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第三章 神道と天皇―武士「道」から国家神「道」へ

第一節 神道の理論化(中世から近世へ)

立 政 治 大 學

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第三章 神道と天皇―武士「道」から国家神「道」へ

第一節 神道の理論化(中世から近世へ)

古代国家では、祭祀と政治を一体とする祭政一致を基本理念としていたから、

仏教国家の確立と併行し、神祇の祭祀が重んじられ神祇制度がととのえられた。

八世紀のはじめには、大宝律令で、体系的な神祇制度がつくられたという。59 しかし神道の理論化は、おおよそ仏教との習合が終わってからのことだと思わ れる

神道史の中世は大化改新から奈良時代、平安時代を中心として、鎌倉時代と 室町時代に及んでいる。中世において神道史の重要な事実ということは、神祇 制度の完成、仏教との習合、および神道論の発生の三つである。また、神道と 仏教との習合は前章の第三節、第四節にまとめていたため、第三章の第一節の 対象にしない。

村岡典嗣によれば、古神道はその発展とともに、儒教と仏教からの影響を受 けた。しかもその本質においては、国家および国民成立の初期の産物という素 朴性と純粋性をもって一貫したという。つまりそれは国民のうちから生じた本 来の信仰、思想として内面的な自然の教えはあったが、未だ教理の体系はなく、

外面的には諸々の儀礼はあったが、未だ制度はなかったということである。60 中世に入ると、統一国家が出現し、神話の統合も諸氏族の神話によって再 編成された。当然ながら皇室を中心にしていたという。これにより体系のあ る日本神話が誕生した。皇室や有力氏族の氏神は、本来の機能を保ち、国民 と国家全体の守り神となり、国は毎年捧げ物をして祭るということの制度化 は、大化改新ごろからとされ、神祇制度と称している。天皇の践祚の大嘗祭

59.村上重良(1981)、『日本の宗教』、岩波書店、P.45。

60.村岡典嗣(1956)、『神道史』、創文社、P.36。

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をはじめ、様々な国家的慶事における祈願の祭祀もあった。神祇制度は平安 時代前期に完成したと言われている。

中世においては、神道を如何なる位置づけをされていたかという問題につ いては、菅原信海の「中世神道の形成」によれば、「仏教の持つ重層的構造の なかの特殊な一部として「神道」があった。」それは「日本で完成した仏教の 独特の体系のなかの特殊な一部として神道があった」ということである。ま た、菅原はこのような解釈は通常の神道に対する定義づけからすると、かな りかけ離れた考えのように思われるかもしれないが、中世の神道を考える上 には、このような定義づけをしないと理解できない面のあることも否定でき ないと指摘している。61

六世紀中期伝来された仏教は、神道より優れた国家性を帯び、一般の民衆 にも滲透を始めたため、神道との間に種々の接触混合が生じた。簡単にまと めてみると、神仏習合には三つの段階を有している。第一段階は、神道の 神々は仏法を守るという信仰で、奈良時代中期から寺院に鎮守の神が祭られ た。第二段階は仏僧たちが神を六道の最上位たる天道だとみなし、神は輪廻 の苦悩から解放されることを望み、神前で読経し、神社に寺を建てるように なったのである。第三段階は八世紀末以後、神を菩薩の化身にし、のちには 仏が神の本体、神は仏の仮の現れと信じて、仏像などを祭る神社も出ていた という。

鎌倉時代に入り、仏教界に新しい機運がもたらされ、新しい宗派が開かれ る際にして、前章にも述べたように、本地垂迹の思想が次第に組織立てら れ、また理論をづけられて、最終に神道論の形をとって現れることに至った と言われている。村岡典嗣によれば、仏教内における神道論の発生は、神道 史上、一面実にそれに続いてみた神道側における、神道論の成立のための前

61.菅原信海(1996)、「中世神道の形成」、『東洋の思想と宗教第一三号』、P.106。

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提となり、原因となったと解すべきである

しかもこのことについては、一層精確に考えれば、この両者の間には、互 いに刺激し、交渉した相互的に生きあった関係の存在を認めるべきで、神道 側の神道説の成立が、仏教側のそれを前提とし、原因として有したのみなら ず、後者もまたその完成のために、前者の刺激を必要としたのであるとい う。62つまり、神道も仏教も、お互いの影響により、現在の状況に至ったと思 われる。

