の政体干渉に対する積極的態度を明らかにする。 そのほか、『西園寺公望』、『内田康哉』、『桂太郎文書』等辛亥革命に直接・間. ‧. 接に関わっていた人物の伝記、文書を詳しく読んで行きながら、今まで研究さ れた関係論文を検証するとともに、政体干渉の事実についてより厳密且つ論理. y. Nat. sit. 的な結果を解明したい。. n. al. er. io. 本論の構成において、まずは辛亥革命の蜂起について簡単に記述し、革命初. i n U. v. 期における日本政府が静観策を出した原因を詳しく分析する。続いては袁世凱. Ch. engchi. の出馬に応じて、日本政府は消極的静観策から積極的干渉策に転換し、袁世凱 に援助を与えることにより中国に立憲君主制を強要した過程を考察する。また、 日英同盟にも関わらずイギリス密かに袁世凱に接近し、南北休戦の斡旋に努め ることを解明する。次には南北和議において政体問題をめぐって日本・イギリ ス・袁世凱三者の外交過程を比較しながら、南北会議において日本の中国政体 干渉策の失敗原因を究明する。最後に、以上の考察から獲得した情報に基づい て、日本の政体干渉いわゆる君主立憲制に対する堅持の具体原因を明らかにし たい。. 8.

(16) 第二章. 武昌蜂起をめぐる日本政府の対応 第一節. 武昌蜂起. 1911 年 10 月 10 日蜂起した革命軍は、10 日武昌を奪い、12 日漢口・漢陽を 占領し、武漢三鎮を手中に収めた21。1911 年 10 日 12 日、革命軍政府は中華民 国軍政府を名乗って、鄂(湖北)軍都督黎元洪の名義で、漢口の各国領事に覚 書を発送した。内容は次のように記している。. 政 治 大. 「中華民國軍政府鄂省都督為照會事、我軍政府、自廣東之役、團體潰後、乃轉而向西、. 立. 遂得志於四川、在昔各有邦未遽認我為與國者、以惟有人民主權、而無土地故耳、今既取. ‧ 國. 學. 得四川屬之土地、國家之三要、於是乎備矣。軍政府復祖國之情切、憤滿奴之無狀、復命 本都督起兵武昌、共圖討滿、推倒滿清政府、建立民國、同時對於各友邦益敦睦鄰、以期. ‧. 維持世界之和平、增進人類之幸福。所有民軍對外之行動、特先知照、免致誤會。22」. y. Nat. sit. 要約すると、この覚書は中華民国軍政府は国家を構成する人民、領土、政府. n. al. er. io. 等三つの要素を具備した政府であるを明示し、間接的に列強の承認を要請する. i n U. v. 意を表した。続いて「軍政府は満朝の無能を怒り、祖国を取り戻すために、武. Ch. engchi. 昌で拳兵し、専制政府を打倒し、民国を創立した」と、蜂起の政治目的と対外 政策の基本方針を明確に示した。. また、覚書はこのような方針に基づき、下記のような軍政府の対外政策の基 本方針を明確に示した23。 (一)清朝政府が以前各国と締結した条約は、引き続きこれを遵奉す (二)軍政府占領地域内に居留する各国人民の財産はこれを承認し保護す (三)既に外国に与える一切の特権はこれを承認し保護す (四)賠償金と借款は旧に照らし、各省より期に従い数の如く返還す. 21 22 23. 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.81-90 同上、P.101-102 李廉方『辛亥武昌首義記』中國國民黨黨史史料編委會、1961、P.379 9.

(17) (五)各国がもし清朝政府を援助し軍政府を妨害すれば敵と見なす (六)各国がも清朝政府に軍需品を援助すれば、捜査没収す (七)本通告の日付以後、清朝政府と各国との間に締結された条約に対し、軍 政府は一切承認をせず 義和団に対する八カ国連合軍の凄惨な鎮圧は24、中国の革命指導者に深刻な 教訓を与えており、蜂起が成功するか失敗するかのキーポイントは、如何に列 強の軍事的干渉を阻止・排除するかであると見なされていた。故に、上記の七 か条は革命軍が中国における列強の既得権益を承認することによって蜂起に 対する列強の軍事的干渉を排除しようとしたものであり、清朝に対する列強の 援助を阻止し国際的に清朝を孤立させようとしたものであった25。. 政 治 大. 漢口の松村総領事は 10 月 11 日林董外務大臣に打電し26、漢口の様子を下記. 立. のように報告した。. ‧ 國. 學. ( ?). 「今朝迄ニ場内ハ全ク暴徒ノ占領スル所トナレリ彼等ハサナトニ砲列ヲ布キ今朝来熾. ‧. ンニ総督衙門ヲ砲撃シタ(中略)原因ハ満州人ニ対スル反感ニアルモノ(中略)一般人 民及外国人ノ生命財産ニ対シテハ何等ノ危害ヲ加ヘス27」. sit. y. Nat. n. al. er. io. 上述のように、軍政府の措置によって、蜂起と激烈な戦闘の混乱の中でも、. i n U. v. 外国人と列強の権益は十分に保護されていたので、列強は蜂起に干渉する必要. Ch. engchi. 性と口実がなくなり、10 月 18 日駐漢口英・露・仏・独・日等各国領事は革命 軍政府に中立を厳守する声明を発表した28。すなわち、革命勃発期に革命軍は 列強の軍事干渉を排除することに成功したことが窺える。. 24. 1899~1900 年,列強の進出に抗した中国民衆の排外運動。山東に始まった義和団の運動が 華北一帯に波及,北京の列国大公使館区域を包囲攻撃するに及び,日・英・米・露・独・ 仏・伊・墺連合軍の出兵を招き,鎮圧された。北清事変。団匪事件。『大辞林第三版』三省堂 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.8-9 西園寺内閣の初めに林董逓信大臣は外務大臣を臨時兼任した。内田康哉がアメリカから帰 国後、1911 年 10 月 16 日、林董は外務大臣臨時兼任を解く 27 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.46 28 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.103 10 25 26.

