第四章 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応
第一節 イギリスと南北和議
一. 袁世凱の野心
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第四章 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応
第一節 イギリスと南北和議
前章で触れたように、日本がイギリスを呼びかけ共に立憲君主制による中 国時局の収拾に強要した際、イギリスはすでに袁の要請により密かに官革の 停戦に介入し、11 月下旬の調停の機を利用し、時局を南北平和会議に誘導し た165。
一. 袁世凱の野心
革命の初期に、袁が清朝に起用されたときに袁の野心はすでに窺えた。それ は袁が提出した六つのカムバックの条件であった166。
(一)来年国会を開催すること
(二)責任内閣を組織すること
(三)革命に関与した人を容赦すること
(四)党禁を解除すること
(五)海陸軍の編成権や指揮権を袁世凱に与えること
(六)十分な軍費を用意すること
上記の六つの条件に対して、李劍農氏は次のように指摘した。
「袁が提出した六つの条件を見ると、彼は革命軍と戦う気がなく、ただ実権を手に入 れようとしただけであった。167」(筆者訳)
165 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.52
166 李廉方『辛亥武昌首義記』中國國民黨黨史史料編委會、1961、P.145
167 李劍農『中國近百年政治史』復旦大學出版社、2002、P.277
「我們看他所提出的六個條件,便知道他的心裡,最初就是不願意和革命軍打硬仗,但是實權非 攬入自己手裡來不可。」
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上記のように一番目から四番目の条件は袁が革命党人の憤りをなだめ、歓心 を買うものであった。五番目と六番目は袁が実権を握るために軍備を掌握しよ うとするものであった168。清朝はこの六つの条件を「亡国」と同じようなもの として読み取って袁の要求を拒否した169。しかし、各省が独立するに伴って、
清朝はこれらの条件を飲まざるを得ず「罪己の詔」を下し袁を再起用した170。 朝廷に復帰した袁世凱の様子について、恭親王溥偉171の日記には次のように記 している。
「十月中,余往探袁氏。時居外務部,晤時,禮貌之恭,應酬之切,為自來所未有。余詢 以有何辦法?袁曰,『世凱受國厚恩,一定主持君主立憲。惟南方兵立強盛、人心盡去,
我處兵弱餉欠,軍械不足奈何?』復長歎低言曰,『向使王爺秉政,決不致壞到如此。』
嗟乎,余知袁氏之必叛也。172」
日記の内容を要約すると、袁は国家の恩を忘れず立憲君主制を支持したと述 べた。だが、彼は南方革命軍は勢いが強いため、清朝政府から人心が離反する。
さらに軍隊は士気低下し、軍用食糧、武器も不足しているので、どうしようも ない、と時局を悲観視した。河村一夫氏はこの日記の内容に対して、袁世凱は 清朝を滅亡させ自らこれに代わろうとの野心を抱いていたと指摘した173。
このように、袁世凱は徐々に権力を握るとともに、南方の革命軍との平和交 渉を謀り、漁夫の利を占めようとした。彼は 10 月 29 日腹心の部下である劉承 恩を派遣し、湖北軍政府の都督黎元洪に書簡を出した。
『刻下朝廷有旨,(一)、下罪己之詔,(二)、實行立憲,(三)、赦開黨禁,(四)、皇族不 問國政。似此則國政尚可有挽回振興之期也。尊即轉達台端,務宜設法和平了結,早息一 日兵事,地方百姓,早安靜一日。否則勢必兵連禍結,勝負未見,則不但荼毒生靈,靡費
168 同上
169 台灣中華書局編輯部編『袁世凱竊國記』台灣中華書局、1882、P.46
170 『大清皇帝實錄‧宣統紀要』卷 62、華文出版社、1961、P.49-50
171 中国の皇族。恭親王の孫。禁煙大臣より北京崇文門監督となる。第一革命以後は青島に隠 棲した。『美術人名辞典』思文閣、https://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography.php
172 中国史学会『中國近代史資料叢刊《辛亥革命》第八冊』上海人民出版社、1957、P111
173 河村一夫『日本外交史の諸問題』南窓社、1986、P214
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巨款,迨至日久息事,則我國已成不可收拾之國矣。況兵者漢人,受蹂躪者亦漢人,反正 均我漢人吃苦也。174』
書簡の内容によると、清朝朝廷は「罪己の詔」を下り、立憲政治を実施し、
政党結成の禁止令を解除し、皇族は政治を参与しないという四つの命令を発布 したので、国民を苦しまないように一刻も早く平和的に時局を収拾しなければ ならない、と黎元洪に説得しようとした。
袁世凱は黎元洪に平和的な解決を呼びかけながら、一方で袁の部下の馮國璋 は革命軍が占拠した漢口に猛烈攻撃し、11 月 1 日漢口を陥落した。このよう に、袁は両面作戦により 11 月 10 日再び劉承恩と海軍正参領の蔡廷幹を派遣し 漢口のゴッフェとともに武昌に行って革命軍に平和交渉を呼びかけた。劉、蔡 はもし革命軍側が立憲君主制に賛成してくれば攻撃を停止する意を示したが、
革命軍側はこれに反対した。だが、革命軍側は袁に対して、「漢民族のために 清朝から離脱し北京政権を取り戻すべき175」と忠告し、また「革命が成功すれ ば、必ず袁世凱を大総統として勧めたい176」と袁に対し好意的な態度を表した。
孫文も 11 月 12 日ロンドンから打電し「黎元洪が袁世凱を大総統として推薦し たことについて、自分も適切だと思う177」と述べた。
このように、袁は南方革命派の自分に対する期待と態度を把握したので、南 北交渉において有利な軍事的な地位を保つため、漢陽に対する攻撃を開始し、
11 月 27 日漢陽を陥落させ、引き続き武昌を砲撃し始めた178。
174 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.278
175 「返旆北征,克復冀汴」、引自黃德福『袁世凱政權與英國 : 從辛亥革命到洪憲帝制』元氣 齋、1994、P.122
176 「將來大功告成,選舉總統,當首推項城」、黃德福『袁世凱政權與英國 : 從辛亥革命到洪 憲帝制』元氣齋、1994、P.122
177 「欣悉總統自當選定黎君,聞黎有推袁之説,合宜亦善」、引自俞辛焞『辛亥革命期の中日 外交史研究』東方書店、2002、P.53
178 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.53
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