本地垂迹説は前章で述べた解釈と理論化によって、鎌倉時代に完成され た。山王神道(天台神道ともいう)と両部神道(真言神道ともいう)がその 代表だったのである。

山王神道は、中世における神仏習合の学理に基づく仏教神道の一つであ る。著書の中で最も有名なのは『耀天記』であり、天台宗の開祖である最澄 は、神祇崇拝を有していたと安蘇谷は指摘している。また、安蘇谷によれ ば、最澄は本地垂迹的な考えよりも、時代的にいってもこれは護法善神の考 えに基づいた信仰であったという。

両部神道は、神道と空海が唱導した真言密教との習合思想であり、つま り、密教と結びついて展開した神道説である。仏教の教義を援用して神々の 性格を論じ、本地垂迹説によって、仏、菩薩と天神地祇と関係をづけたとい う。

他の諸宗教および諸思想との習合を図ることによって、祭式を整え、教説 を作り出した神祇信仰を、古神道や復古神道と区別して、習合神道というこ とがあるが、習合神道のほとんどは仏教との習合であり、その中で最も大き な流れとなったのは、密教との習合であったといえよう。したがって、両部 神道は、神仏習合思想の主流ともいうべきものであったといってよい。しか

62.村岡典嗣(1956)、『神道史』、創文社、PP.43-44.

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作年代が鎌倉時代であり、したがって五部書の思想が大体同時代の神道論発 生期を代表し、必ずしもその信仰的真実性を否定することはできない。ま た、『倭姫命世記』が正史と違うからといって、当時の一神官の勝手の偽作と は言えないのである。69本研究も同様な観点を持っている。

伊勢神道は、鎌倉時代に伊勢神宮において形成された神道説をいい、厳密 にいえば伊勢神宮の中でも外宮の祠官であった度会氏の人々によって唱えら れたものであるところから、度会神道・外宮神道などと呼ばれることもあ る。伊勢神道は、伊勢神宮、中でも外宮を権威づけるための教説を組織した もので、日本史上広汎にあらわれる伊勢信仰の中で、特殊な一側面をなすも のである。

伊勢神道と並んで中世神道を代表するのは吉田神道である。吉田神道の大 成者吉田兼倶は、『唯一神道名法要集』の中で、三部の本書として挙げている のが、『先代旧事本紀』、『古事記』、『日本書紀』である。これが兼倶が浄土 教、真言宗、日蓮宗などにおいて、三部経と名付けて三つの経典を重視した ことに習ったものと思われる。70

吉田神道は室町時代後期に兼倶が創唱した神道説の流派である。全日本の 神社の過半数は、幕末まで仏教の影響下にあった。これに対し、神道の主体 性回復の動きは、仏教的神道と相互に影響しつつ、前述した鎌倉時代の伊勢 神道から始まり、十五世紀後半には京都に吉田神道も出現した。さらに吉田 神道は神職の養成にも力を注ぎ、江戸時代には僧侶の支配を受けない神社神 職の大半を掌握した。

次に、近世の代表的な神道思想である垂加神道および古学神道は、以下に 確かめてみる。垂加神道の創唱者である山崎闇斎(一六一八~一六八二)

69.村岡典嗣(1956)、『神道史』、創文社、PP.52-53。

70.安蘇谷正彦(1994)、『神道とはなにか』、ぺりかん社、P.94。

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は、神道古典として『日本書紀』神代巻および『中臣祓詞』71をもっとも尊重 したという。闇斎の代表的神道書が『中臣祓風水草』と『神代巻風葉集』で あることは、よく知られている。また神道五部書も重んじ、ことに『倭姫命 世記』を校訂し、その中の一文「神垂祈祷、冥加正直」を生涯のモットーと していた。72その意味では、伊勢神道の聖典『倭姫命世記』も、神道古典とし てつけ加えてもよいかもしれない。

また、国学の大成者である本居宣長(一七三〇~一八〇一)が、神道信仰 の最大の拠り所として、『古事記』に注目したことは、周知の事実である。従 来の神道家が「神代巻」を中心に神道を考えたのに対して、宣長は『古事 記』こそ神代の伝承を正しく伝えていると考えた。それに、徳川幕府の文教 政治の精神であり、またそれによってますます振興された当時の儒教運動 は、一般文化史上に注意すべき二つの傾向を伴った。その一つは排仏という ことである。

このことは、一方には応仁以後の社会改造の機運がもたらした時代精神の

このことは、一方には応仁以後の社会改造の機運がもたらした時代精神の