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第四章 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応

第二節 日本と南北会議

三. 政体干渉策の挫折

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三. 政体干渉策の挫折

12 月 21 日上海の唐紹儀から南北和議は「一度決裂ノ曉ニハ内地洋人ノ財産 生命必ス保護シ難シク大禍実ニ設想ニ堪ヘス尚自分ノ前議ニ照ラシ速ニ国会 ヲ開キ君主民主問題ヲ公決セシメ以テ全国ノ麋乱ヲ免カルルノ一途アルノミ

249」と袁世凱に打電してきた。これに対して、12 月 22 日袁世凱はジョルダン・

伊集院の来訪を求め、日英両国の意向を打診しようとした。

会談はジョルダンの希望により個別的に行われ、まず袁・ジョルダン会談が 午後 3 時から開かれた。袁は共和制は中国に分裂と滅亡をもたらすと確信して いるので自分は賛成できないとの芝居を打ち、列強の介入と援助を懇願した。

これに対して、ジョルダンは袁の見解に同意を示したが、「どのような体制で あれ、清国人民が望む政体のもとで強固な統一国家を、英国は望んでいる」と 述べ、政体の決定を国会議決に委ねるという唐紹儀の提案を受け容れる可能性 を示唆した250。袁はその提案を皇帝に推薦しようと答えた。唐紹儀の提案を採 用すれば、その結果は共和制と既にわかっていたのであるから、すなわちジョ ルダンはこのような言い方は事実上、共和制採択を勧めたわけであった251

続いて袁・伊集院会談は午後 4 時から開かれた。伊集院は、唐紹儀が立憲君 主制を主張すべき立場にあるにもかかわらず、共和制に賛成していることを厳 しく批判した。ここで袁世凱は巧妙な外交手腕を発揮した。袁世凱は「自分は 共和制に賛成したことはなく、あくまで立憲君主制の断行を期待しているが、

今もっとも憂うべき新事実は、ジョルダン公使の方針は既に変更されたことで ある」と述べた。袁は「万が一日本はイギリスと同じような態度に出るのなら、

自分は任を退くほかはない」として、「日本はあくまでも立憲君主制を援助し てくれるのか」と反問した。これに対して、伊集院は「東洋永遠の平和を確保 できる以上は、あくまでも立憲君主制を援助する」と答えた。さらに袁世凱は

「危機は切迫しているので、日本側から具体的援助を与えよう」と繰り返し要 求した。伊集院は危機が切迫しているのを認め、本国政府に報告した。そして

249 『日本外交文書』(清国事変)、P.443

250 臼井勝美「辛亥革命と日英関係」、『季刊国際政治』(58)、日本国際政治学会、1977、P.40

251 ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010、P.227

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日本政府からの訓令が到着するまで、南北和議の現状を維持するよう袁に勧告 した252

袁世凱の発言の要旨はどうであったろう。もし袁が唐の提案を入れざるを得 なかったとしたら、それは受け入れを勧めたジョルダンジョルダンの責任であ る。その一方、袁は伊集院の前にあくまで立憲君主制に固執する態度を示した ので、もし日本が何らか具体的な援助を与えなければ、清国が君主制を維持で きないのは日本の責任ということになってしまうのであった253。袁世凱は口先 では立憲君主制を叫びながら、本心では共和制の採用により清皇帝を廃し、自 分が中国に君臨しようとしたものであった254

袁世凱の野心に対して伊集院も鈍感ではなかった。彼は内田外相に「袁モ窮 迫ノ余彼ノ性行ニ照ラシ従来ノ態度一変シテ如何ナル挙ニ出ツヘキヤト保証 シ難シ255」と、袁世凱を日本の手元に抑えるために何らかの手段を出す必要が ある。そうしなければ、袁は窮地に追われてどのような行動をするか保障でき ないと報告した。これは袁の信頼を得ようとするために、立憲君主制の堅持か ら共和制の妥協に転換せざるを得なかったことを示唆したものであった256

北京・上海における情勢が激変した 12 月 22 日、内田外相は中国の政体問題 を閣議に上程し、政府の方針転換を問わざるを得なくなった。原敬内相は閣議 の模様を下記のように日記に記述している。

「閣議、内田外相より清国事件を報告し、英国は立憲君主の勧告を捨て共和政治とな るも清人の自由に任すべき内意をも申越したり、依て一応君主立憲の前説を英国政府 に申込ましめ夫れが行はれざるときは日本に於て英国に同意すべしと云ふに付、余は 君主立憲は最良の政体なりとするも、時局を解決するには最良の方法にあらず、何と なれば君主立憲は革命党の同意せざる所にて、上海に於ける談判は不調に終るの外な

