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『今とりかへばや物語』における葛藤 -親の決定するジェンダーという視点から- - 政大學術集成

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Academic year: 2021

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(1)國立政治大學日本語文學系 碩士論文. 『今とりかへばや物語』における葛藤. 政 治 大 -親の決定するジェンダーという視点から - 立 ‧. ‧ 國. 學. n. er. io. sit. y. Nat. al. Ch. engchi. 指導教授:中村. 中. 華. i n U. v. 祥子. 博士. 鄭. 家瑜. 博士. 研 究 生:麥. 壹. 民. 國. 1. 0. 3. 年. 撰. 0. 7. 月.

(2) 要旨 『今とりかへばや物語』の成立年代や作者は不明であるが、成立は凡そ十二 世紀後半、院政期も後白河院以降から『無名草子』に至る二、三十年のことと 推定できる。 物語主な内容は、顔が瓜二つ活発な姫君と内気な若君という二人のきょうだ いの性格や才能などが人々の社会既成の認識とぶつかることで、親も世間の視 線を気にし、二人の子どもを男女入れ替わったままの状態で殿上・出仕させる ことを決定する。異装するきょうだいは宮中生活の中において、社会の既成概. 政 治 大 送っていくという設定から物語は男女の境界の問題に展開してゆく。このよう 立 なジェンダートラブルによって、作中の親子関係に一連の葛藤が引き起こされ 念と衝突することを通して、自分の身が「異常」だと気づき、嘆きつつ日々を. ‧ 國. 學. ていることが『今とりかへばや』物語世界に散見される。まさに誰が男らしさ /女らしさを決めるかという疑問を鋭く問い直しているのだと言えよう。. ‧. 本論文は四章からなるが、まずは第一章では、研究動機と目的および先行研. y. Nat. sit. 究、研究方法について述べる。また、第二章では、物語に現れた家々の親たち. er. io. の「視線」や「行為」を分析し、親たちの愛情と葛藤に注目した。親たちの愛. al. n. v i n Ch 子どもたちが恋、演技、世に対する「葛藤」を中心に検討することで、子ども engchi U. 情と私欲の葛藤の共通点とそれぞれ異なる特徴を確認した。続いて第三章では、. たちの心理的と身体的な糾結を分析してみた。最後に、本論文の検討対象とす る親子の愛情と貟わされた社会的役割によって夫々人物の外部と内部の衝突. 状況を纏め、さまざまな葛藤が組み合わせられた『今とりかへばや物語』は、 何を訴えようかを究明したみたい。 キーワード:今とりかへばや物語、親子関係、葛藤、ジェンダートラブル、 性役割、アンドロジナス、世、異装、視線、見る/見られる. i.

(3) 摘要 『換身物語』其成立年代與作者皆不明,推測約於十二世紀後半成立,也就是 日本院政後白河院在位期間至文學評論集『無名草子』出現這二、三十年間。 物語的內容主要描述平安末期的高位大臣家膝下有兩個長得毫無二致的一雙 兒女。活潑外向的千金與內向敏感的公子其性格與才能皆與當時貴族社會認定的 規範與普遍認知相互衝突。雙親因為在意社會眼光因此應循著社會的誤解將千金 與公子的社會性別互換,使他們分別男扮女裝、女扮男裝先後參加成人式、參政、 甚至是入宮為妃。變裝後入宮生活的千金與公子,透過與同性/異性的相處漸漸. 治 政 認識到自己與世間認定的性別概念相違,物語就在他們陸續發現自身在社會規範 大 立 下性別之「異常性」哀嘆著人生的日子展開一連串對於「男」/「女」境界線之 ‧ 國. 學. 詰問。『換身物語』中隨處可見由上述之「性別惑亂」(Gender Trouble)在作中. 個人的性別究竟可以由誰來決定」的大哉問。. Nat. sit. y. ‧. 的親子關係中引發作中人物身心內外部的糾葛情感。通過此設定,尖銳地提出「一. io. er. 本論共有四章。第一章悉述本論文之研究動機目的、文獻探討與研究方法。第. al. v i n Ch 親情與私欲的糾葛下的共通點與相異點。第三章則針對文本中各家庭的孩子,分 engchi U n. 二章針對文本中各家庭的雙親,分析其「視線」與「行為」,探究作中雙親們在. 析其「戀愛」、「演技意識」及對「世間的執著」等要素,確認孩子在親情與性 別惑亂交錯作用下心理與身體上的糾結。最終章則總結本論文目標-即探究作中 人物在親子情感與主動/被動背負的社會角色中,相互矛盾產生身心內外部的衝 突與糾結情況。更進一步探討『換身物語』透過各色各樣糾葛情感的描寫,背後 含藏的社會諷刺與控訴究竟為何? 關鍵字:換身物語、親子關係、糾葛、性別惑亂、性別角色、兩性俱有、世間、 異裝、視線、觀看/被觀看. ii.

