第二章 武昌蜂起をめぐる日本政府の対応
第二節 革命初期の日本の対応策
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第二節 革命初期の日本の対応策
当時日本国内の状況はどうであったろうか。曾村保信氏は「日本の政局は重 大な転換期に直面しつつあった29」と指摘した。明治時代の大半を支配してき た藩閥勢力は、1905 年の日露戦争以来次第にその勢いを増大してきた諸勢力 に取って代わられつつあった。この新興勢力は大体三者に分けられる。先ずは 藩閥勢力のもとで漸次成長を遂げた政府の官僚であり、次は日清・日露両戦争 に通じて発展した資本家階級、最後は一個の独立した勢力として登場した陸軍 であった。だが、三者の中にいずれもが決定的な支配権を握る勢力はないため、
日本政府の対外政策は一致性がなく複雑で混乱したものであった30。
このような状況の下、1911 年 8 月 30 日、桂内閣の後を受けて第二次西園寺 内閣が成立したのであった。閣僚は次のようである31。
総理 西園寺公望 司法 松田 正久 外務 內田 康哉 文部 長谷場純孝 内務 原 敬 農商務 牧野 伸顕 大蔵 山本 達雄 逓信 林 董 陸軍 石本 新六 書記官長 南 弘 上原 勇作 法制長官 岡野敬次郎 海軍 斉藤 実
内閣の中に、内務大臣原敬32と外務大臣内田康哉33は中国事務の処理に対し て豊かな経験を有するので、革命に対する方針は殆ど二人に深く関わっていた
34。だが、藩閥勢力は衰えたとはいえ、当時「維新の元勲」として元老の力は、
依然として勢力を有し、山県有朋、大山巌、井上馨、松方正義の四人によって
29 曾村保信『近代史研究:日本と中国』小峯書店、1977、P.136
30 同上
31 『日本大百科全書』小学館
32 原敬は明治一八八二年、外務省に採用され、入省の翌年には天津領事に任命されて中国天津 に赴いた。
33 内田康哉は一九〇一年から一九〇六年まで駐清北京公使に務めて、日露戦争に対清・対露の 情報工作に優れた功績を持っていた。
34 彭澤周「辛亥革命與日本西園寺內閣」『中國近代現代史論集 18』第 17 篇(下)、台灣商務出版 社、1986、P.1057
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十分含んでいるものと思われる。内容は下記のように記している。
「帝国政府ハ清国政府カ革命軍討伐ノ為該銃砲弾薬ヲ入手スル最緊切ナル必要アルヲ 顧念シ本邦商人ヲシテ右ノ供給ヲナサシムル為十分ノ助力ヲ与フルコトニ決シ既ニ右 ニ必要ナル諸般ノ措置ヲ取リ置キタリ41」
日本政府は清国に武器の援助を与えれば、革命軍側が日本に対する反感を持 ち、日本商品に対するボイコットを実行し、在中の日本国民に危害を加えるな ど日本に対する極めて不利益なものを招くことは予想できる。だが、日本は「清 国政府ニ対スル特別ノ好意ト東亜ノ大局ヲ維持スルノ必要」という理由として、
清朝を支持する姿勢を示したことに通じて、「清国官民ノ帝国ニ対スル従来ノ 態度ノ常ニ公正ヲ失スル」こと、また「満洲ノ現状ヲ了解セス恰モ我ヲ以テ不 法ノ侵略者ナルカ如クニ思考シ較モスレハ我正当ノ地位ヲ傷損覆滅センコト ヲ企図スル42」ことなど、清国人民の日本に対する嫌悪感を解消しようとした。
要するに、日本は危険を冒して武器供給の代償として、清国の対日態度の改善 及び満洲における日本の地位の確保を要求したものであった。
このように、10 月 20 日の閣議に陸相・外相・首相の協議により、清国に兵 器を販売することが決定された43。10 月 23 日泰平組合代理大倉組と清国陸軍 部との間に売買契約が成立した。供与された武器の内容は三十一年式野山砲、
榴弾、散弾、三十年式小銃、実包ならびに機関銃で、総額 273 万 3 千 6 百 40 円であった44。
一方、参謀本部は革命軍側にも武器を供与することを考慮していた。それに 対して西園寺首相、内田外相は反対した。しかし、10 月 19 日内田外相と原敬 内相の会談で、原は内田に「余りに正直に理義を糺して北京政府又は革命軍何 れにても其感情を害する事は外交上妙ならずと思ひ、参謀本部辺の考は悉く是 認する事を得ざるは勿論なるも、十分なる注意を要する事45」と述べた。これ
41 『日本外交文書』(清国事変)、P.135
42 同上、P.135-136
43 原圭一郎編『原敬日記』第三巻、福村出版、1981、P.177
44 臼井勝美「日本と辛亥革命:その一側面」『歴史学研究』207、歴史学研究会、1957、P.49
45 原圭一郎編『原敬日記』第三巻、福村出版、1981、P.176
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1962、P.72
