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第三章 袁世凱の登場をめぐる日本政府の対応

第二節 日本の対英外交

一. 日英共同干渉の申込み

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第二節 日本の対英外交

一. 日英共同干渉の申込み

11 月 28 日日本政府は廟議の決定と天皇の裁可を経て、清国の時局収拾に対 する方針が決められた。その過程について内田外相は日記に次のように記して いる。

「九時桂公、九時半松方候、十時過山本伯、十一時井上候を訪い、清国事件に関し山座 行大方針に関する電稟案に賛成を求め、十二時過参閣、閣員一同の同意を得て十二時 四十分総理同行御座所に至り御裁可を仰ぎ一時過帰省。115

当日(28 日)、内田外相は在英山座(円次郎)公使に訓令を発し、山座を通 してイギリス政府に中国の時局収拾方針として重大な提案を申し入れた。その 提案とは「帝国政府ハ今日ヲ以テ同国ニ重大ナル利害ヲ有スル諸国ノ最早拱手 傍観スルヲ得サル時期ニ達シタルモノト認メ是等諸国ニ於テ速カニ其ノ利益 ヲ擁護スルタメ適当ノ手段ヲ取ルヲ以テ必要避クヘカラサルノ措置ト思考ス ルニ至レリ116」として、同じ中国に利益を有する同盟国のイギリスに呼びかけ、

共に中国の革命に対し干渉行動を促そうとしたものであった。干渉の理由は次 のように記している。

「満州朝廷ノ威力ハ殆ト地ニ墜チ政府当局ハ時難ヲ救フノ実力ト誠意ヲ欠キ反乱ハ漸 次各地ニ蔓延」する

「時局ヲ救済スヘシト期待セラレタル袁世凱モ入京ノ後画策ノミルヘキモノナク首都 形勢スラ既ニ険悪トナリ各国ヲシテ増兵ノ必要ヲ認メシムルカ如キ状況トナル117

内田外相は形勢を分析することによって、現下清国政府において独力で秩序

115 内田康哉伝記編纂委員会・鹿島平和研究所編『内田康哉』鹿島研究所出版会、1969、P160

116 『日本外交文書』(清国事変)、P.384

117 同上、P.383

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を回復することは期待できないと指摘した。更に袁世凱の実力を疑い、時局収 拾の重任を袁に任せることはできないとして、袁に対する不信感を表した。続 いて、

「清帝国ノ大半ヲ風靡シ其勢力最旺盛ナルノ観アル革命軍モ其実力ハ案外薄弱ニシテ 官軍ノ為スナキ為僅カニ虚勢ヲ維持スルニ過キサルヲ実際ノ状況ナリトス」

「今後動乱ニシテ久シキニ亘ルトキハ通商貿易ノ之カ為阻害セラルルハモチロントシ 或ハ遂ニ排外的傾ヲ起生シ義和団事件ノ当時ヲ再現スルニアタルヤモ難計118

内田外相は、今革命軍の勢力はまだ脆弱であり干渉の好機に当たると主張し、

このまま時局を放置すれば通商貿易の妨害となり、義和団のような動乱が起き る可能性もないとは言えないとイギリスを説得した。

しかし、11 月 28 日在南京鈴木領事から、27 日革命軍の大敗によって漢陽は 官軍に攻略されたという電報が来た119。官革の力関係が変化したため、内田外 相は 29 日山座臨時代理大使に打電し、漢陽陥落の結果によってイギリス外務 大臣との面会を見合わせるよう訓令した120。30 日内田外相は再び山座臨時代 理大使に打電し、28 日の方針内容の「今ヤ清国政府ニ於テ独立以テ秩序ヲ回 復スヘキ望ハ殆ト是ナキニ至レリ」を「今回官軍漢陽ヲ回復セルハ一時革命軍 ノ気勢ヲ殺キタルコト疑ナシト雖直ニ之ヲ以テ大勢ヲ左右スルニ至ルモノト ナスヲ得ス今後官軍ニシテ幸イニ武漢ノ地ヲ鎮圧スルヲ得タリトスルモ該地 ヲ退散セル革命党カ地方ニ於テ暴動ヲ継続スルハ四川ノ事例ノ如クナルヘク 清国政府ノ独立以テ秩序ヲ回復スルハ殆ント其望ナシト云フヘシ121」と改めた。

内田外相は官軍が漢陽を奪還したが、各地の暴動が続く恐れがあり、清国の独 力で秩序を回復することは不可能だと断言した。また「袁世凱ノ勢力増進ニ対 スル反動的騒乱ノ起生スルコトナキヲ保シ難キ122」と袁世凱に対する反乱が起 きる可能性があり、彼による時局の収拾を期待しないことを示した。すなわち、