(4) 致謝 能夠完成這本論文,首先要感謝我的指導教授中村祥子老師,回想起每個星期 到老師研究室報到協助我釐清、歸納思路邏輯的過程,一次次都是完成這本論文 重要的軌跡,若不是您不厭其煩地耐心指導、甚至犧牲睡眠陪我熬夜,課堂外給 予關愛支持與鼓勵,一定無法完成論文。更重要的是老師教會了我如何用嚴謹的 態度和戲劇化的想像快樂地去享受文學,是一輩子受用的方法論,能夠作為您的 學生,我很榮幸。校內指導老師--從一年級帶我們上研究方法、上代古典文學的 鄭家瑜老師,您讓我了解到面對文本扎實的基本功乃是批判的立基點,也從萬葉、. 政 治 大. 記紀課程裡體會到「遡源」的重要性與樂趣,課堂外在您研究室工讀的日子更是. 立. 看見您值得仿效做學問認真的態度,也謝謝您一路的關愛陪伴我們走過四年來的. ‧ 國. 學. 日子。感謝黃錦容老師,您對近現代文學的通透了解與社會批判性,為我打開更 寬廣的文學視野與思考。感謝徐翔生老師,除了教會我們如何透過作品去整理歸. ‧. 納出日本思想,謝謝您對對我論文不吝提供寶貴的意見。另外特別要謝謝吉田妙. Nat. sit. y. 子老師,雖然沒有機會上您的課,但仍記得碩一時您找我們聊天時問我們感興趣. n. al. er. io. 的研究題目後,隔幾天送了我『椎名林三、安部公房集』及坂口安吾『桜の森の 満開の下』兩本書,謝謝您。. Ch. engchi. i n U. v. 還要謝謝這段重回校園日子裡遇到的人們。感謝賴庭筠助教,我的良師益友, 謝謝妳讓系辦變成一個可愛的工讀場所,也謝謝妳很照顧我們這些學弟妹為我們 安排各種工讀讓我們能更無虞的念書。感謝陳美惠,我最好的戰友,那些一起熬 夜讀書聊天說笑的日子、一起住在莊九的日子謝謝妳的照顧。感謝吳安奇、李育 青,三個獅子座女人湊在一塊就是一個光榮偉大的吵雜氣場,無論是跟妳們聊目 標理想還是有趣好玩的事都好快樂抒壓。感謝陳奕錚學姊、洪靖雯、林于楟、賴 宥羽學妹、鍾佩雯學妹,組裡的寂寞組裡懂,謝謝你們同組惺惺相惜的每一場的 苦水聊天與去日本找資料時分享的資訊。感謝幽默一哥陳冠甫、可愛的明雅、風. iii.

(5) 一樣的冠廷、欣瑜、大寶、卓恩、政燁、Ale……,還有好多人,你們都是我在 學校裡美好的回憶。 另外也要謝謝一路上幫忙過我的同事、親友。Teddy,謝謝您鼓勵我不要放 棄學業重回學校;何大何處長、Jerry、Nick、Peggy、Jacky&Annie 夫婦、Sammy、 T.I、Jessica,謝謝你們在休學那段工作期間的照顧與幫忙與回學校後各種的加 油打氣,真的感激在心。感謝大姑姑在家裡遇到災變的時候及時的幫忙。感謝老 馬、鐵爸在休學期間熱心地介紹口譯案子給我和鼓勵。感謝從木新路一路一起住 到永和近三年的室友朱詩迪,不管是開心還是難過謝謝妳總是情義相挺。感謝陳. 政 治 大 謝您或嚴格或幽默地督促我的散漫,這篇論文才得以加工完成成功上傳。 立. 科源先生,謝謝你在 2012 年間前往日本前的陪伴和幫忙。感謝時永新所長,謝. ‧ 國. 學. 最後要感謝我的家人們,感謝你們漫長的等待,包容我花了這麼多時間完 成學業。感謝蔡賜恩、吳聲點、張立慈三顆人生中的胖星球,謝謝無論身在何地. ‧. 都陪伴著我成長、在遇到挫折時總是第一時間伸出援手。感謝林宗衡先生,謝謝. y. Nat. n. er. io. al. sit. 這幾年無論美醜善惡陪伴在我身邊的美好日子。. Ch. engchi. iv. i n U. v.

(6) 目次. 第一章. 序論........................................................................................................ 1. 第一節. 研究動機及び目的................................................................................ 1. 第二節. 先行研究................................................................................................ 5. 一.二.一.. 親子関係に関する先行研究 .................................................... 11. 一.二.二.. ジェンダーに関する先行研究 ................................................ 15. 一.二.三.. 異装に関する先行研究 ............................................................ 25. 親たちの葛藤...................................................................................... 33. ‧. 左大臣家-女君・男君への愛情...................................................... 33. Nat. 女君への愛情 ............................................................................ 33. y. 二.一.一.. io. sit. 第一節. 學. 第二章. 立. 研究方法.............................................................................................. 29. ‧ 國. 第三節. 政 治 大. 男君への愛情 ............................................................................ 37. 二.一.三.. まとめ ........................................................................................ 53. n. al. er. 二.一.二.. 第二節. Ch. engchi. i n U. v. 右大臣家-娘たちへの愛情.............................................................. 54. 二.二.一.. 四の君への愛情 ........................................................................ 54. 二.二.二.. 姉たちへの愛情 ........................................................................ 60. 二.二.三.. まとめ ........................................................................................ 61. 第三節. 吉野の宮家-吉野の姉妹への愛情.................................................. 63. 二.三.一.. 吉野の姉妹への愛情 ................................................................ 63. 二.三.二.. まとめ ........................................................................................ 68 v.

(7) 第三章 第一節. 子どもの葛藤...................................................................................... 70 恋に対する葛藤.................................................................................. 70. 三.一.一.. 女君の恋 .................................................................................... 71. 三.一.二.. 男君の恋 .................................................................................... 73. 三.一.三.. まとめ ........................................................................................ 78. 第二節. 子への愛情.......................................................................................... 78. 三.二.一.. 女君の嘆き ................................................................................ 79. 三.二.二.. 男君の嘆き ................................................................................ 80. 三.二.三.. 宰相の中将 ................................................................................ 81. ‧ 國. 學. 三.二.四.. まとめ ........................................................................................ 83. 世に対する葛藤.................................................................................. 83. y. sit. 「世づかぬ」に苦しむ女君 .................................................... 94. io. n. al. er. 三.三.二.. 「世の常」に拘る人々 ............................................................ 86. Nat. 三.三.一.. ‧. 第三節. 立. 政 治 大. i n U. v. 三.三.三.. 俗世と聖地 .............................................................................. 102. 三.三.四.. まとめ ...................................................................................... 105. 第四章. Ch. engchi. 結論および今後の課題.................................................................... 106. 附表........................................................................................................................ 110 参考文献................................................................................................................ 123. vi.