(18) 第二節. 革命初期の日本の対応策. 当時日本国内の状況はどうであったろうか。曾村保信氏は「日本の政局は重 大な転換期に直面しつつあった29」と指摘した。明治時代の大半を支配してき た藩閥勢力は、1905 年の日露戦争以来次第にその勢いを増大してきた諸勢力 に取って代わられつつあった。この新興勢力は大体三者に分けられる。先ずは 藩閥勢力のもとで漸次成長を遂げた政府の官僚であり、次は日清・日露両戦争 に通じて発展した資本家階級、最後は一個の独立した勢力として登場した陸軍 であった。だが、三者の中にいずれもが決定的な支配権を握る勢力はないため、 日本政府の対外政策は一致性がなく複雑で混乱したものであった30。. 政 治 大. このような状況の下、1911 年 8 月 30 日、桂内閣の後を受けて第二次西園寺. 立. 内閣が成立したのであった。閣僚は次のようである31。 西園寺公望. 司法. 松田. 外務. 內田. 文部. 長谷場純孝. 内務. 原. 農商務. 牧野. 大蔵. 山本. 達雄. 逓信. 林. 石本. 新六. 書記官長. 南. 上原. 勇作. 法制長官. 岡野敬次郎. 伸顕. io. sit. y. 董 弘. er. 敬. ‧. Nat. 陸軍. 康哉. 正久. 學. ‧ 國. 総理. n. a斉藤 iv l C 実 n h e n g c h i U は中国事務の処理に対し 内閣の中に、内務大臣原敬 と外務大臣内田康哉 海軍. 32. 33. て豊かな経験を有するので、革命に対する方針は殆ど二人に深く関わっていた 34。だが、藩閥勢力は衰えたとはいえ、当時「維新の元勲」として元老の力は、. 依然として勢力を有し、山県有朋、大山巌、井上馨、松方正義の四人によって. 曾村保信『近代史研究:日本と中国』小峯書店、1977、P.136 同上 31 『日本大百科全書』小学館 32 原敬は明治一八八二年、外務省に採用され、入省の翌年には天津領事に任命されて中国天津 に赴いた。 33 内田康哉は一九〇一年から一九〇六年まで駐清北京公使に務めて、日露戦争に対清・対露の 情報工作に優れた功績を持っていた。 29 30. 彭澤周「辛亥革命與日本西園寺內閣」 『中國近代現代史論集 18』第 17 篇(下)、台灣商務出版 社、1986、P.1057 11 34.

