第二章 神道の形成および神仏習合
第二節 神道の起源―古神道
國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
神道の起源については、安蘇谷正彦の『神道とはなにか』はこう言っている。
「神道の起源は、仏教やキリスト教などのような釈迦やキリストというよ うな創唱者がいないため、何年に始まったかを明確に決定するのがはなは だ難しい。ユダヤ教やインド人の大部分が信奉しているヒンドゥー教など の民族宗教は、その起源を明白にすることが困難であることと同様である」
18。
神道の起源は、創唱者がいないため、特定できない状態にある。それだけで なく、神道の長い歴史において、神道を「ことばで説明する」という営みは極 めて稀な現象であったことも挙げられるのである。その理由は、安蘇谷によれ ばまず第一は、神道に決まった教典や定まった教義が存在しない。第二、神道 は、日本人の生活様式の構成要素ではあるため、神道との関係は無自覚であっ たことから、説明の必要もなくなるのであろう。第三では前述のとおり、神道 の長い歴史においても神道信仰の言葉化は限られた人々の営みであり、神職も 神道を一般の日本人に積極的に説こうとしなかった、などと推測される。しか しながら、長い歴史を有していることから、存続の期間を区切りすることは可 能である。以下、第二節に神道の起源である古神道について分析する。
第二節 神道の起源―古神道
神道の大もとは縄文人の思考に求められる。縄文人はあらゆる生き物に善良 な霊魂を持っているとする精霊崇拝(アニミズム)であった。どの民族も極め
18.安蘇谷正彦(1994)、『神道とはなにか』、ぺりかん社、P.22。
‧ 國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
て古い時代に精霊崇拝の段階を経験したという。19 古神道とは神道史の第一期で、奈良時代以前の神道を指すことが多い。仏教
との習合がまだはいらないものである。村岡典嗣の『神道史―日本思想史研究』
によると、神祇史と神道史はともに文献を対象に史的研究をしてきたのである が、神祇史には仏教神霊、風俗との混合が標準として分けられ、神道史には仏 教以外に儒教などの要素が加わる。20本章は神道史を主要的な研究対象にする。
さらに、村岡の神道史分類については、以下の四つに分けられる。
(一) 太古および上世(奈良時代まで)
(二) 中世(平安、鎌倉、吉野、室町時代まで)
(三) 近世前期(江戸時代の中葉まで)
(四) 近世後期(明治初年まで)
第一期は古神道およびアニミズムの発達時代であり、第二期では、中世に仏 教や儒教などに影響を及ぼされた神道を指す。この時期では、神道と仏教が習 合して学説が進んでいたもので、両部神道、伊勢神道、吉田神道などが完成さ れたと言われている。第三期では、神道は仏教を脱離しつつ、儒教などの思想 を取り入れて儒家神道となったのである。吉川神道、度会神道、垂加神道など はこれに当たる。最後の第四期では、神道が学問上信仰上の独立を迎え、本居、
平田派の神道および俗神道、教祖神道はこの時期に提出されたのである。
まずは古神道の前期に当たるアニミズムからまとめていきたい。アニミズム は、小林道憲の『宗教とは何か』から、その定義を確かめる。原始宗教の本質 は、アニミズムだと言われている。
アニミズムとは、人間ばかりでなく、ほかの動物、植物、無生物、それぞれ がそれぞれの魂を持ち、作用を及ぼしているという考え方で、霊魂そのものと
19.武光誠(2000)、「神道思想の研究―日本古代国家誕生と和の思想」、『明治学院大学教養教育センタ ー紀要 12 巻』、東京:明治大学、P.1。
20.村岡典嗣(1956)、『神道史』、創文社、P.7。
‧ 國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
離れても存続することができ、それ自身の死滅もない。この世のあらゆるもの に霊力が宿っていると感じていたという。太陽や月や星、雷や風や雨、水や火、
川と山、動物と植物、洞窟や石、さらに弓矢のような道具にも、霊魂が宿って いると感じ、これを畏敬するのである。21
日本列島に人間が住み始めたようになったのは後氷期の末期である。つまり 二万年ほど前のことを指す。西暦前八〇〇〇年頃から縄文時代に入った。村上 重良の指摘によると、日本の宗教の始まりは、縄文時代の前である先土器時代 には石器での生活をしており、はっきりした宗教観念はまだ明らかではないが、
縄文時代に入ると土器がつくれるようになり、遺跡や出土した品が大量だった ため、この時期の人間の宗教観念を窺えるようになったと言っている。22
縄文時代の生活は、採集、狩猟、漁撈がほとんどであり、西暦前二〇〇〇年 にはグループ化された集落はすでに構成されていた。その遺跡から出土するも のは土器もあれば石器もあり、それ以外でも骨角器もあった。そのなかには、