(8) 第一章. 序論. 第一節 研究動機及び目的 『新編日本古典文学全集 39 住吉物語. とりかへばや物語』1の解説によれ. ば、『無名草子』の評言と『風葉和歌集』の採歌状況を総じて見ると、十三世 紀後半までに『とりかへばや物語』は古本・今本という両作品が存在していた ことが確認される。その後、古本が散逸してしまい、これを改作したものは現 在私たちが手にする『今とりかへばや物語』2(以下、『今とりかへばや』と. 政 治 大 分からない。古本については、『無名草子』の記述から、天喜三年(1055)以 立. 略称する)である。作者や成立時期に関しては、古本、今本とも確かなことは. ‧ 國. 學. 降の成立と目される『玉藻』より後の成立と考えられるのみで、不明と言うほ かない。今本の成立はおおよそ十二世紀後半、院政期も後白河院以降から『無. ‧. 名草子』に至る二、三十年のことと推定できる。古本の具体的な内容は明らか. sit. y. Nat. ではないが、『無名草子』によれば、古本も今本も男女が入れ替わって男装・. io. n. al. er. 女装のまま生きていくという設定は同じであったらしい。. i n U. v. アンドロジナス(androgynous)、または男装・女装に関するモチーフは、. Ch. engchi. 早くも『古事記』に見られる速須佐之男命が天に参上するとき、天照大御神は 「即解御髮、纒御美豆羅而、乃於左右御美豆羅、亦於御鬘、亦於左右御手、各 纒持八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠而」3と、男装して速須佐之男命を迎え る場面が描かれる。また、小碓命が熊曾建を征伐するとき、「爾、臨其楽日、 如童女之髪、梳垂其結御髮、服其姨之御衣・御裳、既成童女之姿、交立女人之 中、入坐其室内。」4と、女装して熊曾建を油断させて殺した記事がある。ほ かに『日本書紀』には神功皇后が三韓征伐に際し男装する記事がある。平安時 1. 石埜敬子校注、訳『新編古典文学全集 39 住吉物語 とりかへばや物語』小学館、2002.04 同前掲注 1 3 山口佳紀・神野志隆光校注、訳『新編古典文学全集 1 古事記』1997.06 小学館、P.56 4 同前掲注 3 p.218 1 2.

(9) 代になると、美しい男性は女性として幻想され、また、才能のある女性が男の 身として生まれなかったことを残念がられる描写を文学作品に窺うことがで きる。例えば、『源氏物語』に頭中将が男性の光源氏を「女にて見たてまつら まほし」(帚木巻)5たことや『紫式部日記』に紫式部が兄より先に史記を覚 えたので父為時が「口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」6と嘆 いたなどの記事がある。ほかに『土佐日記』の冒頭文「男もすなる日記といふ ものを、女もしてみむとて、するなり」7男性である作者紀貫之は女性に仮託 して日記を展開している。この日記文学や物語文学が作家になった時期は、成. 政 治 大 ェンダーに関わる問題が意識され、男女の境界への問いが文学作品に表現され 立 熟した平安貴族文化のなかで「男」と「女」の境界線はどこにあるかというジ. ているとも言えよう。. ‧ 國. 學. 平安末期に現れた『今とりかへばや』は、ジェンダーにまつわる問題を中心. ‧. に描かれたものだと言えよう。活発な姫君と内気な若君という二人のきょうだ. sit. y. Nat. いが人々の社会既成の認識とぶつかることで、姫君を男に、若君を女と思い込. n. al. er. io. まれていく。親も世間の視線を気にし、二人の子どもを男女入れ替わったまま. v. の状態で殿上・出仕させることを決定する。異装するきょうだいは宮中生活の. Ch. engchi. i n U. 中において、社会の既成概念と衝突することを通して、自分の身が「異常」だ と気づき、嘆きつつ日々を送っていくという設定から、物語は男女の境界の問 題に展開してゆく。物語後半においては、姫君の妊娠によって、二人は再び互 いに身を取り替えて宮中に戻る。そして、今度は世間の規制と軌を一にし、一 家は大団円を迎える。一見すると荒誕な筋立てと思われる物語であるが、この 男女の入れ替わりというモチーフこそが、まさに誰が男らしさ/女らしさを決 めるかという疑問を鋭く問い直しているのだと言えよう。 5. 阿部秋生ほか校注、訳『新編古典文学全集 20 源氏物語①』1994.03 小学館、p.61 藤岡忠美ほか校注、訳『新編古典文学全集 26 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐 典侍日記』 、小学館、1994.09 p.209 7 菊地靖彦ほか校注、訳『新編古典文学全集 13 土佐日記 蜻蛉日記』 、小学館 1995.10 p.15 2 6.