(19) 形成される元老会議による「元老政治」は対中政策に対する強い発言権があり、 岡義武氏は「実は藩閥勢力による政治支配の新しい形式に外ならなかった」と 指摘した35。 このように、西園寺内閣が成立して一ヶ月余り、「閣僚が殆んどその席に落 着かない内に」隣国の清国に革命が勃発したのであった36。10 月 13 日、清国 陸軍大臣廕昌37は密かに北京公使館付武官の青木陸軍少将38に通じて、 「砲弾約 三十万発小銃弾六千四百万発小銃一万六千挺ヲ至急購入シタシ39」と日本政府 に対し革命軍討伐のための兵器弾薬の供給を依頼した。ここで日本政府は早く も革命に対する独自の対応を示す必要に追われた。すなわち、内田康哉外務大 臣は早急に対中政策を設定しなければならない状況であった。. 政 治 大. 辛亥革命に対して、駐米大使から外務大臣に任命された内田康哉は革命の報. 立. を知ったのはその帰国途上の阿波丸船上であった。内田外相の迅速な行動は次. ‧ 國. 學. のように記している。. ‧. 「内田外相は 10 月 14 日新橋到着し、直ちに外務省に登庁し、石井(菊次郎)次官よ り革命事件に関する報告を聞き、続いて西園寺首相を訪ねた。翌 15 日早朝登庁、清国. y. Nat. sit. に対する方針に関し石井外務次官、倉知政務局長に口話し、同局長にこれを立案させ. n. al. 県公を目白の私邸に訪い、夜再び登庁した。40」. Ch. engchi. er. io. ることとした。翌 16 日には西園寺首相を官邸に訪問、また石本陸相と会談し、夕刻山. i n U. v. このようにして成立したのが、10 月 16 日内田外相から駐清伊集院公使宛の 電報であった。この電報は山県有朋、石本新六陸相といった陸軍系統の意向を. 池井優「日本の対袁外交(辛亥革命期)(1)」 『法学研究』35(4)、慶応義塾大学法学研究会、1962、 P.69 36 大津淳一郎『大日本憲政史』6、原書房、1978、P.671-673 37 清末民初の軍人・外交官である。1911 年 5 月には、慶親王奕劻の内閣で陸軍大臣に任命さ れた。辛亥革命が勃発すると、廕昌は革命派の鎮圧を図った。 38 明治期の陸軍軍人。日露間が険悪となった一九〇三年秋,参謀次長児玉源太郎の強い要請を 受け,三回目の清国公使館付となって,諜報・謀略活動を行うことになった。公使館を本部とし て,日本軍人,中国人を組織,袁世凱を味方に入れ,馬賊を使嗾して情報収集,鉄道・電話線の破壊, 後方かく乱などを実施,日露戦争での日本の勝利に多大の貢献をなし,謀略将軍と仇名された。 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版 39 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.134 40 内田康哉伝記編纂委員会・鹿島平和研究所編『内田康哉』鹿島研究所出版会、1969、P.154 12 35.

(20) 十分含んでいるものと思われる。内容は下記のように記している。. 「帝国政府ハ清国政府カ革命軍討伐ノ為該銃砲弾薬ヲ入手スル最緊切ナル必要アルヲ 顧念シ本邦商人ヲシテ右ノ供給ヲナサシムル為十分ノ助力ヲ与フルコトニ決シ既ニ右 ニ必要ナル諸般ノ措置ヲ取リ置キタリ41」. 日本政府は清国に武器の援助を与えれば、革命軍側が日本に対する反感を持 ち、日本商品に対するボイコットを実行し、在中の日本国民に危害を加えるな ど日本に対する極めて不利益なものを招くことは予想できる。だが、日本は「清 国政府ニ対スル特別ノ好意ト東亜ノ大局ヲ維持スルノ必要」という理由として、. 政 治 大. 清朝を支持する姿勢を示したことに通じて、「清国官民ノ帝国ニ対スル従来ノ. 立. 態度ノ常ニ公正ヲ失スル」こと、また「満洲ノ現状ヲ了解セス恰モ我ヲ以テ不. ‧ 國. 學. 法ノ侵略者ナルカ如クニ思考シ較モスレハ我正当ノ地位ヲ傷損覆滅センコト ヲ企図スル42」ことなど、清国人民の日本に対する嫌悪感を解消しようとした。. ‧. 要するに、日本は危険を冒して武器供給の代償として、清国の対日態度の改善 及び満洲における日本の地位の確保を要求したものであった。. y. Nat. sit. このように、10 月 20 日の閣議に陸相・外相・首相の協議により、清国に兵. n. al. er. io. 器を販売することが決定された43。10 月 23 日泰平組合代理大倉組と清国陸軍. i n U. v. 部との間に売買契約が成立した。供与された武器の内容は三十一年式野山砲、. Ch. engchi. 榴弾、散弾、三十年式小銃、実包ならびに機関銃で、総額 273 万 3 千 6 百 40 円であった44。. 一方、参謀本部は革命軍側にも武器を供与することを考慮していた。それに 対して西園寺首相、内田外相は反対した。しかし、10 月 19 日内田外相と原敬 内相の会談で、原は内田に「余りに正直に理義を糺して北京政府又は革命軍何 れにても其感情を害する事は外交上妙ならずと思ひ、参謀本部辺の考は悉く是 認する事を得ざるは勿論なるも、十分なる注意を要する事45」と述べた。これ. 41 42 43 44 45. 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.135 同上、P.135-136 原圭一郎編『原敬日記』第三巻、福村出版、1981、P.177 臼井勝美「日本と辛亥革命:その一側面」 『歴史学研究』207、歴史学研究会、1957、P.49 原圭一郎編『原敬日記』第三巻、福村出版、1981、P.176 13.