49 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.21
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これは前内閣の政策を継承したものであった。この対清政策は両部分に分け ていて、先ずは日本が清国に対して優勢なる地位を占めることであり、次には 満洲の現状を永遠に持続することである。
清国における日本の「優勢ナル地位ヲ占メンコト」について、日本は出来る 限り清国との感情を融和して、清国を日本に信頼させる方策を取ったものであ った。そして満洲或いは中国本部は、日本「地理上ノ位置並ニ帝国ノ実力ニ照 ラシ更ニ疑ヲ容レヘカサル所55」と、日本が自信を示したので、日本は清国並 びに列国に日本の優勢なる地位を承認させることに努める政策であった。
続いては日本の大陸政策に於いてもっとも重要な「満洲ノ現状ヲ永遠ニ持続 スル」ことについて、日本は「満洲ニ於ケル租借地ノ租借期間ヲ延長シ鉄道ニ 関スル諸般ノ問題ヲ決定シ更ニ進ンテ該地方ニ対スル帝国ノ地位ヲ確定シス」
と目標を設定した。それを達成するために、日本政府は「満洲問題ノ根本的解 決ハ一ニ我ニ最モ有利ナル時期ノ到来ヲ待ツコト56」と決定した。
清国における優勢なる地位を占めること並びに満洲問題を解決することを 達成するために、日本は欧米列強に対する外交政策を重視した。北方のロシア に対しては満洲問題において「歩調ヲ一ニシテ我利益ヲ擁護スルコトヲ計リ」、 南方のイギリスに対しては「飽迄同盟条約ノ精神ヲ徹底スルコトニ努メ」、フ ランス等中国本部に利害関係を有する「諸国トノ間ニ調和ノ途ヲ講シ」、アメ リカに対しては出来る限り「我伴侶ノ内ニ収ムルノ策ヲ取57」るように列強に 対する外交政策を決定した。これは列強に対する協調外交を強調したものであ った。
要するに、10 月 24 日閣議で決定したのは、中国本土に勢力を扶植すること を目的とし、あくまで列国と共同動作で官革双方を刺激しない、という革命勃 発当初における政府の方針であった。しかし、この時期外務省とその出先機関 との間にも外交政策上の分裂があった。外務省は 10 月 24 日の閣議決定で慎重 な政策に転換しつつあったが、北京の日本公使館は依然として清朝政府を支援
55 同上、P.51
56 同上、P.50-51
57 同上、P.51
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する政策を出張し、軍の出兵を要請した。
駐清伊集院彦吉公使は蜂起が拡大し、南方の諸省が続々と独立を宣言したの で、もはや人心は清朝を離れ、清朝が中国全土に君臨するのは不可能になった 情勢に鑑み、10 月 28 日内田外相に「優勢ナル軍隊ヲ直チニ当方面ニ出動セシ メ以テ時局ノ機先ヲ制セラル、要アル58」と、軍艦および陸軍の派遣を迫るよ う上申した。伊集院がこのような上申をした原因は、彼が目前の中国における 日本の現実的な実力の欠乏を強く感じ、もし軍艦・軍隊の出動を得れば日本は
「局面操縦ニ付余程ノ便宜ヲ得ヘキ59」と思っていたからであった。これは、
伊集院はこの機を利用して清朝政府と中国時局に対する日本の発言力と影響 力を強化しようとしたのであった60。
だが、内田外相は伊集院の出兵の要求を受け入れなかった。その理由は、先 ず「清国ノ情勢ハ目下ノ処先ツ不定ノ状態ニ在リト云フノ外ナク此ノ際我ニ於 テハ専ラ形勢ノ推移ヲ注視シ慎重我態度ヲ決定スル61」と、目下清国の情勢は まだ不明な状態であり、日本政府は形勢の推移を見守りながら慎重に政策を決 定することであった。これは上述した原敬内相の慎重外交に応じたことであっ た。
続いて、もし軍隊を出動すれば「世間ノ耳目ヲ聳動スヘキ重大事項タルコト 明カナルノミナラス清国政府自身カ果シテ之レヲ歓迎スヘキヤ否ヤモ明カナ ラス62」と、日本の出兵は列強を驚かし動かす重大事件になるのみならず、清 国自身は日本の出兵を歓迎するかどうか明白しないと同時に、清国政府を援助 する意向の有無を革命軍側にも解釈する必要があるので、要するに出兵の結果 を軽視してはならないものであった。
最後に、「英国政府トノ間ニ十分打合ヲ了シ万一如何ナル重大ナル結果ヲ生 スルモ日英共同之ニ当ルノ決意ヲ定ムルヲ要ス63」と、イギリスとの全面的了 解が必要であり日英同盟の線に沿うことを打ち出したことであった。これは日
最後に、「英国政府トノ間ニ十分打合ヲ了シ万一如何ナル重大ナル結果ヲ生 スルモ日英共同之ニ当ルノ決意ヲ定ムルヲ要ス63」と、イギリスとの全面的了 解が必要であり日英同盟の線に沿うことを打ち出したことであった。これは日