(10) ところで、この作品は石埜敬子氏の指摘するように「『今とりかへばや』は、 『夜の寝覚』や『狭衣物語』などと異なり、文学研究以外の世界から注目を浴 びることによって、再評価がなされるようになった作品である。」8。文学研 究以外の世界から注目が先行されており、文学研究の世界では数十年注目され てはいなかった。例えば、1983 年に氷室冴子は『ざ・ちぇんじ!』9という副題 に「新釈とりかえばや物語」と題している小説を発表し、1988 年に山内直実 がこれを漫画化10したことで、男女が入れ替わる異装物語の内容は若者や一般 民衆に紹介されることとなった。さらに 1991 年に河合隼雄が『とりかへばや. 政 治 大 という点から言えば、『とりかへばや』はまことにぴったりの話である。男女 立. 男と女』という本を発表し、次のように指摘する「男-女の軸の解体と再構成. の役割が現在よりはるかに固定的に考えられていた時代を舞台として、男女の. ‧ 國. 學. 取りかえを主題とした物語が語られるのだから、この細部についてよく検討し. ‧. てみることは、現代人のわれわれにとっても大いに意味のあるところではなか. y. Nat. ろうか。つまり、これを日本中世における奇異な話として、単なる好奇心をも. er. io. sit. って読むのではなく、現代に生きるという点において、示唆を与えてくれるも のとして読むわけである。」11、このように河合は、『今とりかへばや』の現. al. n. v i n Ch 代における価値を示した。これとほぼ時期を同じくする 90 年代には、『今と engchi U. りかへばや』についてのジェンダー研究を代表する菊地仁氏、神田龍身氏、安 田真一氏の論文が次々と発表され、物語の再評価に多大な影響を与えた。 現代は、ファッションのユニセックス化や美容工業の発展につれ、男女の性 的徴表の差異は埋められつつある。加えて、医療技術の発達のもとで、自分の 性別を変えること(トランスジェンダー)はもはや不可能なことではない。ま. 8. 石埜敬子「『今とりかへばや』-偽装の検討と物語史への定位の試み-」、 『国語と国文学』82(5) 所収、2005、05、東京大学国語国文学会 p.177 9 氷室冴子『ざ・ちぇんじ!』集英社文庫―コバルトシリーズ、1983.02 10 山内直実『ざ・ちぇんじ!』白泉社、1988.12 11 河合隼雄『とりかへばや 男と女』 、新潮社、1991.01 p.16 3.

(11) た、1970 年代以後に盛り上がりをみせた同性愛運動によって性差の境界が問 い直され、男女の性的徴表の差異が曖昧になった状況のもとで、トランスジェ ンダーや異装が徐々に社会に受け入れられるようになった風潮のもとで、その 研究のはじめにおいて「奇変を好むや、殆ど乱に近づき」12と男女の入れ替わ りが批判される対象であった『今とりかへばや』に対する、読みの姿勢が変っ てきたのは当然のことであろう。 『今とりかえばや』を考える上で、ジェンダーの問題はおろそかにできない。 例えば、ジェンダートラブルに関わる問題が肉親において発生した場合、それ. 政 治 大. を単に奇異な事件として取り扱うことはしないだろう。ただ、肉親に発生した. 立. ジェンダートラブルに対しどのような態度で付き合うかということを決定す. ‧ 國. 學. る過程において、互いに葛藤や心理的糾結を起こすことは不可避の問題だと言 えよう。この点に関心を持ちながら物語を顧みると、性役割が社会の既成概念. ‧. と衝突することによって、作中の親子関係に一連の葛藤が引き起こされている. sit. y. Nat. ことが『今とりかへばや』物語世界に散見されるのは看過しがたい。例えば、. n. al. er. io. 題名の「とりかへばや」というキーワードをテキストに探してみると、物語の. v. 主人公-二人のきょうだいを「取り替えたい」のは他でもない、父親権大納言. Ch. engchi. i n U. (後の左大臣)である。にもかかわらず、父は嘆きながらもきょうだいを誤認 させたまま公的な場で紹介するのである。父の行為は、子どもの性別の交換の 決定的なシーンでもある。この親による決定は、後にきょうだいの嘆きに転換 される。男女を誤認させたまま公の場に引き出すという親の行為は、愛情によ るものなのか、それとも自分の利益のためなのか、あるいは「世」に流されて 已む無くなのか。愛情、自分の利益、「世」へ流されることによって、親が子 供を縛るという問題が、作中に現れたほかの親子関係も同じ表現があるかどう かも、考えてみたい。 12. 藤岡作太郎著『国文学全史平安朝篇』 、東京開成館、1905.10。後に秋山虔ほか校・注『国文 学全史 2 平安朝篇』所収、平凡社、1974.02 p.634 4.

(12) 以上のような問題点を持ちながら、『今とりかへばや』の親子関係を注目し つつ、ジェンダーの権力作用と作中人物の私欲と意志は、きょうだいたちのジ ェンダーを含む自己認識に如何に作用しているのかを究明してみたい。. 第二節 先行研究 只今聞えつる『今とりかへばや』などの、本にまさり侍るさまよ。何事も 物真似びは、必ず本には务るわざなるを、これは、いと憎からずをかしくこ そあめれ。言葉遣い・歌なども、悪しくもなし。おびたたしく恐ろしき所な どもなかりめり。13. 政 治 大 『今とりかへばや』研究のはじめは、上に引用した①鎌倉初期『無名草子』 立. ‧ 國. 學. の評言に遡ることができる。当書は物語の趣旨のみならず、人物、歌それぞれ の批評もみられる、物語を総体的に評価したものであるが、その「をかしくこ. ‧. そ」ある部分については、詳しく指摘されることはなかった。. y. Nat. sit. その後、『今とりかへばや』に関する研究は長い間ほとんど絶えてしまって. n. al. er. io. いた。江戸時代には②伴資芳と③安藤為章などの随筆集14、または物語写本に. i n U. v. 筆写者が添筆した意見15など、『今とりかへばや』に関する記事は再び出現し. Ch. engchi. たけれども、いずれも感想的な片段であった。明治時代になると、④岡本保孝 氏が「取替ばや物語考」16において注釈・本文批判・出典・年立・解説・系譜 などのパートに分けて詳細な分析を行った。これは初めて研究書として纏めら れたもので、 『今とりかへばや』研究史において無視のできない業績であった。 ほかに同時期にある研究成果として、⑤黒川春村氏の歌を中心とする内容のも 13. 桑原博史校注『新潮日本古典集成 無名草子』、新潮社、1976.12 p.83-84 伴資芳『閑田耕筆』享和元年(1801)刊。安藤為章『年山紀聞』文化元年(1804)刊。とも に後『日本随筆全集第六巻』所収、国民図書株会社、1927.07 15 例えば、 『取替波也物語類標』と小山田(高田)与清の『取替早詞寄』など索引としてのも と浚明本系統に多く付されている序文は有名である。 16 岡本保孝著「取替ばや物語考」室松岩雄編『国文註釈全書十五』所収、1910、国学院大学出 版部。後に折口信夫『国文学註釈叢書 12』所収、1929.08、名著刊行会 5 14.

