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第一章 緒論

第二節 先行研究

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本論は、日本政府・外務省の革命勃発初期における対清政策の模索と形成過 程を考究すると共に、袁世凱の登場による南北関係の急激な変化に伴う日本・

イギリス・袁世凱三者の外交交渉を比較しながら、日本の政体干渉論を中心と して立憲君主制を堅持した原因を探求したいと思う。

第二節 先行研究

辛亥革命における日本の対応について、日本の研究の中に、彭澤周氏は西園 寺内閣を中心に考察を試みた。彭氏の論稿『辛亥革命與西園寺内閣』(1964)

14によって、辛亥革命における日本の対華干渉を検討する際に、二つのポイン トを把握しなければならない。第一は明治日本の政体を理解することであり、

第二は日本の在華利権を認識することである。彭澤周氏は、当時の日本政府は この二点を基づいて対中政策を執ると指摘した。

まず日本の政治体制について、1889 年発布した「大日本帝国憲法」によって 日本は「立憲君主制」国家になったが、憲法は民衆権力を弱化するとともに、

天皇の支配権を強化し、すなわち「絶対主義天皇制」を確立した。このような 政治背景のもとで、日本は国内の民主勢力を抑えながら積極的に中国侵略をし つつあったので、もし隣接している中国で「民主共和制」の統一強固政府が樹 立されれば、立憲君主制の日本と政体的に根本的な矛盾が起き、中国侵略にと って障害になったのが予想される。ゆえに、日本は清朝政府の存続を望んで、

中国の立憲君主制に尽力し、革命勢力を抑える政策を明らかにした。

続いて日本の在華利権について、日本は日清戦争、日露戦争に勝ち、中国か ら莫大な利益を獲得した。近代資本主義の中に、立憲君主制度でありながら封 建的な天皇制を採用する日本帝国主義は二つの特徴を有する。いわゆるロシア のような封建帝国主義的な領土侵略性格とイギリスのような近代資本主義的 な経済侵略性格である。しかし、日本は北進し満蒙問題を解決すれば、ロシア の極東政策と衝突する。その一方、南進し中国本土で経済的権益の発展を図れ ば、イギリスからの干渉を招く。このように、辛亥革命をきっかけとして中国

14 彭澤周「辛亥革命與日本西園寺内閣」『中國近代現代史論集 18』第 17 篇(下)、台灣商務出版 社、1986

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からいっそう利益を奪取しようとすれば、経済問題について、日英同盟を基盤 としてイギリスの外交を追随する一方、満蒙問題について、ロシアの諒解と支 持を取り付けせざるを得なかった。

辛亥革命勃発後、北方の清朝政府で実権を掌握したのは実力者の袁世凱であ ったので、各国は袁世凱を清朝政府の代表者と見なし対中外交を検討した。日 本も例外ではなく、政府は駐清伊集院大使に通じて対袁工作を始めた。池井優 氏は論文『日本の対袁外交(辛亥革命期)』(1962)15で、池井優氏は袁世凱を 中心として日本の外交政策分析した。

池井優氏は清朝が袁世凱を再起用した後、日本が革命に対する静観策から積 極的干渉策を踏み出したことを二つの原因に整理した。まずは袁世凱の意図が 立憲君主制による収拾にあると判断したこと。次はイギリスが中立を表明し、

日本が先に働きかけるのが有利であると判断したこと。しかし、西園寺首相、

内田外相を初めとする政策決定者が中国の情勢判断に対して不明であり、出先 機関すなわち北京の駐清伊集院公使の袁世凱に対する判断の誤りによって、袁 が共和制に賛成し自ら大統領となる意向を把握しなかったので、結局対袁外交 が失敗に終わった。

辛亥革命期における日本の外交は始終同盟国たるイギリスに追随した。協調 外交を重視した日本政府は、イギリスに対して対革命干渉の協力を求めたが、

イギリスはしばしば曖昧の態度で日本の共同干渉策を拒否した。臼井勝美氏の 論文『辛亥革命と日英関係』(1977)16から、辛亥革命期の袁世凱をめぐる日英 外交が窺える。

臼井勝美氏は、イギリスの中立政策は袁世凱をバックアップするという偏向 を持った中立であると指摘した。日本は辛亥革命をきっかけとして中清・南清 へ政治的・経済的進出を企んでいたが、楊子江を中心とするこの地域は中国最 大の市場であり、イギリスは勢力圏として貿易権益を守るために、決して日本 の進出を許せなかった。イギリスは強大な軍事力を背景にもつ袁世凱を擁護し、

