第二章 神道の形成および神仏習合
第三節 神仏習合の中の神道
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基礎だと言われている。
以上述べたように、この民族宗教を「古神道」または「原始神道」と称呼し ている。その源流を明確に確かめることはまだできていない状態であり、固有 信仰の最も原始的な様態というアニミズムである。その起源の立証は縄文時代 の資料によるものだと考えられる。
弥生時代に入ると農耕時代が開始され、農耕の儀礼やシャーマニズムが伝来 し、もともと存在していた神の観念と儀礼に大きな影響を及んでいたという。
農耕儀礼は古来の祭祀の基本形式として継承され、シャーマニズムは、神の降 臨の思想や憑依・託宣の風習を固有信仰の中に定着させたという。ついで古墳 時代前期には農業技術が発達し、生産力が飛躍的に増大した結果、階級社会も 成熟をとげ、統一国家が形成された。また、農業社会が安定した世代を重ねる と、耕地や灌漑施設など、先祖の恩恵が強く意識されるようになる。原始神道 を特色づける祖先祭祀(氏神信仰28)は、この時期、このような条件のもとに 急速に成長したものである。
第三節 神仏習合の中の神道
現在では、部分的な神社でも、無病息災などを願う護摩焚き神事を開催して いる。護摩焚きは一般的に寺院で行われるもののはずであるが、神仏習合の名 残りで行われている。神仏習合の影響は、神仏分離ののちにも特定のところで 明らかに表現されていることが、興味深いことである。
明治元年(一八六八)三月十七日「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」という法令で、
明治政府は従来の仏教政策を否定し、神道国教化政策が進んでいた。その過程
28.主に氏人がまつる、氏族と関係の深い神や氏族の祖先神などである。また、村落共同体が共通の守 護神として祭る神。
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で神社の中から仏教的色彩を排除しようとしたことが、神仏分離政策である。
明治元年より神仏分離政策が発布される前に、仏教と神道はこのような複雑 状況にいたことは考えられる。しかしながら、神仏分離の終わった現在でも神 社と寺院を混同してしまうことはあるという。通説は、「本地垂迹説」がほと んどで、神道をメインにする学説をなかなか窺えることはできない。このこと に関しては、おおよそ神仏習合=本地垂迹という枠組みで神仏関係を捉えてい る。また、神道の歴史から神仏習合の歴史的影響抜きでは全貌が見えないため、
次節では、神仏習合の基盤的研究を確認したうえに、神道の反動的な作為をい くつか引き出し、通説とは相違する視点で神仏関係を考察する。
3-1 神仏習合に関する基本論―時代順
神仏習合を完全に解明することは非常に難しいことであり、「神」という言 葉に関しては、公家29、武家30、民衆、朝廷など、様々な立場によって異なる観 念と視点が存在する。また仏教には、神に対する視点がそれぞれ存在しており、
布教の地域も多様であるため、かなり複雑な要素が含まれている。また神仏習 合は歴史的に考えるとかなりの比重を占めている。全部の学説や理論をまとめ ることは困難である。前述の理由で、以下、小林正博の『日本仏教の歩み』か ら、時代別に分けた神仏習合の状態、またはまとめた理論を引用する。
(一) 飛鳥時代―氏族の仏教(仏と神は同格としてみなされる)
六世紀半ばに仏教が公伝すると、仏を番神と捉えているので、仏は独自のも のとみなす認識はまだ醸成されておらず、仏は神の一種として受容される。し かし、仏教を信奉する氏族は急激に増え、氏族の寺院、すなわち氏寺が建立さ
29.天皇そのもの、さらに天皇を中心とする朝廷をいう。または朝廷に仕える人々である。
30.武士の家筋であり、武門である。また、中世以後の幕府、将軍家、およびそれに仕える守護、地 頭、御家人以下の一般の武士の総称である。
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(二) 白鳳時代―国家の仏教(仏と神の違いが明確になる)
天武・持統期は日本と天皇が始まる時代であり、天孫たる天皇を位置づける 根拠として天照大神・伊勢神宮に対する崇拝が強調される。皇室の祭祀神祇信 仰に則り天皇主催行事となっている。一方、持統天皇の仏教政策を見ると、国 立寺院、すなわち官寺の建立(再建された法隆寺や薬師寺)や官僧の育成を制 度化する。仏教は氏族の仏教から国家の仏教へとその地位を高めている。
