• 沒有找到結果。

第四章 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応

第一節 イギリスと南北和議

三. 南北和議から日本の排除

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

44

(四)休戦期間中、兵力、要塞等軍事的増強の禁止

(五)休戦条項に証人として英総領事が署名

英総領事が証人として休戦協定に署名するというのは重要の提案であった が、ジョルダン公使の要請を 12 月 1 日グレー外相は直に承認した185。このよ うに、12 月 3 日漢口代理総領事ゴッフェが証人としてサインした三日間の休 戦協定が成立し、期間は 12 月 6 日午前六時までであった186。その後、袁世凱 はジョルダン公使・唐紹儀と共に長期的な休戦協約を起草した。内容としては、

さらに停戦の十五日間延長し、唐紹儀を袁世凱の代表として派遣し、黎元洪都 督或いは他の革命側代表と時局について協議をするなどであった187。袁世凱は 四日この内容を馮國璋に打電し、ジョルダンも漢口代理総領事ゴッフェに電報 を発し、積極的に斡旋をするよう命令した188。12 月 9 日ゴッフェの斡旋によ り停戦が十五日間延長され、この停戦はその後の南北和議もつながって行った

189。しかもこの日清朝側の講和代表として全権大臣唐紹儀等一行三十三名はす でに特別列車で北京を出発して漢口に赴いて、12 月 11 日漢口に到着したので あった190。この時期の英中外交について、俞辛焞氏は「イギリスはこうして官 革停戦・南北際和議における外交上のイニシアチブを掌握し、袁世凱と中国の 時局を左右する基礎を固めたのである」と指摘した191。停戦・和議に通じて、

イギリスは南方における権益を保護し、イギリスに依存した袁世凱は政治的な 野望を実現し、両者の外交方針は相応したものであった。故に、双方の関係は 一層密接に結ばれたのであった。

三. 南北和議から日本の排除

一方、この時期における日中外交は対照的であり、イギリス斡旋の官革休戦 交渉は日本に秘して進行していた。日本政府及び伊集院外相がこの協商を始め

185 胡濱譯『英國藍皮書有關辛亥革命資料選譯』上、中華書局、1984、P.103

186 同上、P.105

187 張國凎『辛亥革命史料』龍門聯合書局、1958、P.285-286

188 胡濱譯『英國藍皮書有關辛亥革命資料選譯』上、中華書局、1984、P.133

189 同上、P.208

190 同上

191 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.52

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

45

て知ったのは 11 月 28 日であり、駐漢口の松村総領事は内田外相に電報を発 し、袁の要請によりイギリス公使が調停の労をとっていることを報告した192。 30 日朝第三艦隊川島(令次郎)司令官の電信により、さらに停戦交渉がすでに 行われていることを知った内田外相は大いに驚き、早速伊集院公使に訓令して

「今日此種重要事件ニ関シ在清英国公使ヨリ貴官ニ何等ノ打合ナキハ甚タ遺 憾ノ次第193」と調停についてジョルダン公使より打合せがない遺憾の意を表し、

「至急同公使ニ会見シテ本件ノ消息ヲ内問セラレ且此種問題ニ付テハ今後日 英両国常ニ協調ヲ維持スルノ肝要ナルコト194」と日英協調の必要を申し入れる よう訓令した。

これに対して伊集院はジョルダンに問いただしたが、ジョルダンは「漢口ノ イギリス租界ニ一時非常ニ飛弾ガアリ、危険ト損害ガ少ナカラズ、ヨッテ漢口 ノ英国総領事ヲ推シテ黎元洪ニ休戦ヲ交渉サセタノハ起因デアッタ。ソシテ黎 元洪カラ十五日間ノ休戦ヲ袁世凱ニ取次ギヲ依頼サレタノデ、自分ハコレヲ袁 世凱ニ取リ次イダノデアッタ195。」と曖昧なことを回答した。伊集院公使は依 然として停戦交渉から排除され、情報の収集すらできなかった。

12 月 3 日内田外相は川島司令官の電信により三日間の停戦協定が締結され ることを知り、早速伊集院公使に打電しこの情報を伝え、袁世凱に「此種事項 ニ付テハ今後出先キ清国官憲ヨリ川島司令官ニ打合196」をするよう要求すると 訓令した。また、内田外相は伊集院公使に「袁世凱ハ最近在清英国公使ニ対シ 時局ヲ救済センカ為ニハ摂政王ヲ廃位トナスノ必要益々明瞭トナレルヲ以テ 唐紹儀ヲ南方ニ派遣シ右ニ対スル該地方ノ意向ヲ確メムル筈197」と電訓し、袁 世凱の動向について何かの情報があれば至急電報で報告するよう要求した。上

192 『日本外交文書』(清国事変)、P.386

193 同上、P.387

194 同上

195 国立公文書館:アジア歴史資料センター、(極秘)明治 44 年 11 月 26 日~明治 44 年 12 月 4 日清国事変関係外務報告第 6 綴(7)、http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto、查閱日期 2015/5/15

196 『日本外交文書』(清国事変)、P.390

197 同上、P.393

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

47

また、伊集院公使はジョルダン公使と自分の不調について、「何事ニモアレ 煮エ切ラス兎角小心ニ過タル傾アル性格205」と、ジョルダンの神経質で気弱な 性格こそ原因になると述べたが、実にそうではなかったであろう。ジョルダン は、袁世凱と協力して休戦工作しているという事実を伊集院に隠した理由は、