(21) は、原敬は内相の立場として、革命軍に対する武器供与を「政府としては不可 なれども商人が個人的に之をなすは叛徒の悪感を避くる好方便46」と黙認した ものであった。すなわち、原敬の考えは、山県有朋、内田外相らは革命軍に対 する嫌悪が先立つものより一歩進んで、「今日の情勢は叛徒も官軍も如何なる 状況となるや全く不明なれば、外交上の理論一辺にては到底我国の不利を免れ ざるべし47」というものであった48。原内相はこのような情勢判断を内田外相 にアドバイスした。原のこの判断は冷静なるものであり、官革双方の力関係の 変化を見守りながら、双方に対する外交方針を決定しようとしたものであった 49。. また、内田外相は 10 月 21 日桂太郎を訪れて二時間にわたって外交方針につ. 政 治 大. いて談合した50。その内容は不明であったが、桂太郎は原敬外相に「万一の場. 立. 合は利益保護の名義にて大冶地方を占領し51」と述べた。そして 10 月 22 日内. ‧ 國. 學. 田外相は海軍の長老であり軍事参議官であった山本権兵衛52 を訪れ、両者は 「満洲は永遠に保持するの覚悟なること。中清の事は利権増進の為機宜の措置. ‧. を取る事53」で一致した。. 内田外相は上記のような意見をまとめて、元老、官僚派の意向を反映した「対. y. Nat. sit. 清政策に関する件」を起草した。10 月 24 日閣議においてこれを日本政府の外. al. er. io. 交方針として採択・決定した。その根本方針は次のように記している。. n. v i n Ch 「帝国カ政治上並ニ経済上清国トノ間ニ極メテ密接ナル関係ヲ有スルニ鑑ミ帝国ニ engchi U 於テ常ニ同国ニ対シテ優勢ナル地位ヲ占メンコトヲ努メ併セテ満洲ノ現状ヲ永遠ニ 持続スルノ策ヲ講スヘキコト54」. 同上、P.177 同上 48 池井優「日本の対袁外交(辛亥革命期)(1)」『法学研究』35(4)、慶応義塾大学法学研究会、 1962、P.72 46 47. 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.21 内田康哉伝記編纂委員会・鹿島平和研究所編『内田康哉』鹿島研究所出版会、1969、P.156 51 原圭一郎編『原敬日記』第三巻、福村出版、1981、P.174 52 山本権兵衛は 1898 年中将、海軍次官から、山県有朋、伊藤博文、桂太郎各内閣の海軍大臣 を歴任して日露戦争の難局を突破し、この間大将に昇任、戦後功一級、伯爵の位を得た。『日 本大百科全書』小学館 53 坂野潤治編『財部彪日記 : 海軍次官時代』山川出版、1983、P.275 54 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.50 14 49 50.

(22) これは前内閣の政策を継承したものであった。この対清政策は両部分に分け ていて、先ずは日本が清国に対して優勢なる地位を占めることであり、次には 満洲の現状を永遠に持続することである。 清国における日本の「優勢ナル地位ヲ占メンコト」について、日本は出来る 限り清国との感情を融和して、清国を日本に信頼させる方策を取ったものであ った。そして満洲或いは中国本部は、日本「地理上ノ位置並ニ帝国ノ実力ニ照 ラシ更ニ疑ヲ容レヘカサル所55」と、日本が自信を示したので、日本は清国並 びに列国に日本の優勢なる地位を承認させることに努める政策であった。 続いては日本の大陸政策に於いてもっとも重要な「満洲ノ現状ヲ永遠ニ持続. 政 治 大. スル」ことについて、日本は「満洲ニ於ケル租借地ノ租借期間ヲ延長シ鉄道ニ. 立. 関スル諸般ノ問題ヲ決定シ更ニ進ンテ該地方ニ対スル帝国ノ地位ヲ確定シス」. ‧ 國. 學. と目標を設定した。それを達成するために、日本政府は「満洲問題ノ根本的解 決ハ一ニ我ニ最モ有利ナル時期ノ到来ヲ待ツコト56」と決定した。. ‧. 清国における優勢なる地位を占めること並びに満洲問題を解決することを 達成するために、日本は欧米列強に対する外交政策を重視した。北方のロシア. y. Nat. sit. に対しては満洲問題において「歩調ヲ一ニシテ我利益ヲ擁護スルコトヲ計リ」、. n. al. er. io. 南方のイギリスに対しては「飽迄同盟条約ノ精神ヲ徹底スルコトニ努メ」、フ. i n U. v. ランス等中国本部に利害関係を有する「諸国トノ間ニ調和ノ途ヲ講シ」、アメ. Ch. engchi. リカに対しては出来る限り「我伴侶ノ内ニ収ムルノ策ヲ取57」るように列強に 対する外交政策を決定した。これは列強に対する協調外交を強調したものであ った。 要するに、10 月 24 日閣議で決定したのは、中国本土に勢力を扶植すること を目的とし、あくまで列国と共同動作で官革双方を刺激しない、という革命勃 発当初における政府の方針であった。しかし、この時期外務省とその出先機関 との間にも外交政策上の分裂があった。外務省は 10 月 24 日の閣議決定で慎重 な政策に転換しつつあったが、北京の日本公使館は依然として清朝政府を支援. 55 56 57. 同上、P.51 同上、P.50-51 同上、P.51 15.