(13) の17と⑥長谷川福平氏の作品解説的なもの18がある。1905 年に⑦藤岡作太郎氏 が『国文学全史平安朝篇』において「されど筆法の源氏と巧拙相異なるは、免 るゝこと能はず。人情の微を穿てるところなく、同情の禁じ難きところなく、 彼此人物の性格十分に発揮せず、ただ变事を怪奇にして、前後応接に暇あらし めず、つとめて読者の心を欺騙し、眩惑して、小説の功成れりとす。その奇変 を好むや、殆ど乱に近づき、醜穢読むに堪へざるところ尐からず。敢て道義を 以て小説をせんとするにあらず、その毫も美趣の存せざるを難ずるなり。殊に 甚しきは、中納言が右大将の妻の四の君と通じ、また右大将と契るところなど、. 政 治 大 響を与えた。これは『今とりかへばや』の代表的なマイナス物語観と見做すこ 立 ただ嘔吐を催ほすのみ。」19と評されて以来、昭和前期まで20に頗る大きな影. とができよう。⑦の藤岡評と異を唱えたのは⑧田辺つかさ氏である。田辺氏は. ‧ 國. 學. ⑦藤岡氏の厳しい批判に反し、 『今とりかへばや』の人情主義に着眼した上で、. ‧. 物語を次のように評価した。. sit. y. Nat. 今取りかへばやの特色は、勿論その運命悲劇的なところにあるのであっ. n. al. er. io. て、濃艶華美な、官能的爛熟相と相まつて、内的な人生への苦悶にあると. v. 思ふ。就中かの巻末の、母と子のくさびの挿話の如きは、今取りかへばや. Ch. engchi. i n U. に改作した筆者のみがもつた人情主義の出現であらうと思はれる。とりか へばやに於ける官能的な頽廃美と、怪奇な構想の混線との中に、運命の決 定を一線太く描いて、それに悲劇の特色を与へた改作者は、この宿命観と 悲劇的哀傷とを、唯一の依拠として、純正物語へ近づかしめようとしたの. 17. 黒川春村「墨水遺稿」 、1899.07、吉川半七。後に橫山重,巨橋賴三『物語草子目錄・前篇』 所収、大岡山書店、1937.07 18 長谷川福平『古代小説史』富山房、1903.09 19 同前掲注 11、p.634 20 例えば池田亀鑑氏「日本文学書目解説(二)平安時代(上)」 『岩波講座 日本文学』所収 1932. 01、五十嵐力『平安朝文学史 下巻』岩波書店、1939.07。宮田和一郎『物語文学攷』 、文進堂、 1943.03。ほぼ「怪奇不自然」、 「病的」、 「文学の末路」、「淫猥露骨」などと評してある。 6.

(14) であると思ふ。「人情の微を穿てるなく、同情の禁じがたきなし」といふ やうな藤岡博士の批評は、修正されなければならない。21. この後、1942 年⑨塩田良平氏がはじめて『今とりかへばや』における心理 描写の巧みさと親子関係に注目し、特に作品における母性描写を高く評価した。 氏は次のように述べている。. 治 政 この物語のテエマは勿論男女をとり違へた喜悲劇から生ずる事件の紛争 大 立 にあるので、かなり怪奇な非現実的な一面があり、そこに末期の平安朝文 ‧ 國. 學. 学が当然赴くであらう「筋の変化」に中心をおきすぎる点があり、その故. ‧. この小説は末期的頽廃的傾向を有してゐると謂はれるが、部分的には立派 な心理小説になつてゐる。(中略)又、女性心理としては、男装の中納言. y. Nat. io. sit. 及び見破られた後の中納言が浮気な宰相を疑ひながら、次第に女心に変化. n. al. er. して行く過程は実に優れてゐて、男性作家では書けないほど女性心理を追. Ch. i n U. v. 究してゐる。末章、中宮が宇治に残して来た愛子をかき撫でながら、それ. engchi. となく母の健在を知らせる邊りは、源氏にすらみることを得ざる当代随一 の母性描写であり、写実に徹して読者をして泣かせずにはおかない。22. 続いて、1947 年⑩中村真一郎氏は物語の親子関係のみならず、夫婦関係に も言及した評言を示している。. 21. 田辺つかさ「取りかへばや物語の怪奇性その他」 『鹿児島日本文学』 (5)所収、1932.05、鹿 児島日本文學研究社 22 塩田良平『古典の伝統』育英書院、1942.04、p.140-142 7.

(15) 人はこの不出来な物語の中に、当時没落貴族の親子や夫婦間の素朴で強 烈な恩愛の絆を、芸術の外で知ることができる。歴史学派ならば、そこに 近代人間感情の仄かな夜明を発見するであらうまでに。23. 1950 年、⑧田辺⑨塩田⑩中村三氏の説を受け、⑪鈴木弘道氏は「『とりか へばや』に現れた愛情-倫理的な愛情を中心として-」24という題名の論文で、. 政 治 大 はじめて言及した。そして『今とりかへばや』において愛情が根本的な要素で 立 『今とりかへばや』の中における愛情の問題-倫理的な愛情の問題に研究史上. ‧. ‧ 國. 學. あると主張した。氏は⑪の論文で、以下のように述べている。. とりかへばや物語は、左大臣の、子に対する愛情が最も根本的な要素を. y. Nat. io. sit. なし、そこから兄妹愛が生れて物語が発展し、最後には、宇治の若君に対. n. al. er. する大将(女)の愛情を大きく点出して結末を飾るなど、倫理的な愛情が. Ch. i n U. v. 主流となってゐると言ってもよいであらう。何か事件が起れば悲しんだり. engchi. する親を登場させるのも、そのやうな一貫した主流から自然に現れた趣向 ではなからうか。しかしながら、退廃的な社会の現実を反映して成ったこ の物語は、他方に於て猥雑な性生活の乱倫を取扱ってゐることを思ふと、 些か奇異の感なしとせず、それだけに、この時代の退廃的な文学精神の中 にも家族的な人間観が存在することを認めねばならぬと共に、その倫理的 な愛情描写はこの物語の特筆すべき性格であると考へねばならないであ. 23 24. 中村真一郎「とりかへばや物語」小田切秀雄『古典発掘』所収、真善美社、1947.08、p.89 鈴木弘道「 『とりかへばや』に現れた愛情-倫理的な愛情を中心として-」日本文学懇話会 『日本文学教室』 (9)所収、1950.09、蒼明社。後に鈴木弘道『平安末期物語についての研 究』所収、赤尾照文堂、1971.08 8.