この工作はもし伊集院に知られたら休戦準備とそれに続く官革平和会議の設 定を邪魔される懸念したものであった。そのため、ジョルダンは平和会議の準 備が整うまでは、伊集院を蚊帳の外におきたかったようである206

中国の時局収拾においてイギリスの地位に追いつくため、12 月 12 日伊集院 公使は袁世凱を訪問し、「貴官(袁世凱)ノ標榜セル君主立憲ノ主義ヲ援助シ 此目的ヲ遂行シテ速ニ時局ヲ平定セシメムコトヲ希望」する意を伝えながら、

「摂政王退位ノ如キ重大ノ事項ニ至リテハ豫テ噂ハ耳ニシ居リシモ愈々上諭 ヲ発セラルル迄ハ事ノ真相ヲ承知シ居ラサリシ位ニテ此点ニ付テハ政府ニ於 テモ或ハ遺憾ニ思ヒ居ル事ナルヘシ存ス207」と中国時局に関して重大なことに ついて日本が排除されたことを袁に不満の意を表した。

伊集院公使の非難に対して、袁世凱は休戦の斡旋をジョルダン公使に依頼し た件について、自分は日本に一任するのが適当と最初は考えたが、「何分従来 ノ行懸上日本ニ対スル清国人ノ感情兎角面白カラサル次第ナルヲ以テ若シ此 ノ際日本側ニ照会ヲ求ムルニ於テハ或イハ各方面ニ故障ヲ生シ結局出来得ヘ キコトモ出来サル破目トナリ且又諸外国思惑モ如何ト気遣ハレタル208」と弁明 し、結局日清両国の利益のために南北停戦に対しイギリスに依存せざる得なか った理由に対し日本の了解を求めた。また、政体問題について、袁世凱は「自 分ハ飽迄君主立憲ヲ主張スルモノニシテ共和政治ノ如キ現ニ南清各地ノ実況 ニ徴スルモ四分五裂到底実行シ得ヘキモノト云ウヲ得ス彼等ト雖トモ恐ク既 ニ其不可能ナルヲ覚リ居ルヘキ筈ナリ209」と、官革平和会議で立憲君主制を支 持する態度を示した。

205 『日本外交文書』(清国事変)、P.397

206 ウッドハウス暎子『辛亥革命と G.E.モリソン』東洋経済新報社、2010、P.186-188

207 『日本外交文書』(清国事変)、P.406

208 同上、P.407

209 同上、P.406

‧ 國

立 政 治 大 學

N a tio na

l C h engchi U ni ve rs it y

48

袁の弁解に対して、伊集院は「今後ハ此種重要事項ニ付英国公使ニ相談セラ ルル時ハ必ス其ノ都度本官ニモ同様打明ケラレ貴我連絡ヲ保チ得ル様特ニ注 意アラムコトヲ望ム210」と要求した。また、伊集院は平和会議について、「唐 紹儀ノ任務ニシテ若シ不成効ニ終ルトキハ結果如何ナル方針ニ出テラルル決 心ナルヤ」と切り込んだ。伊集院の疑問に対して、袁は「最後ハ各国ノ調停ヲ 煩ス覚悟ナリ其ノ場合ニハ先ツ第一ニ英国ノ意見ヲ求メ続イテ貴国ニモ御相 談致ス積リ211」と意見を述べ、その後に諸外国と相談すべきだと答えた。これ は依然としてイギリス優先主義であり、次に日本、諸列強を調停に介入させよ うとするものであった。

この答えに対して、伊集院は賛成するはずがなくて、「如何ナル場合ニ於テ モ貴国ヨリ調停ヲ望マルル際ニハ先ツ日英両国公使マテ之ヲ打明ケ直接他ノ 諸外国ニ申出テラルルコトハ全然差控ヘラルル方可然」と袁に要求した。これ はイギリスと同等の地位を獲得しようとしたものであった。また、伊集院は「飽 迄着実ノ態度ヲ以テ我政府ニ信頼シ我政府ヲ十分安心セシムル誠意ヲ表彰セ ラルルコト肝要ナリ212」と袁に再三告げた。しかし、袁世凱は伊集院の話に対 して表で「所説ヲ首肯セルモノノ如ク見受ケラルルモ尚充分腑ニ落チサル様ノ 態度ヲ」示したが、伊集院は袁世凱を疑って「果シテ約ノ如ク実行スルヤ否ヤ ハ之ヲ従来ノ成行ニ鑑ミ聊ク疑ナキ能ハサル213」と考えていた。

なぜ袁世凱はイギリスに依存しようとしたのであろうか、兪辛焞氏は次のよ うに三つの理由を挙げた214

(一)イギリスはヨーロッパの国際関係の緊張化によりアジアを顧みる暇が ないので、中国の既得権益の保護に重点を置き、その外交は相対的に防 衛的な姿勢を取った。その一方、日本は隣国として出兵・干渉を企み、

(一)イギリスはヨーロッパの国際関係の緊張化によりアジアを顧みる暇が ないので、中国の既得権益の保護に重点を置き、その外交は相対的に防 衛的な姿勢を取った。その一方、日本は隣国として出兵・干渉を企み、