(23) する政策を出張し、軍の出兵を要請した。 駐清伊集院彦吉公使は蜂起が拡大し、南方の諸省が続々と独立を宣言したの で、もはや人心は清朝を離れ、清朝が中国全土に君臨するのは不可能になった 情勢に鑑み、10 月 28 日内田外相に「優勢ナル軍隊ヲ直チニ当方面ニ出動セシ メ以テ時局ノ機先ヲ制セラル、要アル58」と、軍艦および陸軍の派遣を迫るよ う上申した。伊集院がこのような上申をした原因は、彼が目前の中国における 日本の現実的な実力の欠乏を強く感じ、もし軍艦・軍隊の出動を得れば日本は 「局面操縦ニ付余程ノ便宜ヲ得ヘキ 59」と思っていたからであった。これは、 伊集院はこの機を利用して清朝政府と中国時局に対する日本の発言力と影響 力を強化しようとしたのであった60。. 政 治 大. だが、内田外相は伊集院の出兵の要求を受け入れなかった。その理由は、先. 立. ず「清国ノ情勢ハ目下ノ処先ツ不定ノ状態ニ在リト云フノ外ナク此ノ際我ニ於. ‧ 國. 學. テハ専ラ形勢ノ推移ヲ注視シ慎重我態度ヲ決定スル61」と、目下清国の情勢は まだ不明な状態であり、日本政府は形勢の推移を見守りながら慎重に政策を決. た。. ‧. 定することであった。これは上述した原敬内相の慎重外交に応じたことであっ. y. Nat. sit. 続いて、もし軍隊を出動すれば「世間ノ耳目ヲ聳動スヘキ重大事項タルコト. n. al. er. io. 明カナルノミナラス清国政府自身カ果シテ之レヲ歓迎スヘキヤ否ヤモ明カナ. i n U. v. ラス62」と、日本の出兵は列強を驚かし動かす重大事件になるのみならず、清. Ch. engchi. 国自身は日本の出兵を歓迎するかどうか明白しないと同時に、清国政府を援助 する意向の有無を革命軍側にも解釈する必要があるので、要するに出兵の結果 を軽視してはならないものであった。 最後に、「英国政府トノ間ニ十分打合ヲ了シ万一如何ナル重大ナル結果ヲ生 スルモ日英共同之ニ当ルノ決意ヲ定ムルヲ要ス63」と、イギリスとの全面的了 解が必要であり日英同盟の線に沿うことを打ち出したことであった。これは日. 58 59 60 61 62 63. 同上、P.52 同上、P.53 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.24 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.56 同上、P.57-58 同上、P.58 16.

(24) 本政府が再びイギリスと協調外交を強調したものであった。 上述したように、日本政府は革命最初清国に武器を援助するなど清朝支援一 辺倒の策から官革双方を配慮する政策に転換し、南北情勢の変化を傍観しなが らイギリス等列強と協調して中国に対応しようとしたことを示した。10 月 24 日閣議で決定された日本の対清方針は、日本の伝統的実利主義的外交政策を再 現し、満洲における従来の権益を維持し、中国本部に勢力を拡大することを強 調したものであった。これは日露戦争以来の対清外交政策を持続して、行き詰 まった清朝政府との外交交渉を打開しようとしたものであった。 だが、この閣議決定は南方の革命勢力について特に対応策を触れなかった。 辛亥革命は清朝封建制の打倒と共和制樹立を目指す革命であったが、この時期. 政 治 大. 日本の外交方針によると、中国の政体及び社会秩序の変革に対する認識がいさ. 立. さかもなく、この革命の舞台に登場した諸政治勢力に対する分析とそれらの力. ‧ 國. 學. 関係の変化に対する見通しもなかった。兪辛焞氏は、「これは当時(日本)政 府・外務省には辛亥革命に対する政治的判断がなかったことを意味する」と指. ‧. 摘した64。要するに、辛亥革命勃発から袁世凱の登場まで日本の対清政策は静 観であり、詳しくいえば官革双方に対する積極的な対応策を出さず時局の動向. y. Nat. n. er. io. al. sit. を見守ることが言えよう。. 64. Ch. engchi. i n U. 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.23 17. v.