118 同上、P.383-384

119 同上、P.30-31

120 同上、P.387

121 同上、P.388

122 同上

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漢陽陥落にもかかわらずイギリスへ対中干渉の協力を要望した。

12 月 1 日山座臨時代理大使はイギリスのグレー外相と面会し、上記の 28 日 の訓令を申し入れた。グレーはこの提案を非常に重視し「武力の干渉を意味す る」として受け取って、「日本国ノ意嚮ハ武力ヲ用ユルニ非サルカ123」と山座 に質問した後、山座は 28 日訓令の後半の訳文をグレーに手渡した。これは内 田外相の外交手段として「帝国政府ハ先ツ先方ノ意見ヲ知リテ後我意見ヲ先方 ニ通スルヲ得策ナリトスル124」と、山座に指示したものであった。

後半の訓令内容に、内田外相は目下清国に於いて根本的な論議のテーマとは 君主制と共和制との論争であることを次のように指摘した。

「帝国政府ノ所見ヲ以テスレハ今日ニ應スヘキ最良ノ方策ハ共和説ノ如キ実地ニ疎キ 空論ヲ放棄スルト同時ニ満州朝廷専権ノ弊ヲ去リ大ニ漢人ノ権利ヲ重ンシ満州朝廷名 義上ノ統治ノ下ニ実際漢人ニ依レル政治ヲ行フ外ニナカルヘク125

と、清国の国情を考えれば到底共和制の実行は困難であり、共和制を厳しく 批判し、清国皇帝統治の下で漢人政府を中心として混乱している政治を改造す べきと明言した。これを実現するために、方法としてはまず日本とイギリスが 革命に介入して君主制により政局収拾を革命軍側に納得させることであった。

干渉策は次のように提案した。

「両者ヲシテ互譲妥協先ツ干戈ヲ収メシムルコトト為シ将来ノ保障ニ至リテハ清国ニ 重大ナル利害ヲ有スル諸国間ノ協調ニ拠リ朝廷ノ存立ト漢人ノ地位ノ尊重ヲ計ルコト ト為スヲ得策ナリ126

と、内田外相は列国の調停によって、清朝を存続させたが漢人を中心として 時局を収拾する構想を示した。この日英両国の主導の下で清朝の存続を前提と して中国の政体問題を解決する構想に対して、臼井勝美氏は干渉の強行は事実

123 同上

124 同上、P.384

125 同上、P.385

126 同上

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上清朝に対する強力な支援措置であったが、反面革命軍の方からの反発を招致 することは必然的であったと指摘した127

グレー外相は最初から「従来英国政府ノ方針ハ官革両党ヲシテ自ラ勝敗ヲ決 セシムルニ在リ故ニ陸兵派遣ノ請求有之ニ拘ハラス総テ拒絶128」すると、干渉 に対する反対の態度を示した。原因としては「排外運動ヲ挑発スルカ如キ行動 ハ努メテ之ヲ迴避シ居リタル次第ナリ129」と、排外運動の発生を避けようとし たものであった。そのため、前半の訓令を読んだグレー外相は日本は兵力を用 いて干渉する意欲あるかと強い疑問を持っていた。だが、グレー外相は後半の 電文を読み取って日本の好意的な調停を理解して「大ニ安堵シタ130」が、二、

三の同僚と相談した上回答できると返事した。また、グレー外相は「且ツ最近 駐清英国公使ヨリノ電報ニ漢口休戦条約ニ英国総領事証人トシテ記名セシム ヘク双方ヨリ依頼アリ在清英国公使ハ請訓(不明 )許可ヲ与エタリト報シ来リ タリ」と言って、まさに「時局変転ノ一兆候」であり、「或ハ他ノ調停ナクト モ両党間ニ相談纏マルヘキ望ミ131」があると、時局の発展を楽観視した。

グレー外相の回答に対して、山座代理大使は官革間の休戦は単に武漢地域に 止まるだけであり時局全般の解決は容易ではないと力説し、「事体此ノ如クナ ルニ付此儘放棄セハ遂ニ収拾スルニ由ナク列国ノ利益ハ重大ナル危険ニ陥ル ヘキコト明瞭ナルニ付速ニ両党ヲシテ妥協(?) 以テ秩序ヲ恢復セシムル132」 と、このまま放置すれば時局を収拾できない恐れがあると警告した。グレー外 相は山座代理大使の警告を了承したが、日本が提出した干渉策に応ずる態度を 示さなかった。

127 臼井勝美「辛亥革命と日英関係」、『季刊国際政治』(58)、日本国際政治学会、1977、P.38

128 『日本外交文書』(清国事変)、P.388

129 同上

130 同上、P.389

131 同上

132 同上

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