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第三章 袁世凱の登場をめぐる日本政府の対応

第一節 日本の対袁外交

三. 伊集院・袁世凱会談

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これを理由として、袁のイギリスに対する依存関係を打ち切り、袁を日本の手 元に抑えようとした88

三. 伊集院・袁世凱会談

このように、11 月 18 日駐清伊集院公使は袁世凱の要請に応じて、第一回目 の袁・伊集院会談が行われた。伊集院公使はまずここまで日本政府の態度につ いて下記のように述べた。

「元来貴国ノ対外関係カ単純ニ日本国ニノミ止マルニ於テハ帝国政府ハ直チニ貴国ニ 援助ヲ与ヘテ鎮圧ノ手段ヲ講スル筈ナレトモ何分諸外国トノ関係最モ複雑セル現下ノ 状態ニ在リテハ我国ノ一拳一動ハ延テ列国干渉ノ端ヲ誘起スルノ虞アルヲ以テ帝国政 府ハ厳ニ中立ノ態度ヲ守リテ他ヨリ干渉ノ余地ナ89」い

と、日本が動乱の機を乗じて中国の政局を干渉するような野心はなく、中立 を守る態度を表明し、袁の対日不信感を解消しようとしたが、これは本音では なかった。伊集院公使は続いて「貴方ニ於テモ徒ニ世評ニ迷ヒテ帝国ノ誠意ヲ 疑フカ如キコトナク必要ノ場合ニハ虚心坦懐心情ヲ打明ケテ助力ヲ求メラル ルコト得策ナルヘシ90」と勧告した。これは曖昧の言葉であったが、実に中国 問題に干渉する意欲を表した。さらに「東洋ノ大局ハ東洋人限リニ於テ之ヲ維 持シ速カニ秩序ヲ回復セシメテ東洋ノ平和ヲ確定センコトニ努ムル91」ことを 表明した。ここで「東洋」を何回も強調するのは、革命に関して欧米の関与を 排除しようとし、恐らく袁とイギリスとの密接な関係を分断しようとしたもの であった92

日本政府の態度を表明した後、伊集院公使は今後の方針について袁に尋ねた。

これに対して袁はまず革命軍について「自分ノ考エニテハ先ツ武昌ノ叛軍ヲ征

88 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』、東方書店、2002、P.42

89 『日本外交文書』(清国事変)、P.378

90 同上、P.378-379

91 同上、P.378

92 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』、東方書店、2002、P.42

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服スルコト第一ノ急務ナリト信スルモ、徒ニ兵力ヲ用フルコトヲ得タルモノニ 非ス」と、兵力に訴えることを否定したが、調和の方法もさしあたりないため、

「引続キ武力ヲ示シ置キ、一方他ニ方策ヲ運ラスノ外莫カルヘシ93」と述べ、

革命軍に対して硬軟両様の戦術をとる意を表した。

また、袁世凱は根本的な時局解決案について「自分ハ飽ク迄君主立憲政体ナ ラサルヘカラストノ主義ヲ有スルモノナルカ一方ニハ革命党等ノ側ニ於テ共 和政治若ハ連邦政治等ヲ出張シ有力ニ反抗ヲ試ミツツアル有様」であると述べ、

政体問題の矛盾がゆえに簡単に政局を収拾することはできないとして、「君主 立憲ト共和連邦等ノ政体ト執レカ当国ニ適合セルモノトオモハルルヤ又欧米 人間ニ執レカ可ナリト批判シ居ルヤ94」と、政体問題に対する伊集院公使の意 見を尋ねた。

この点に対して、伊集院は「君主立憲ニ依リ全国ノ統一ヲ図ルコソ万全ノ策 ナルヘシ」と、君主立憲制に賛成する態度を明言して、「共和若ハ連邦政治ヲ 布カントスルカ如キハ惟フニ国民ノ知識ノ程度ニ適応セサル無謀ノ策ト言フ ノ外ナク結局自滅ヲ招クニ至ルナキヲ保シ難シ95」と、中国国民の知識程度の 不足のため、共和制は中国に相応しくないと厳しく批判した。次に欧米の立場 に対して、「彼等ハ如何ナル政体ニテモ頓着ナク、要ハ自国臣民ノ生命財産ヲ 完全ニ保護セラレ通商貿易ノ発達ノ発達ヲ期シ利権ノ範囲ガ拡張セラルレハ 足レリト云フニ過キサルヘ96」しと忌憚なく答えた。すなわち、伊集院は欧米 諸国は利益問題だけを重視し、革命の事態を観望しつつある次第であるから、

政体問題の成り行きを問わないと批判した。これも恐らく政体問題に対する欧 米諸国の干渉を排除しようとした。

最後に、伊集院は「彼我ノ間ハ務メテ密接ノ関係ヲ保チ若シ何等帝国政府ニ 希望ノ筋等モアリ自然本官ヨリ取次ヲ望マルルトキハ喜ンテ伝達スヘキニ付 随時申出ラレタシ」と積極的に袁に好意を示し、袁が日本側に傾くように説得 した97。袁世凱は日本政府の「善意」に対して、「必ス援助ヲ求ムヘキ時機之レ

93 『日本外交文書』(清国事変)、P.379

94 同上

95 同上、P.379

96 同上

97 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』、東方書店、2002、P.43

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制が支持されているが、北方は立憲君主論が有力であるため、袁自身もジョル ダンのように立憲君主制による時局の収拾を考えていると述べた105

袁は政体問題で何度も変った理由は、ジョルダンの反応を探ったことであっ た。当時、清朝の国庫が極端に欠乏し兵士の給与すら支払えない状況であり、

袁がイギリスからの全面的な援助を希望していたので106、イギリスの意見を無 視できなくて、立憲君主制で時局の収拾も止むを得なかった。

このように、袁は立憲君主制による時局の収拾でイギリスの支持を得たこと を前提として 18 日伊集院公使と会談をした。袁の本心は立憲君主制に対する 日本の理解と支持を希望したことが、伊集院はその情報を知らなかったうち、

袁とイギリスとの密接な関係を分断し、他の勢力を排除して袁を日本の手元に 抑えようとした。これは両者の会談の目的と会談のテーマが完全に食い違って いたことであった107。このような食い違いに対して俞辛焞氏は「日本とイギリ スの外交次元の相違……イギリスは既に袁との信頼関係を築き、袁の行動をコ ントロールする段階に達していあたが、日本と袁との関係はまだ互いに相手に 疑心を抱いている段階であった108」と指摘した。確かに、18 日の会談内容によ る日本の対袁外交はイギリスに遅れていることが窺える。