(25) 第三章. 袁世凱の登場をめぐる日本政府の対応. 武昌蜂起は、連鎖反応的に楊子江南岸の都市や省に燃え広がり、10 月末ま で革命派が中国本土の約三分の一を手中に入れ、全国 18 省の中に 15 省が清国 政府の支配から独立を宣言した65。これにより清国政府は今までのない政治危 機に陥って、実力者の袁世凱を再起用せざるを得なかった。. 第一節. 日本の対袁外交. 政 治 大. 一. 袁世凱の出馬. 立. ‧ 國. 學. 清国朝廷が袁世凱を起用した内幕、張國淦氏は下記のように記している。. ‧. 「8 月 19 日(10 月 10 日)、武昌新軍が武装蜂起した。21 日(10 月 12 日)、廕昌は朝 廷の命令により軍を率いて鄂の革命軍を討伐しに行った。23 日(10 月 14 日)、清朝は. y. Nat. sit. 袁世凱を湖廣總督として起用し、革命軍の討伐を協力するよう命令した……廕昌はド. n. al. 実に軍隊の指揮は困難であった。66」 (筆者訳). Ch. engchi. er. io. イツ陸軍留学生であるが、実戦を経験したことがない。故に指揮官と任命されたが、. i n U. v. 革命が勃発最初、清国政府は陸軍大臣廕昌の第一軍・馮國璋の第二軍を出動 させ、武漢地方の革命軍鎮圧に乗り出したが、軍隊は廕昌の指揮の通り動かな かった67。なぜかというと、 「北洋陸軍は袁世凱にしか服従しない68」という原 因であった。新軍として編成・訓練された北洋陸軍は、もと袁世凱の管轄・指. ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010、P.135 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.108 「8 月 19 日(10 月 10 日),武昌新軍起義。21 日(10 月 12 日),命廕昌督師赴鄂剿辦。23 日 (10 月 14 日) ,起用袁世凱為湖廣總督,督辦剿辦事宜,相距僅二日,蔭昌督師,在當時已有 點勉強,廕昌雖是德國陸軍學生,未曾經過戰役,授命後編調軍隊,頗覺運調為難。」 67 丁文江『民國軍事近紀』上篇、商務印書館、1926、P.1-4 68 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.108 「其實此項軍隊,均是北洋舊部,人人心目中祇知有『我們袁宮保』」 18 65 66.

(26) 揮下にあった。しかし、1908 年西太后と光緒帝が死亡した後、袁は摂政王戴澧 に排斥され、権力を失ってしまって、「回籍養疴」の理由として故郷の河南省 彰德に隠居していた69。だが、袁世凱は北洋陸軍における地位は依然として高 く、軍に絶対的な勢力を持っていた。すなわち、北洋陸軍の兵士が袁の号令し か従わない状況を示した。 また、慶親王奕劻も下記のように袁世凱を推薦した。. 「此種非常局面,本人已老,絕對不能承擔,袁有氣魄,北洋軍隊,都是他一手編練,若 令其赴鄂剿辦,必操勝算,否則畏葸遷延,不堪設想。且東交民巷(各国駐清大使館地 域)亦盛傳非袁不能收拾,故本人如此主張。70」. 立. 政 治 大. 要約すると、慶親王奕劻71は袁世凱が北洋陸軍を率いて必ず革命軍の鎮圧に. ‧ 國. 學. 勝算があり、欧米各国も袁世凱の出馬を期待していると主張した。これに対し て、摂政王載灃72は反対したが、時局の収拾と列国の期待に応じるために、仕. ‧. 方なく袁世凱を再起用せざるを得なかった。. 欧米諸国は袁世凱を中国における信頼できる政治家だとみなし、高く評価し. y. Nat. sit. たのは偶然なことではなかった。義和団事件の際、袁が山東巡撫として外国人. n. al. er. io. の保護に懸命したことは欧米人に広く知られていた。また、1902 年直隸総督・. i n U. v. 北洋大臣の時代に推進した軍事・警察・実業・教育・人事制度等の改革、及び. Ch. engchi. その後に推進した立憲運動は欧米人の高い評価を得ていた73。これらの経験に より、袁世凱は外国勢力が自家防衛のために欠かないといけないことを悟り、. 丁中江『北洋軍閥史話』1、時英出版、2000、P.168-172 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.108 71 清朝の最初にして最後の内閣総理大臣。1884 年以降、総理各国事務衙門を管理、1894 年に 慶親王となる。義和団の乱に際し初めはこれを支持したが、八か国連合軍が北京を占領し、対 外妥協派が実権を握ると、李鴻章とともに講和全権大使となり、各国と北京で辛丑和約を締結。 1901 年以降 1911 年まで、新設された外務部総理となり、また立憲君主制への移行のために設 立された督弁政務処の大臣、1903 年には首席軍機大臣などを務め、1911 年には新しい内閣官 制のもとで総理大臣に任命された。辛亥革命後は天津に引きこもり、1916 年病没した。 『日本 大百科全書』小学館 72 中国,清末の皇族。宣統帝溥儀の父。宣統帝が即位すると監国摂政王となり,清朝延命を 企図したが,辛亥革命で引退。『大辞林第三版』三省堂 69 70. 73. 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.37 19.

