第三章 袁世凱の登場をめぐる日本政府の対応
第一節 日本の対袁外交
一. 袁世凱の出馬
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第三章 袁世凱の登場をめぐる日本政府の対応
武昌蜂起は、連鎖反応的に楊子江南岸の都市や省に燃え広がり、10 月末ま で革命派が中国本土の約三分の一を手中に入れ、全国 18 省の中に 15 省が清国 政府の支配から独立を宣言した65。これにより清国政府は今までのない政治危 機に陥って、実力者の袁世凱を再起用せざるを得なかった。
第一節 日本の対袁外交
一. 袁世凱の出馬
清国朝廷が袁世凱を起用した内幕、張國淦氏は下記のように記している。
「8 月 19 日(10 月 10 日)、武昌新軍が武装蜂起した。21 日(10 月 12 日)、廕昌は朝 廷の命令により軍を率いて鄂の革命軍を討伐しに行った。23 日(10 月 14 日)、清朝は 袁世凱を湖廣總督として起用し、革命軍の討伐を協力するよう命令した……廕昌はド イツ陸軍留学生であるが、実戦を経験したことがない。故に指揮官と任命されたが、
実に軍隊の指揮は困難であった。66」(筆者訳)
革命が勃発最初、清国政府は陸軍大臣廕昌の第一軍・馮國璋の第二軍を出動 させ、武漢地方の革命軍鎮圧に乗り出したが、軍隊は廕昌の指揮の通り動かな かった67。なぜかというと、「北洋陸軍は袁世凱にしか服従しない68」という原 因であった。新軍として編成・訓練された北洋陸軍は、もと袁世凱の管轄・指
65 ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010、P.135
66 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.108
「8 月 19 日(10 月 10 日),武昌新軍起義。21 日(10 月 12 日),命廕昌督師赴鄂剿辦。23 日
(10 月 14 日),起用袁世凱為湖廣總督,督辦剿辦事宜,相距僅二日,蔭昌督師,在當時已有 點勉強,廕昌雖是德國陸軍學生,未曾經過戰役,授命後編調軍隊,頗覺運調為難。」
67 丁文江『民國軍事近紀』上篇、商務印書館、1926、P.1-4
68 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.108
「其實此項軍隊,均是北洋舊部,人人心目中祇知有『我們袁宮保』」
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揮下にあった。しかし、1908 年西太后と光緒帝が死亡した後、袁は摂政王戴澧 に排斥され、権力を失ってしまって、「回籍養疴」の理由として故郷の河南省 彰德に隠居していた69。だが、袁世凱は北洋陸軍における地位は依然として高 く、軍に絶対的な勢力を持っていた。すなわち、北洋陸軍の兵士が袁の号令し か従わない状況を示した。
また、慶親王奕劻も下記のように袁世凱を推薦した。
「此種非常局面,本人已老,絕對不能承擔,袁有氣魄,北洋軍隊,都是他一手編練,若 令其赴鄂剿辦,必操勝算,否則畏葸遷延,不堪設想。且東交民巷(各国駐清大使館地 域)亦盛傳非袁不能收拾,故本人如此主張。70」
要約すると、慶親王奕劻71は袁世凱が北洋陸軍を率いて必ず革命軍の鎮圧に 勝算があり、欧米各国も袁世凱の出馬を期待していると主張した。これに対し て、摂政王載灃72は反対したが、時局の収拾と列国の期待に応じるために、仕 方なく袁世凱を再起用せざるを得なかった。
欧米諸国は袁世凱を中国における信頼できる政治家だとみなし、高く評価し たのは偶然なことではなかった。義和団事件の際、袁が山東巡撫として外国人 の保護に懸命したことは欧米人に広く知られていた。また、1902 年直隸総督・
北洋大臣の時代に推進した軍事・警察・実業・教育・人事制度等の改革、及び その後に推進した立憲運動は欧米人の高い評価を得ていた73。これらの経験に より、袁世凱は外国勢力が自家防衛のために欠かないといけないことを悟り、
69 丁中江『北洋軍閥史話』1、時英出版、2000、P.168-172
70 張國淦『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.108
71 清朝の最初にして最後の内閣総理大臣。1884 年以降、総理各国事務衙門を管理、1894 年に 慶親王となる。義和団の乱に際し初めはこれを支持したが、八か国連合軍が北京を占領し、対 外妥協派が実権を握ると、李鴻章とともに講和全権大使となり、各国と北京で辛丑和約を締結。
1901 年以降 1911 年まで、新設された外務部総理となり、また立憲君主制への移行のために設 立された督弁政務処の大臣、1903 年には首席軍機大臣などを務め、1911 年には新しい内閣官 制のもとで総理大臣に任命された。辛亥革命後は天津に引きこもり、1916 年病没した。『日本 大百科全書』小学館
72 中国,清末の皇族。宣統帝溥儀の父。宣統帝が即位すると監国摂政王となり,清朝延命を 企図したが,辛亥革命で引退。『大辞林第三版』三省堂
73 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.37
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った。日本政府は袁に接近し、彼を援助することより日本の手元に抑えようと した。これは 10 月 24 日の閣議決定に応じて、中国本部に勢力を扶植する政策 であった。