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第四章 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応

第三節 日本の立憲君主制の堅持

二. 思想抑制の視点

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満州における利権を保護するとして大規模な派兵を主張した。

1911 年 10 月 24 日の閣議決定を振り返って見ると、「満洲ノ現状ヲ永遠ニ持 続スル」という根本方針は既に確立した。日本は日露戦争以来長年経営してき た南満州権益を擁護するために、その具体策は清朝の存続を前提として立憲君 主制を固執したものであった。あたかも袁世凱は清朝の権力頂点に立つので、

日本は袁に接近し、彼を「中国本部の勢力」として扶植しようとした。日本政 府は、統一の共和政府の樹立は南満州の利権維持にとって不利なことだと判断 して、対袁援助により立憲君主制の支持を要求した。これは日本政府が袁世凱 を支持するわけではなく、ただ南満州の権益を確保するために、袁を利用して 立憲君主制の清朝政府を維持させようとしたのみであった。故に、中国に君臨 しようとした袁世凱は日本の期待を裏切って最後まで立憲君主制を支持しな かったのに対して日本は諒解できないのであった。櫻井良樹氏は「多くの日本 人がそうであったが伊集院も、革命を通じて反袁感情を強烈にいだくようにな ったのである。」と指摘した290

二. 思想抑制の視点

日本が立憲君主制を堅持した第二の原因は、イデオロギー的に言えば、君主 立憲制を国家政治体制として実行する日本は隣の中国に民主共和政体の存在 を決して望まないことである。日本政府は明治維新を経て、封建制の代わりに 立憲君主制の国家体制を樹立した。1889 年、「大日本帝国憲法」を発布したが、

この憲法を根幹とする日本の国家体制は、「非民主的」、「専制的」性格を強調 した。大日本帝国憲法について、極端な専制的であることを強調する家永三郎 氏は次のように指摘した。

「その制定手続きにおいてこの憲法は……僅少の専制官僚とドイツ人との合作に成る、

国民大衆の意志を全く無視して制定された憲法というだけではなく、その内容は……

明治十年代の国民の最大公約数的憲法構想といちじるしくかけはなれた、当時におい

290 桜井良樹『辛亥革命と日本政治の変動』岩波書店、2009、P.38

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ては少数例外の君権主義の線をさらに極端にまで推し進めた非民主的な憲法であった のである。291

明治維新によって成立した新政府は、反人民的な藩閥専制政府で、立憲政治・

議会制度の設立については消極的姿勢を取った。しかし、専制政治の打破を目 指す自由民権運動の高まりを無視しえなくなった明治絶対主義政府は、一方で 止むを得なく憲法の制定と議会の設立を認めたが、同時に他方では民権運動を 厳しく弾圧し、自らの主導権でプロシア流の君権主義の原理に基づく憲法の設 定に着手した。その結果として成立したのは「大日本帝国憲法」であった。憲 法の第一章「天皇」の条文を見てみると292

「第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲 法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル」

「第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」

上記に述べたように第十、十一条文の通り、天皇の絶対的大権のもとで行政 府や軍部が強大な権限を掌握したが、それに反して、国民の権利と自由は厳し く抑えられ、国民の代表機関たるべき議会の権限も極めて限られたものでしか なかった。すなわち、日本立憲制の形成・展開過程における明治政府の「専制 性」性格と対照的に、自由民権派の「革命的」或いは「民主的」性格が力説さ れ、両者の対立的側面がいちじるしく強調されている293

辛亥革命期の日本内閣総理大臣西園寺公望、また革命期に対中政策を左右す る元老山県有朋は上述した君権主義を中心としていた。西園寺公望は、自分と 山県有朋の政治思想について次のように記している。

291 家永三郎・松永昌三・江村栄一編『明治前期の憲法構想』福村出版、1987、P.4-5

292 『大日本帝国憲法-国立国会図書館』、http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j02.html、查閱日 期 2015/7/6

293 鳥海靖『日本近代史講義-明治立憲制の形成とその理念』東京大学出版会、1988、P.4

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「山県は俗にいう右傾294、わたしは左傾295、左傾といっても共和政治の思想ではない。

皇室中心で、自由、安楽な気分で、国民を政治に進ませたいというのだが、皇室を中心 として政治を運営することには山県の右も、わたしの左も一致していた。296

このように、保守的、絶対的天皇主義を有する元老山県有朋は、隣国におけ る君主制の崩壊と共和制の出現が日本の国体保持に及ぼす影響を強く懸念し た理由が見える。そのため、山県有朋は辛亥革命を極めて重視し、次のように 指摘した。