(27) 「列強の好感を得ざるべからず」ということを終身の綱領にした74。 11 月 1 日慶親王奕劻内閣の辞職とともに、清国朝廷は勅令を下り、袁世凱 を新しい内閣総理大臣に任命した75。袁世凱内閣に対する欧米列強は熱烈に歓 迎し、早急に時局を収拾するよう期待していた。特にイギリスは南清に莫大な 権益を有し、革命の騒乱がイギリスの通商を妨害するため、袁の力で秩序の回 復を希望していた。イギリス外相グレーはさらに「我々は袁に対して敬意を持 ち、彼によって作られた政府の下で、治安の平穏、通商貿易が順調に行われる ことを期待している76」と述べた。 その一方、日本の袁世凱に対する評価はどうであったろうか。1902 年袁が 直隷総督と北洋大臣の職に就いていた時期に、彼は日本の軍事教官を招聘して. 政 治 大. 北洋陸軍を訓練し、日本の教員と学者を招いて中国教育を改革し、優秀な青年. 立. を選抜して日本に留学させた。日露戦争後袁は慶親王らと共に「満洲ニ關スル. ‧ 國. 學. 条約」に署名し、日本が日露戦争で獲得した満州における植民地的権益を承認 した77。このような事情により当時(1902-1906 年)天津総領事であった伊集. ‧. 院公使は「深く袁世凱に傾倒し肝胆相照らす心交の間柄」と自信を持っていた 78。すなわちこの時期の袁は「親日的」であったといえよう。. y. Nat. sit. しかし、日露戦争後日本が中国に対する侵略を強化した時、すなわち 1907. n. al. er. io. 年外務尚書・軍機大臣の職に就いた袁は「交遠制近」の外交政策を取り、英・. i n U. v. 米と連携して日本に対抗した。袁は彼の腹心徐世昌を東三省総督に、唐紹儀を. Ch. engchi. 奉天巡撫に任命し、彼らに通じて駐奉天のアメリカ領事と共に満鉄と並行する 鉄道建設の計画を立て、日本の安奉鉄道の建設を妨害し、南満州における日本 の植民地的権益に挑戦したので、袁は一時日本の対中国政策遂行の障害になっ たのであった。日本は袁世凱に対して好感を持たなかったが、組閣して清朝権 力頂点に立っていた袁に対して、今まで疎外してきた態度を変えざるを得なか. 平川清風『支那共和史』春申社、1920、P.115 沈雲龍『徐世昌評傳』傳記文學雜誌、1979、P.144-145 76 胡濱譯『英國藍皮書有關辛亥革命資料選譯』上、中華書局、1984、P.58 77 1905 年 12 月 22 日に北京において日本・清国両国間でを締結した。日本側代表は特派全権 大使小村寿太郎外務大臣、特派全権公使内田康哉であり、清国側代表は欽差全権大臣慶親王、 瞿鴻禨、袁世凱である。「満洲ニ關スル条約」は、ポーツマス条約によってロシアから日本に 譲渡された満州利権の移動を清国に了承させた条約である。 78 会田勉『川島浪速翁』大空社、1997、P.100 20 74 75.

(28) った。日本政府は袁に接近し、彼を援助することより日本の手元に抑えようと した。これは 10 月 24 日の閣議決定に応じて、中国本部に勢力を扶植する政策 であった。. 二. 対袁政策の決定 北京現地の動きを見ると、袁が内閣総理大臣に任命された時、伊集院公使は 「清国政府カ果シテ如何ナル態度ヲ以テ我ニ臨ムヘキヤ之レ未タ疑問ナキヲ 得サル79」と内田外相に打電し、袁世凱政府への対応策を尋ねた。内田外相は これに対して「帝国政府ニ於テハ此際袁世凱一派トノ間ニ成ルへク密接ノ関係. 政 治 大. ヲ維持80」すると、袁世凱と緊密な関係を持つよう指示した。このように、伊. 立. 集院公使は早急に高尾通訳官を通じて袁の腹心趙秉鈞に接近したが、趙は民生. ‧ 國. 學. 部および自身私用のために若干の金員を伊集院公使に要求した81。袁に接近す るために内田外相は「趙秉鈞自身ノ入用為ニハ必要ノ金額ヲ融通82」するよう. ‧. と指示し、趙に対して若干の金額を日本政府から内密に融通した。 11 月 13 日袁は千人の兵士を率いて北京に入城した。11 月 15 日伊集院公使. y. Nat. sit. は慶親王奕劻との会談より「宮廷ニ於テハ一切万事ヲ袁ノ雙肩ニ投ケ懸ケ袁ノ. n. al. er. io. 力ニ依リテ命脈ヲ保83」つと、清国政府が一切を袁に期待しつつあることを察. i n U. v. 知したので、これから伊集院公使は清国との交渉対象を袁世凱を中心として極. Ch. engchi. 力袁の意向を突き止めることになった。. 11 月 16 日袁世凱は北洋軍閥官僚内閣を組織し、慶親王の言う通り清国政府 の政治・軍事の大権を手に掌握した。袁の組閣を見た日本政府は翌 17 日の閣 議において清国の援護問題についての対袁方針を決定した。同日内田外相は伊 集院公使に対し、適当の折を見て袁と会見するよう訓令した。まず、袁と会見 する際、貴官は努めて先方の意見若しくは希望を聞き取り、「出来得ル限リ我 態度ヲ『コムミツト』セサル」よう要求した。また、万一袁が日本政府の力に. 79 80 81 82 83. 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.149 同上、P.58 同上、P.56 同上、P.24 同上、P.48 21.