袁世凱体制を推進することによって、日本の意図を牽制するとともに、自国権

15 池井優「日本の対袁外交(辛亥革命期)(1)(2)」『法学研究』35(4)(5)、慶応義塾大学法学研究会、

1962

16 臼井勝美「辛亥革命と日英関係」、『季刊国際政治』(58)、日本国際政治学会、1977

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益の確保、拡大を期待した。

辛亥革命期に中国現地にいる駐清北京公使伊集院彦吉は忠実に日本政府の 訓令を従い、対袁世凱・イギリス公使ジョルダンの外交工作に努めていた。櫻 井良樹氏・廣瀨順皓氏・尚友俱樂部によって編集された『伊集院彦吉関係文書』

(1996)17は伊集院の日記を通して、辛亥革命期の中国現地外交を明らかにし た。その中に注意すべきのは、10 月 27 日の日記に記している「此機を利用し て清国人間に分割するの手段方法」、すなわち中国分裂策であった。伊集院は 清国の分割・対峙状態を作り出して、終局には日本の満蒙への影響力を高めよ うとした構想が明白である。

ウッドハウス暎子氏は著書『辛亥革命と G.E.モリソン』(2010)18で辛亥革命 期に「ロンドン・タイムズ」の駐北京ジャーナリスト、ジョージ・アーネスト・

モリソンを対象として、モリソン文書(日記、往復書簡、覚書など)を読み解 くことから、モリソン個人外交の重要性を強調した。

日本政府は袁世凱の立憲君主制による時局収拾策を期待した。それとは反対 に、モリソンは自らの判断で、袁世凱を共和制大統領にするほか時局収拾策は ないとして、彼は個人的外交を展開し、袁の共和制大総統実現を支持するよう にと、日本政府に強く促した。モリソンの提案は南北平和会議に決定的な影響 を与え、国民会議による政体決定案に繋がっていった。イギリス政府はモリソ ンの提案を重視し、時局収拾を共和制支持として転向した一方、日本は対中政 策を君主制に固執し、政策転換の時期を誤った。日本の外交失策に対して、ウ ッドハウス暎子氏は、辛亥革命期の日本外交は常に事態の展開から一歩遅れて ついていったと指摘した。

辛亥革命に対する日本政府の対応については、兪辛焞氏の著書『辛亥革命期 の中日外交史研究』(2002)19は比較的新しく体系的で詳しいものである。同書 は、日本で起ったさまざまな動きを多くの一次史料を使用して描いている。

兪辛焞氏は袁世凱と日本・イギリスの関係を二重的外交関係として新しい観 点を提出した。袁と日・英は、一面においては、侵略と被侵略の問題に関して

17 櫻井良樹、廣瀨順皓、尚友俱樂部編『伊集院彦吉関係文書』辛亥革命、芙蓉書房、1996

18 ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010

19 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002

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互いに対立的であった。だが、他方では、日・英間の中国をめぐる争いにおい て中国に君臨しようとする袁を自分の手元に抑えようとして、日・英は袁をめ ぐって争いを始めた。被侵略者の袁はこの争いを利用して、侵略者のイギリス を選択し、イギリスに頼ろうとした。兪辛焞氏は、このような二重的外交関係 から生ずる袁と日・英の三者関係は一時だくではなく、この辛亥革命期に始終 作用したと指摘した。

上述したように、辛亥革命に関する研究について、革命に対する日本政府の 対応策、革命をめぐって外交、また革命期における個人的外交を踏まえる研究 は決して少なくないが、従来の研究は辛亥革命期における日中外交の進行・展 開に対して多くの関心がある。その中に、彭澤周氏は革命干渉について、原因 は政治体制の根本的な矛盾という論点を提出したが、政策決定者の中心思想の 形成過程を詳しく論じなかった。すなわち、日本はなぜ立憲君主制を中国に強 要したのだろうか、誰が立憲君主制を固執したのだろうか、干渉策の真意につ いてはあまり注意を払ってない。したがって、本論は日本の立憲君主制に対す る固執の視点から、更に綿密な史料を加え、辛亥革命期の日本外交について一 考察を試みたいのである。