(16) らう。25 これに対し、池田亀鑑氏が⑪鈴木の論文の講評として、. この物語の作者は、いかなる人間の真実を、いかにゑがかうとし、かつ いかににゑがいたかといふ主題と構想の根本に遡り、そこからすなほに見 直してゆかねばならない。(中略)この論文の筆者は、倫理性を構成する 要素としての愛情問題をば、さういふ根本的な立場に高めて検討してゐる。 26. (下線は筆者による). 政 治 大 と述べ、池田氏をはじめとする諸氏が⑪鈴木説を支持した。⑪鈴木論文によ 立. って、これまで主流だった⑦藤岡作太郎の示した「醜穢読むに堪へざるところ. ‧ 國. 學. 尐からず」という、『今とりかへばや』観が覆ったといってもよい。このとき. ‧. から『とりかへばや』研究に対する態度は徐々に変ってきたと言ってもよいだ. io. n. al. er. 亘る作品論的な研究が次々と発表されたことである。. sit. y. Nat. ろう。最も顕著な変化と言えるのは、『とりかへばや』を題名とした多方面に. Ch. engchi. i n U. v. 現在、『とりかへばや物語』研究の史的推移、現況、動向、展望課題などに ついて、さらに筆者は研究史の中で扱われた論文と従来全般的に論じられてき た研究テーマは次のようにまとめられるだろう。 一・伝本研究及び本文研究 1.注釈と本文研究. 25 26. 鈴木弘道著『平安末期物語についての研究』赤尾照文堂、1971.08、p.336-337 池田亀鑑氏は同雑誌の審査委員で、鈴木氏論文に対し講評を添えた。その内容は鈴木弘道著 『平安末期物語についての研究』、赤尾照文堂、1971.08、p.340 所収 9.

(17) 2.文章・文体 二・作品論的研究 1.. 構造、構成、形成論. 2.. 主題論. 3.. 表現論. 4.. 素材論. 5.. 人物論. 政 治 大. 立. 5-1 作中の人物像. ‧ 國. 學. 5-2 家族愛や愛情について. ‧. 他者論:見る/見られる関係. 7.. ジェンダー論:変身・異装をめぐって. 8.. 物語史への定位. 9.. 享受論・引用論. n. Ch. sit er. io. al. y. Nat. 6.. engchi. i n U. v. 9-1『源氏物語』の享受をめぐって 9-2『有明の別れ』『夜の寝覚』などとの比較 10.和歌をめぐって 11.「世」という言葉をめぐって 三、作者論. 10.

(18) 大概、このような分野において、数多くの論究がなされているが、その中で、 筆者が興味を持つのは「5-2 家族愛や愛情について」に関わる親と子、きょ うだいの間に見られる愛情の諸相と「7ジェンダー論」に関わる性役割、社会 規範、または権力構造の問題である。本論もこの二つの点について考察を行っ た。以下に、この問題意識に深く関わる「親子関係」に関する先行研究、「ジ ェンダー」に関する先行研究、「異装」に関する先行研究を見ておくことにす る。. 一.二.一.. 親子関係に関する先行研究. 政 治 大 『今とりかへばや』の愛情に関する研究は、上述した⑧田辺つかさ氏⑨塩田 立. ‧ 國. 學. 良平氏⑩中村真一郎氏のそれぞれが次々と物語の「人情主義」 「心理描写」 「母 性描写」「親子や夫婦の恩愛の絆」要素を強調しており、親族間で互いに抱い. ‧. ている愛情という点に早くから注目されている。前述⑪鈴木弘道氏が 1950 に. sit. y. Nat. 発表した「『とりかへばや』に現れた愛情-倫理的な愛情を中心として-」27. io. er. では、この物語は倫理的な愛情を主流をしたものとなっていると論じた。その 後、⑫大原一輝氏が女君に用いられた「あはれ」という言葉を考察した結果、. al. n. v i n Ch 「之には(筆者注:あはれ一語を指す)父大臣、若君、男主人公等に対する親 engchi U. 子姉弟間の肉親的愛情や同情を意味するものが多く注目されるほか、四君や大 君に対する異性的愛情を示すものも尐ない(中略)女主人公が之等の人々に対 してそゝぐ愛情と相俟って従来この物語に於ける「愛情」が注目されて来てゐ る所以も明らかに見出し得るのである。従って此の点でも矢張り女主人公が 「あはれ」中心に置かれてゐるといへるのである。」28と述べ、『今とりかへ ばや』の肉親的な愛情は「あはれ」という精神に富み、しかも女君を中心に表. 27. 同前掲注 23 大原一輝「とりかへばや物語の世界」 『語文研究』(13)所収、1961.10、九州大学国語国文学 会 p.18 11 28.