「支那は革命易姓の国体であって固より我が万世一系の国体とは同じからぬことは勿 論だが、清朝は帝制の下に二百余年継続したる国家である。之をして世界の進運に応 じて、その政体を改造し、立憲君主政冶を布き、我と共に両国提携の実を挙げしむる ことは、東邦平和も関鑰であらねばならぬ。清朝にして一朝滅亡し、共和体制が組織 されたりとするも、支那が果して能く統一の目的を達することを得べきや否やは、疑 問であらねばならぬ。支那の革命は、我が国是政策と最も密接なる関係がある。297

山県有朋は中国の皇帝制度と日本の万世一系の天皇制は同じではないもの だと認識しているが、中国における立憲君主体制の樹立を支持した。彼は立憲 君主制を強調すると同時に、民主共和制の下で統一中国を達することができる かどうかに対して疑っていた。さらに、1910 年大逆事件以来298、山県有朋は労 働運動と社会主義に極度の不安を抱いていた。山県有朋は共和政治が伝染する ことを恐れて閣議の決定を反してまで中国における立憲君主制の維持に努力 を傾けた299。「民主的」性格を強調する辛亥革命に対して、山県有朋は次のよ うに批判した。

294 保守的・国粋主義的になること。右翼的な傾向を強くすること。『大辞林第三版』三省堂

295 社会主義・共産主義思想にかたむくこと。『大辞林第三版』三省堂

296 木村毅編『西園寺公望』ゆまに書房、2005、P.153

297 徳富蘇峰編述『公爵山縣有朋傳』下、原書房、1969、P.779

298 1910 年 5 月、幸徳秋水ら多数の社会主義者・無政府主義者が明治天皇暗殺を計画したとし て、大逆罪のかどで検挙・処刑された事件。検挙者は全国で数百名にのぼり、翌年 1 月、24 名 に死刑が宣告され 12 名が処刑された。幸徳秋水事件。『大辞林第三版』三省堂出版

299 藤村道生・日本歷史学会編集『山縣有朋』吉川弘文館、1986、P.239

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「支那本土之民、憤滿州人壓制、所在蜂起、州郡大亂、清國政府、不知所出。而其極、

竟至見政體之變。餘弊殆不測矣。國于近鄰者。可不懼哉。可不戒哉。300

山県有朋は中国における政体変更を、日本に百害あって一利なしだと厳しく 批判した。中国の隣国たる日本は政体変更による悪い影響を注意すべきだと考 えていた。

また、中国現地で革命に直面する日本駐清伊集院公使は、時局収拾について、

君主立憲説を固持して譲らなかった。1912 年 1 月 21 日袁世凱を訪問した際 に、次のように述べた。

「本官ニ於テハ飽迄君主立憲制ノ目的ヲ徹底シ之ニ因リテ事局問題ノ解決ヲ告ケシム ルコソ万全ノ策ナリト確信スル外他意アルニアラス(中略)三百年来ノ歴史ニ鑑ミ将 又国民現在ノ程度ニ照シ仮令有名無実ナリト雖モ之ヲ存続シテ君主立憲主義国タラシ メテコソ内治外交執レノ点ニ向ヒテモ威厳ト実力ヲ保チ得ヘキ道理ニシテ徒ニ血気ニ 逸リ毫モ政治ノ経験ヲ有セスル雑輩等ニ政府ヲ組織セシメ統治権ノ運用ヲ委スルカ如 キハ危険ノ最モ甚シキモノニシテ忽チ内治外交ノ失敗ヲ招クニ至ルヘキヤ必然ナリ301

伊集院は中国に立憲君主制を採用するこそ最も適切な打開策だと考えてい たと対照的に、政治的な経験を持ってない革命軍等のような人に統治権を与え、

政府を組織させれば、内政上、外交上の失敗を招くほかないと悲観した。した がって、伊集院は山県有朋と同じように、中国において共和制を取るように軽 率な行動をすれば中国に全面的失敗が生じることを確信した。

さらに、伊集院は山県有朋と同じように共和民主制が日本の思想界に悪い影 響を与えることを恐れていて、次のように指摘した。

「万一貴国(中国)ガ共和国トナルガ如キコトアルニ於テハ我国民ノ被ムル思想上ノ 影響決シテ尠カラス此ノ点ニ於テモ能フヘキ限リ君主立憲主義ヲ援助シ其ノ目的ヲ達

「万一貴国(中国)ガ共和国トナルガ如キコトアルニ於テハ我国民ノ被ムル思想上ノ 影響決シテ尠カラス此ノ点ニ於テモ能フヘキ限リ君主立憲主義ヲ援助シ其ノ目的ヲ達