(三) 奈良時代―天皇の仏教と神仏習合(仏は神を吸収し、神は仏を護る存 在
仏教の圧倒的な教義体系を前に、体系なき神祇信仰は包み込まれていく。神 は苦悩する存在であり、その苦しみを脱するために仏を求め、仏に救われるこ とにより仏を護る役割を果たすという神祇観、すなわち「護法善神」が広まっ ていく。これを「神仏習合」という。神仏習合のもとでは神々は僧侶が読誦す る神前読経により生命力を蓄え、仏教を護る善神として仏に従っている。称徳 天皇のみことのりにも「仏の御法を護り尊みまつるは諸々の神たちにいましけ り」とある通りである。
ただし、この考えは中国の仏教にすでに存在し、日本で創作された概念では ない。神仏習合の具体的な形として、寺院に隣接する鎮守、神社に建立された 神宮寺が現れる。比叡山と日吉大社、興福寺と春日大社は神仏習合の典型例で ある。31
以上のように、仏教が最初伝来する際には、日本本来の神とはまだ同格であ ると見做されている。しかし、奈良時代に入ると、形の薄い神道はだんだん堅 実な教義体系を持つ仏教に吸い込まれ、最終的に「神仏習合」により仏教を護 持し、仏よりも下という存在となった。有名な神宮寺もこの時代より出現した
31.小林正博(2009)、『日本仏教の歩み』第三文明社、P.192。
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という。次に平安時代から神仏習合について述べてみる。
(四) 平安時代―本地垂迹(仏は本体、神は影ということから神の本地は仏 にする)
神の地位の低下は、逆に仏の絶対化へとつながる。護法善神たる神の力の源 が仏教にあるという神仏習合はさらに進んで、護法善神そのものの本源的存在 は実は仏であるという本地垂迹説へと進展する。本地垂迹の理論的根拠は『法 華経』に求められる。すなわち『法華経』では、前半は垂迹の仏であるインド 応誕の釈迦による説法であり、後半は本地の仏である久遠の釈迦による説法が 展開されている。これを垂迹の神と本地の仏という仏神観に発展させたのであ る。
この本地垂迹説は日本独自の神仏観といってよく、当時の日本仏教が主体的 に提示した仏神の勝劣観である。しかし、これによって神の地位は低下したと いうより、仏教によってむしろ引き上げられたと考えるのが妥当である。八幡 大菩薩というように、八幡神は仏に準ずる菩薩という高みに引き上げられたの である。
(五) 鎌倉時代―起請文
鎌倉の武家政権の神祇観はよく表れているものに、最初の武家法となった
『御成敗式目』32がある。それは第一条第一項に「神社を修理し祭祀に専らに すべき事、神は人の敬うに依って威を増し、人は神の徳に依って運を添う」と あるように、神祇信仰の励行から始まる仏教は第二条だから神祇優先がうかが える。そもそも鎌倉武士団の精神的支柱は鶴岡八幡宮であったから、八幡神(八 幡大菩薩)の加護に依って立つ幕府の安泰が第一にあったのである。(中略)
鎌倉時代は密教を主流として、念仏、禅などの新興の仏教も出現し、仏教への 帰依も篤いが神祇信仰も劣らず武家社会の中に浸透していたことがわかる。
32.鎌倉幕府の基本法典、初の武家法である。
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(六) 南北朝時代―神国日本
短期間ではあったが後醍醐の天皇親政の復活は、皇祖神を祀る伊勢信仰と神 国日本が宣揚され、神道教義の体系化が進められていく契機となった。すでに 鎌倉時代までの成立とされる神道五部書が現れ、そこでは神を仏より上位に位 置づける理論が表明されている。伊勢外宮の神官であった渡会家行は、外宮の 祭神である豊受大神を内宮の天照大神より根源的な神であると説き、結果的に 伊勢神宮信仰の底上げにつないでいく。(中略)また天台僧であった慈遍は『旧 事本紀玄義』33を著し、神道は根であり、儒教は枝葉、仏教は花実に過ぎない とする根葉花実説を立て、神道の優位性を主張した。
(七) 室町時代―逆本地垂迹(仏の本地こそ神であるという神道論の出現)
吉田家は「神祇管領長上」という職階に就いて権勢を誇り、全国の神社の格
吉田家は「神祇管領長上」という職階に就いて権勢を誇り、全国の神社の格