(19) 現されたと指摘した。その後、鈴木氏はその延長線を更に開き 1971 年に氏は ⑭『とりかへばや物語』に現れた愛情に対して、全面的な考察を行った結果、 『今とりかへばや』物語における愛情を以下のようにまとめた。. 【頽廃的な愛情】 (1)恋愛(異性愛) (2)同性愛 【倫理的な愛情】 (1)肉親の愛 (2)親子の愛 (3)兄妹愛 (4)姉妹愛 (5)その他 【夫婦愛】 【仇敵その他に対する愛】29. 學 ‧. ‧ 國. 立. 政 治 大. 鈴木氏は、左大臣家、右大臣家、更に吉野の宮家においての親子愛・兄妹愛・. y. Nat. io. sit. 姉妹愛・祖父愛・夫婦愛などの愛情関係を検討したうえで、「深い盲目的な愛. n. al. er. 情」、「理性的な愛情」、または「慈悲精神」が物語の親子愛情を土台として. i n U. v. あることが分かる。しかし、鈴木氏の指摘は人間性の光明面を強調し過ぎてお. Ch. engchi. り、人間には利己的な心があり、利益を求める行動するという暗部に対しては 検討されているとは言えない。つまり、人間性のエゴ、特に当時「院政」とい う新たな政治体制が出現し、貴族階級はそれぞれ<家>の繁栄のために政治的 な戦略と手腕を営んでいることを見逃しているのではないか。愛情、人間のエ ゴ、家の継続、意志、そして院政期という、態勢が入り組んでいるために、出 てくる複雑な人間問題を解くには、鈴木氏の言う「倫理的な愛情が主流となっ てゐる」という見方だけでは、難しいのではないか。だが氏によって提示され た親子の愛情という問題は、八〇年代以降ジェンダー論、セクシュアリティ論、 29. 同前掲注 23、 p.307 12.

(20) 他者論が導入されるにつれ、同性愛・異性愛・偽装・視線などの研究が考察の 中心になって、親子間の愛情という問題への関心は薄れて行ってしまった。親 子愛情の問題が再び注目をされるのは 2000 年⑮森本葉子氏の論によってであ る。⑮森本氏は、父左大臣の働きかけ、和歌、「とりかへばや」という用語の 使用という三点に着目し、きょうだいを如何に見つめていたのかを考察した結 果、男君が父の期待としての存在であるのに対し、女君は父の失望を慰めるた めの存在という役割を当てていると主張した。氏は次のように述べている。. 政 治 大. 左大臣の視線は平等ではなく、その父の期待は男君が一心に受けていた。. 立. それは、誕生時の描写、男君の幼時の「なまめかし」き姿、後継ぎとして. ‧ 國. 學. の父の働きかけ、さらにそれに応じない男君に対する激しい嘆きから明ら かである。一方女君に対しては、女子としての教育を施す父の姿はなく、. ‧. 女君を「若君」と思う人々をそのように思わせたままにし、男姿となって. y. Nat. io. sit. も激しく嘆くことはなかった。男君に託せなかった期待による失望を慰め. n. al. er. るための存在として、父の視線は女君に向けられてゆく。彼の「もの思ひ」. i n U. v. は、「うつくし」き様である女君を見て「うち笑む」ことで癒されていく. Ch. engchi. のである。癒されかけた彼の「もの思ひ」は、男君・女君の入れ替わりに よって完全に消え、それは喜びにかわる。30. つまり、父左大臣は元々男君を自分の後継ぎとして見なし、育ててきたが、 男君の女らしい素性行動に我が子の立身出世という期待が裏切られた。一方、 女君の優れた才能が発揮し男として世に認められることにつれ、男君に代わっ て父左大臣を慰める役割になってきたというのである。森本氏の所説では、父 30. 森本葉子「 『とりかへばや物語』父左大臣の期待-失望と慰め-」『愛知淑徳大学国語国文』 (23)所収、2000.03、愛知淑徳大学国文学会 p.80 13.

(21) 左大臣のきょうだいへの愛情は利益の有無を考える傾向が窺えるだろう。更に、 2011 年に⑯伊達舞氏が、⑭鈴木論を踏まえ「もし『今とりかへばや』執筆の 意図が<愛情の種々相>を描くことにあったのであれば、せっかく数多く登場 させた親子をこうも一様に断ち切ることはなっかたのではないだろうか。」31 という問題意識を示す。これは鈴木論に反し『今とりかへばや』は個人の愛情 より、寧ろ一家の繁栄を追及することに重点が置かれているとする。この点に ついて、⑯伊達氏は以下のように述べている。 この物語には多くの<愛情>が描かれながらも、<愛情>の成就や<個. 政 治 大. 人>の幸福は追求されておらず、寧ろ<愛情>によって繋がっている親子. 立. を切り離すことによって当初の問題の解消と、新たな成功-大団円を迎え. ‧ 國. 學. る構成となっていることが明らかとなった。この新たな成功とは、社会的 立場の向上や<家>としての繁栄であり、物語の始まりと終わりでは個人. ‧. 的な<愛情>重視の規範から、より集合的な<家>を重視する規範へと巧. sit. y. Nat. みにすり替えられているのである。 『今とりかへばや』の興味は正にこの、. n. al. er. io. 親子愛という<個人>を重視する規範からいかに脱却し、<家>という社. v. 会的集合を重視する規範へとシフトするか、という点にこそあるのではな いだろうか。32. Ch. engchi. i n U. だが、そうした<家>の繁栄はどこまで極めて追求されてきたか、また『今 とりかへばや』に現れた家々33は全部同じ性質のものか否か、と疑問に持って いる。例えば、物語に現れた一心に仏道を追求する吉野の宮は、修行専心を願 い、一切に煩われる人事を避けとうと姉妹に関係する女房たちを全て京へ行か 31. 伊達舞「『今とりかへばや』の<家>への志向-親子間の<愛情>描写から-」 『国文目白』 (50)所収、2011.02、日本女子大学国語国文学会 p.21 32 同前掲注 30、p.30 33 主に、朱雀院家、左大臣家、右大臣家、吉野の宮家を指す。 14.

