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第四章 南北和議と政体問題をめぐる日本の対応

第三節 日本の立憲君主制の堅持

一. 満州権益擁護の視点

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第三節 日本の立憲君主制の堅持

南北和議期における日本の対中外交において、内田外相と伊集院公使が立憲 君主制の堅持のためイギリスと袁世凱、革命派に働きかけた外交努力は、何ら の成果を収めることはできず、逆に政体問題をめぐって日本は孤立状態に陥っ た。日本政府の立憲君主制に対する堅持は辛亥革命期における外交失敗の主因 とも言える。

日本政府はなぜ立憲君主制に固執したのかについて、南満州における権益確 保とイデオロギー的思想影響に対する不安、両方面から検討しようと思う。

一. 満州権益擁護の視点

第一は、日本の南満州に保有する権益を擁護するために、立憲君主制の清朝 政府の永遠存続を期待していること。

日清・日露戦争以後、日本は極東における帝国主義勢力として発展しつつあ った。特に日露戦争後のポーツマス条約によって、ロシアから遼東半島租借権 と南満州鉄道に関する諸権益の譲渡を受けることになった275。そして、1905 年 12 月日本・清国の間に「満州ニ関スル条約276」が結ばれ、ポーツマス条約第五 条、第六条の内容によってロシアから日本に譲渡された満州利権を清国政府に 承諾させたとともに、付属協定において満州における新たな開市、安奉鉄道経 営権の取得、満鉄並行線の敷設禁止など諸権益を日本に対し認めさせた277。ま た、1906 年の南満州鉄道株式会社創設278、1910 年に南満州を「特殊利益」地 域として日露両国で共同して守ることを約束した「第二次日露協約279」によっ て補完された。

このように、日本政府は南満州における権益拡大に積極的な態度を取る決意

275 同註 5

276 『国立公文書館デジタルアーカイブ』

http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/Detail_F0000000000000020971、查閱日期:2015/7/9

277 大畑篤四郎「辛亥革命と日本の対応-権益擁護を中心として-」『日本歴史』 (414)、吉川弘文 館、1982、P.57-58

278 同註 6

279 同註 8

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が窺える。南満州に対する支配権を確実した後、満州方面における利権の擁護、

増進をはかることが、日本にとって重要な課題であった。山県有朋は 1911 年 6 月の意見書において「是レ(満州)大陸ニ扶植シタル我帝国主義ノ主権擁護 ニ最モ緊要ナル事ト信ス280」と日本にとって満州の重要性を強調した。

しかして、辛亥革命が勃発した後、内田外相は対中外交の大方針について「満 州ハ永遠ニ保持スルノ覚悟ナル事281」と、日本の南満州における権益確保を覚 悟なることだと位置づけた。これは本論の第二章で既に触れたように、10 月 24 日の閣議決定で、満州問題について「関東州租借年限の延長並びに鉄道に 関する諸問題」の解決を対中政策の根本方針として設定された。

だが、日本政府は「満州ニ関スル条約」により清朝政府の了承に基づいて、

満州における権益を獲得したものであった。君主制がたとえ形式的なものであ るにせよ日本の力で維持されれば、清朝の故地である満州において日本は従来 以上に有利な地歩を占めることができるわけである。故に、日本にとって満州 支配を恆久化するためには清朝の形式を必要としたといえよう282

逆に、革命の結果共和制による鞏固な統一国家の出現は、満州における主権・

利権回収運動を活発化させ、日本の非合理的な軍事的政治支配を一層困難なも のにすることが予想される。故に、日本政府は革命初期に清朝政府を支援した ことにより、革命軍蜂起を鎮圧という政治目的のほかに、清朝政府に満州にお ける日本の権益と地位を尊重させる目的であった283

駐清伊集院公使は革命勃発の最初、「満朝の運命も既に時機至れるか」、「他 力を借らざれは救済の途なき284」と予言した。この「他力」は言うまでもなく 日本のことを指していた。彼は清国三分策を考え出して、この形勢を利用して 中清武昌、南清広東に独立の二ヶ国を樹立させ、北清(北京中央政府)は現朝 廷の下に統治を続けさせる策略であった285。伊集院は特に「北清ノ一角ニ清朝