土版、土偶、石棒、勾玉、または宗教儀礼か呪術に使う石製の用具と骨角器が ある。
日本最古の宗教遺物は縄文早期の上黒岩遺跡に出土した女性の土偶である。
土偶のほとんどが女性像であり、女性の身体的特徴が強調されているのが生殖 力への崇拝ないし信仰が窺われる。そこに特筆すべきものは墳墓である。縄文、
弥生時代の墓は大きく三つに分けられる。一つは土壙墓、土に埋葬するシンプ ルなタイプで、一つは甕にいれる甕棺墓、最後は石の箱にいれるという形の石 槨墓である。
埋葬される死体は手足を折り曲げられている状態で、死霊や亡霊などへの畏 怖だと考えている。また、副葬品には護符のような玉類の装飾品が呪術用具の
21.小林道憲(1997)、『宗教とはなにか』、日本放送協会、P.26 。 22.村上重良(1981)、『日本の宗教』、岩波書店、P.2。
‧ 國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
機能として果たしているのである。
村上重良によると、縄文時代の宗教思想は世界の諸民族の原始宗教だとみら れるアニミズム(精霊崇拝)、マナイズム(人力を超える神秘的な力の信仰)、 自然崇拝、死霊崇拝などの原始的宗教観が存在し、様々な呪術が行われていた ものと思われる。以上によると、集団で祭りが行われており、宗教生活と宗教 観念がかなり整ったと言えるだろう。
弥生時代になると、稲づくりを基盤とする生産力の発展とともに、各地に小 さい国が生まれ、小国家が連合して広い地域を統一し、支配する連合国家があ った。そのなかに紀元五七年、九州北部の倭奴国の王が後漢の光武帝に使者を 送り出し、金印を授けられたという。この金印取得事件は中国の歴史書である
『後漢書』23に載っており、一〇七年にも使者を派遣していた。24
二世紀の中葉から倭国に内乱が起こされたが、このような時期に内乱を鎮め た女王の卑弥呼が現れ、三〇余りの国の連合を促した。二三九年に卑弥呼は中 国の魏明帝に使者を送り出し、貢ぎ物を捧げ、「親魏倭王」の称号を授けられ た。称号の意味は「魏に親しむ倭王」である。倭の諸小国の中にはこれ以前に も中国の王朝に通じ、「王」号を授けられたものもあるが、倭国全体の支配権 を対象とした「倭王」号はこれが最初であるという。
「其國本亦以男子為王、住七八十年。倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子 為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。
自為王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入、
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。」25
23.中国の後漢時代を記した歴史書であり、正史の一つである。合計一二〇巻ある。
24.村上重良(1981)、『日本の宗教』、岩波書店、P.9。
25.『三国志』魏書東夷伝倭人条。
‧ 國
立 政 治 大 學
‧
N a tio na
l C h engchi U ni ve rs it y
つまり、卑弥呼は鬼道につかえ、よく衆を惑わしたと伝えられており、宮殿 の奥深くに住み込み、配偶者はいなく、弟がその補佐を担い、邪馬台国を統治 していた。また、鬼道ということは、シャマニズムのことであり、神を自らに 憑依し、神の意志を伝えるシャマンである。
松田智弘の『古代日本の道教受容と仙人』によると、『三国志』26魏書の倭人 について記したところからは、卑弥呼がかなりの年齢の女性で、しかも独身者 であり、弟が補佐している様子をうかがうことができる。また、卑弥呼の住む 場所に出入りできるのは、特定の一人の男性だけであり、飲食の世話と、居処 の内外の話をとりつく役をしたというのである。卑弥呼自身は、ほとんど宮室 に閉じこもったままであった。また、この卑弥呼を、神託を請う巫女とみるみ かたがある。27
邪馬台国は、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国が乱れたため、卑弥呼の娘 である壱与をたてて国を静穏にしたというのであり、卑弥呼自身の王位につい た事情と重なり、男性の政治的手腕により国を統治するのではなく、女性の巫 女的性格に負うところが明らかである。その巫女的性格とは、シャーマン的で
邪馬台国は、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国が乱れたため、卑弥呼の娘 である壱与をたてて国を静穏にしたというのであり、卑弥呼自身の王位につい た事情と重なり、男性の政治的手腕により国を統治するのではなく、女性の巫 女的性格に負うところが明らかである。その巫女的性格とは、シャーマン的で