(29) 頼り時艱を救う態度を見せる場合には、「貴官ハ帝国政府カ東亜ノ大局日清両 国間ノ特殊関係並ニ善隣ノ好誼ニ顧ミ必ス相当ノ助力ヲ清国政府ニ与フルニ 吝ナラサルヘキヲ確信ス」ると答えよう注意した。最後に、「話ノ都合上其必 要を認メラレ何等顧慮スル所ナシト認レラル、ニ於テハ貴官一己ノ考トシテ 84」 、下記の趣旨を内談するよう訓令した。. 「帝国政府ニ於テ一旦清国政府ヲ援護シ動乱ノ鎮定ニ助力スルコトニ決心セルトキハ (中略)先ズ十分ニ清国政府ノ決意ノ在ル所ヲ承知セサルへカラス即チ清国政府タル モノ誠意帝国政府ヲ信頼シテ疑フ所ナク一部人民ノ反対又ハ外国ノ離間中傷等ノ如キ ハ全然之ヲ度外ニ置85」くこと. 立. 政 治 大. 内田外相は袁に対して、日本政府への「誠意」と「信頼」を対清援護の前提. ‧ 國. 學. 条件として提出したのは理由がある。それは「清国半部ヲ風靡セル革命党ハ我 ニ対シ怨恨ヲ懐ク我通商貿易ニ妨害」すること、また「帝国国内ニ於テハ目下. ‧. 革命党ニ同情ヲ有スル人士モ少シトセサル(中略)彼等ノ激烈ナル反抗ヲ受ク ルコト86」を予想すること等の理由が挙げられた。これは内田外相が日本政府. y. Nat. er. io. あった。. sit. の決心を示し、袁の対日不信感を解き、その信頼感を獲得しようとした手段で. al. n. v i n Ch 「清国今回ノ動乱ハ清国政府ニ取リ實ニ重大事件ナルノミナラス動乱久シキニ亘リ諸 engchi U 列国ノ利益著シク之カ為ニ拱手旁觀スルコトナカルへク(中略)清国政府ハ一面速カ ニ動乱鎮定ノ策ヲ講スルト同時ニ他面深ク東亜ノ大局ヲ顧念シ徒ラニ実効ナキ外間ノ 力ヲ借リテ事局ヲ紛糾スルカ如キ行動ヲ慎87」むこと。. この「実効ナキ外間ノ力」は恐らくイギリスを指すものであろう。イギリス は遠い中国に駐屯させている軍隊は決して大量とは言えないため、日本と比べ れば軍事的に有効な援助を与えるのは困難であった。したがって、内田外相は 84 85 86 87. 同上、P.164 同上、P.164-165 同上、P.165 同上、P.166 22.

(30) これを理由として、袁のイギリスに対する依存関係を打ち切り、袁を日本の手 元に抑えようとした88。. 三. 伊集院・袁世凱会談 このように、11 月 18 日駐清伊集院公使は袁世凱の要請に応じて、第一回目 の袁・伊集院会談が行われた。伊集院公使はまずここまで日本政府の態度につ いて下記のように述べた。. 「元来貴国ノ対外関係カ単純ニ日本国ニノミ止マルニ於テハ帝国政府ハ直チニ貴国ニ. 政 治 大. 援助ヲ与ヘテ鎮圧ノ手段ヲ講スル筈ナレトモ何分諸外国トノ関係最モ複雑セル現下ノ. 立. 状態ニ在リテハ我国ノ一拳一動ハ延テ列国干渉ノ端ヲ誘起スルノ虞アルヲ以テ帝国政. ‧ 國. 學. 府ハ厳ニ中立ノ態度ヲ守リテ他ヨリ干渉ノ余地ナ89」い. ‧. と、日本が動乱の機を乗じて中国の政局を干渉するような野心はなく、中立 を守る態度を表明し、袁の対日不信感を解消しようとしたが、これは本音では. y. Nat. sit. なかった。伊集院公使は続いて「貴方ニ於テモ徒ニ世評ニ迷ヒテ帝国ノ誠意ヲ. n. al. er. io. 疑フカ如キコトナク必要ノ場合ニハ虚心坦懐心情ヲ打明ケテ助力ヲ求メラル. i n U. v. ルコト得策ナルヘシ90」と勧告した。これは曖昧の言葉であったが、実に中国. Ch. engchi. 問題に干渉する意欲を表した。さらに「東洋ノ大局ハ東洋人限リニ於テ之ヲ維 持シ速カニ秩序ヲ回復セシメテ東洋ノ平和ヲ確定センコトニ努ムル91」ことを 表明した。ここで「東洋」を何回も強調するのは、革命に関して欧米の関与を 排除しようとし、恐らく袁とイギリスとの密接な関係を分断しようとしたもの であった92。 日本政府の態度を表明した後、伊集院公使は今後の方針について袁に尋ねた。 これに対して袁はまず革命軍について「自分ノ考エニテハ先ツ武昌ノ叛軍ヲ征 88 89 90 91 92. 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』 、東方書店、2002、P.42 『日本外交文書』 (清国事変) 、P.378 同上、P.378-379 同上、P.378 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』 、東方書店、2002、P.42 23.

參考文獻

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