280 大山梓編『山県有朋意見書』原書房、1966、P.333

281 坂野潤治編『財部彪日記 : 海軍次官時代』山川出版、1983、P.275

282 由井正臣「辛亥革命と日本の対応」『歴史学研究』344、歴史学研究会、1969、P.5

283 俞辛焞『辛亥革命期の中日外交史研究』東方書店、2002、P.20

284 櫻井良樹、廣瀨順皓、尚友俱樂部編『伊集院彦吉関係文書』辛亥革命、芙蓉書房、1996、

P.18

285 『日本外交文書』(清国事変)、P.149

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ヲ存シ永ク漢人ト対峙サシムルハ帝国ノ為得策ナリ」と考えていた286。清国の 分割・対峙状況を作りだして、内乱の深刻化によって列国干渉の機会が生じれ ば、終局には南満州における日本の影響力を高めようとしていたといえよう。

すなわち、伊集院は少なくとも「満州にては革命軍をして一指だも染めしめざ る覚悟」が必要なこと、つまり満州地域については現状維持をはかることによ って日本の影響力を確保するために、伊集院は北方における立憲君主政体を固 執したものであった287

また、伊集院は民主共和制政府による日本の満州利権に不利なることを懸念 して、立憲君主制を支持する理由を次のように述べた。

「今回ノ事変ニ際シ南北ニ亘リ勢力実権ヲ有スルモノハ大体ニ於テ共和主義ノ広東派 ニシテ仮令袁世凱ノ威望能ク統一政府ヲ主宰シ得ヘシトスルモ新政府ノ実権ハ多ク広 東人士ノ手ニ帰スヘク其結果ハ必我ニ不利ナルヘキ因リ此ノ一派ノ勢力ヲ抑制センカ 為ニ本使ハ殊更ニ共和ニ反対ノ意見288

伊集院は、共和政府の中に実権を手に入れる広東派は日本にとって不利なこ とだと判断したので、始終共和制に反対するとしたものであった。山県有朋は さらに南満州の権益を保護するために、明治 1912 年 1 月の「対清攻略概要」

意見書において派兵するまで主張した。内容は次の通りである。

「我政府ハ満州租借地及ヒ鉄道保護ノ関係上一般秩序ノ紊亂ヲ豫防シ並ニ人民ノ生命 財産豫防ヲ安固ナラシムル為メ満州ニ出兵ヲ要スル適当ノ時期ト判断セサル可ラス

(一師団又ハ二師)289

と、山県有朋は清朝による中国統治継続が不可能な情勢だと判断して、日本 の影響力の強い中国東北部に革命軍が及ばないよう、清王朝を維持させて、南

286 同上、P.377-378

287 櫻井良樹・廣瀨順皓・尚友俱樂部編『伊集院彦吉関係文書』辛亥革命、芙蓉書房、1996、

P.22-23

288 『日本外交文書』(清国事変)、P.568

289 大山梓編『山県有朋意見書』原書房、1966、P.337

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満州における利権を保護するとして大規模な派兵を主張した。

1911 年 10 月 24 日の閣議決定を振り返って見ると、「満洲ノ現状ヲ永遠ニ持 続スル」という根本方針は既に確立した。日本は日露戦争以来長年経営してき た南満州権益を擁護するために、その具体策は清朝の存続を前提として立憲君 主制を固執したものであった。あたかも袁世凱は清朝の権力頂点に立つので、

日本は袁に接近し、彼を「中国本部の勢力」として扶植しようとした。日本政 府は、統一の共和政府の樹立は南満州の利権維持にとって不利なことだと判断 して、対袁援助により立憲君主制の支持を要求した。これは日本政府が袁世凱 を支持するわけではなく、ただ南満州の権益を確保するために、袁を利用して 立憲君主制の清朝政府を維持させようとしたのみであった。故に、中国に君臨 しようとした袁世凱は日本の期待を裏切って最後まで立憲君主制を支持しな かったのに対して日本は諒解できないのであった。櫻井良樹氏は「多くの日本 人がそうであったが伊集院も、革命を通じて反袁感情を強烈にいだくようにな ったのである。」と指摘した290