252 『日本外交文書』(清国事変)、P.449-452

253 ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010、P.229

254 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.66

255『日本外交文書』(清国事変)、P.452

256 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.66

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ければなり、故に一応英国に申込む事に強て異議なきも、此主義は之を放棄するを得 策とすと述べ、石本陸相初め閣僚異議なく之に決せり257

これは閣議が立憲君主制による中国時局収拾方針を放棄したことを示した。

しかし、日本の外交政策決定においては、日本独特の元老の発言が強かった。

閣議決定は元老の再審査と批准が必要であった。このように、24 日元老会議 が開かれ、中国問題が上程された。内田外相は日記に次のように記している。

「九時桂公を三田に訪ひ清国事件を談ず。午後二時半西園寺候を訪ひ、桂公と会見始 末報告。三時元老会議を開く、六時散会。山県公、桂公、大山公、松方侯、西園寺侯、

山本伯、斉藤海相、石本陸相来会。井上侯不參。258

この三時間にわたる元老会議の討論の模様を知ることはできないが259、元老 会議により審議の結果としては、海軍大将の財部彪は 24 日の日記で下記のよ うに記している。

「日本国政府は何処迄も清国の君主立憲を適良と認め、且つ其成立を援助せんと欲す るものなるも、英国政府が之と同一歩調に出るに非れば我も亦た積極的に之を強行す べきに非ず。已を得ず成行に委せざるを得ずと云うに一決せりと云う260

と、元老会議は内閣決定を否認し、「帝国政府か立憲君主の制を確立するを 以て時局を救済するの最良策と認め261」ると、つまり中国革命に対する立憲君 主制支持による時局収拾策を変更しなかった。当初の方針通り日英同盟に基づ いて、「英国ト協議ヲ進メ其ノ結果ヲ待262」つと、イギリスと同一歩調で再び 協議した上で方針を決定し、イギリスからの返答が来るまでは袁が従来の態度

257 原圭一郎編『原敬日記』第三巻、福村出版、1981、P.198-199

258 内田康哉伝記編纂委員会・鹿島平和研究所編『内田康哉』鹿島研究所出版会、1969、P170

259 同上、P.171

260 坂野潤治編『財部彪日記 : 海軍次官時代』山川出版、1983、P.298

261 『日本外交文書』(清国事変)、P.455

262 同上

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を維持し局面の破裂を防ぐ結論であった。これは日本で最後まで立憲君主制を 主張したのは元老らであったことがはっきりとわかった。

しかし、内田外相が元老会議審議の最終決定を伊集院に伝える前に、24 日 午後袁世凱と慶親王奕劻はジョルダン公使と会見し、国民会議による政体解決 案を唐紹儀に電訓する意を内示し、ジョルダンの意見を尋ねた。これに対して、

ジョルダンは「此際官革妥協商議ヲ進ムル道他ニナシトセハ右ノ電訓ヲ発セラ ルルコトニ対シ異議ナシ263」と、政体解決案を国民会議によって決定すること が平和の基礎として適当であると勧告し、唐紹儀への国会案承認の電報案に賛 成した態度を表した。

袁世凱がここまで恐れているのは日英の共同軍事干渉であった。「ロンドン・

タイムズ」特派員モリソンの 12 月 24 日の日記に「日英が共和政府の樹立を防 ぐために、必要とあれば武力を用いても干渉する準備を進めていると袁世凱は 信じている264」と記している。故に、イギリスの承認を獲得すれば、日本に対 して袁の恐怖はそれほど大きくはなかったであろう。このように、ジョルダン 大使の意思を確認した袁世凱と慶親王奕劻は続いて伊集院大使に同様の意見 を表明し、イギリスの力を借りて伊集院を責めた。袁の電報案に対して、伊集 院は、一両日延期するよう切望した。袁もこの意を了承した265

このような緊迫した情勢の下で、25 日内田外相は駐英山座臨時代理大使に 通じて「立憲君主制ヲ採用シ時局ヲ収拾スルノ最得策……六強国ヨリ無形上ノ 圧迫ヲ加ヘ以テ時局解決ノ途ヲ開クコト可然266」と、イギリス政府と共に共和 制に干渉・圧迫の協力を提案した。

だが、イギリスは始終日本の提案に反対し、同日に政府声明を発表し、公然 と干渉に反対する立場を表明した。内容は下記のように記している。

だが、イギリスは始終日本の提案に反対し、同日に政府声明を発表し、公然 と干渉に反対する立場を表明した。内容は下記のように記している。