(22) せる状況においては、伊達氏の言う社会的集合を重視する論理はどう解釈すれ ばよいのか。また物語の結末に帝は退位し、父左大臣は出家、傍役の宰相中将 は結婚せずに憂くて恋しい気持ちで日々を過ごしてゆく、などの設定は、正に 家または集団からの脱出ではないか。さらに<家>に内包している<個人>、 つまり、それぞれの人物は家の繁栄のためにどういう役割を担っているのだろ うか。そして、物語の親子愛がどうして社会的集合にシフトするか、個人的親 子愛は家という社会的集合と何故断ち切らなければならないのか、数々の問題 が残されていると思われる。. 政 治 大. 以上諸説をまとめれば、『今とりかへばや』における親子関係の研究は、早. 立. 期の⑪⑭鈴木氏が論じたように、無私に近づく理想的な愛情であるという論か. ‧ 國. 學. ら、⑮森本氏の、父の愛情が前途有望な子に偏るものであるものに転じ、そし て⑯伊達氏の<個人>を重視する規範から脱却し、<家>という社会的集合を. ‧. 重視する指摘へと展開していくことが分かる。だが、これを如何に主人公きょ. sit. y. Nat. うだいの異装と繋がるか、つまり物語には親が常に子どもたちの決定的な選択. n. al. er. io. を代行し、特に左大臣家は父が二人の子どもの社会的性別において重要な役割. v. を果たし、左大臣の行為はどう解釈すればよいのか。数々の問題が残されてお. Ch. engchi. り、検討する余地があると思われる。. 一.二.二.. i n U. ジェンダーに関する先行研究. 『今とりかへばや』における男女性別の交換は、従来から論議されてきた物 語の設定である。主人公きょうだいが取り替えられたあと、同性結婚・妊娠・ 密通などの事件が次々と語られ、とりわけ同性愛・異性愛に関する描写が筋の 発展につれ交錯し合うことが、前述したように否定的な物語観を招いた所以と も言えよう。だが、物語はきょうだいの交換という表現を通して、何を訴えよ うとしているのかについて、早くきょうだいの交換を単なる「性転換」と視す 15.

(23) ることなく、その本質を分析しようとするのは⑰鈴木氏である。氏は以下のよ うに語っている。. 『とりかへばや』の性転換の特質において大将(女)が男らしく尚侍が 女らしいことは物語の随所に散見するが、いかに大将(女)が男らしくて も、また尚侍(男)が女らしくても、それぞれ本性の女性的特質・男性的 特質が隠し切れないといふ点がなくては、類似半男女と称し得ないのでは あるまいか。つまり、大将(女)・尚侍(男)にそれぞれ本性の通り、女. 政 治 大. 性的特質・男性的特質があってこそいづれも類似半男女と言へると思ふの. 立. である。なぜならば、もし大将(女)から女性的特質が一切消滅してしま. ‧ 國. 學. ひ、尚侍(男)からは男性的特質が全くなくなってしまってゐたならば、 大将(女)は男性に転じ、尚侍(男)は女性に転換したと言はねばならな. ‧. いからである。けれども、物語の事実では決してさうではなくて、大将(女). y. Nat. io. sit. と尚侍(男)は、それぞれあくまでも本来の性的特質が表面に現れてゐる. n. al. er. 人物として描かれてゐる。(中略)結局、二人(筆者注:女君・男君)は. i n U. v. 外面的に女より男へ、また、男より女へ転じたにすぎず、決して真の性転. Ch. engchi. 換を行ったものではない。極言すれば、二人の性転換は、男装・女装とい ふ一種の変装を称すべく二人ともいわゆる類似半男女に属するものと考 へられるわけである。34. 鈴木氏の時代の倫理観のもとでは、男女入れ替わりの問題は「類似半男女」 または「性転換」などの言葉でしか表現されていない。だが、『今とりかへば や』物語世界の社会規範によって構築された「女/男らしい」に関する問題を 34. 鈴木弘道「性転換とその物語」鈴木弘道『平安末期物語論』所収、塙書房、1968.04、p.131 -135 16.

(24) 提起し、この「女/男らしい」という社会規範の枠に嵌められているきょうだ いは、服装という「外面的な」交換を行う。それは、真の性転換ではなく、い わゆる社会規範によって起る「異装」と「意志」の問題であることに気づいて いる。これは『今とりかへばや』研究において、この⑰鈴木の指摘は、早くに ジェンダーの問題として意識していたといえるだろう。 ジェンダーの領域で本格的に検討したのは、⑱片岡利博氏である。氏はジョ ン・マネーの説を踏まえ、次のように述べている。. 政 治 大 人間の性について考える際に、生物学的な意味での性(Sex)と心理的・ 立. ‧ 國. 學. 社会的な意味での性(gender)とを区別し、後者に「性自認」(gender identity)「性役割」(gender role)という概念を導入した、ジョン・. ‧. マネーの所説は、とりかへばや物語の状況設定を考える場合、有効に働く. sit. y. Nat. と思われる。人間社会では性差に対応して種々の社会的役割が割り合てら. io. er. れている。これを「性役割」といい、各個人が自らの性に対応する性役割 を自覚することを「性自認」という。(中略)各個人はそれぞれの生活す. al. n. v i n Ch る社会の中で各自の性に対応する性役割を体験しつつ、 徐々に性自認を確 engchi U. 立してゆく。各自の性に合致しない性役割を体験した場合-言い換えれば、 性自認を誤った場合-には社会的制裁を受けることによって、それぞれの 性自認は補強されてゆく。(中略)この物語において若君と姫君がとりか えたのは、互いの性役割であって、その結果倒錯することになったのは、 「性自認」ではなくて互いの社会的役割である。35. 35. 片岡利博「とりかへばや物語考-その趣向と表現-」 『文林』 (17)所収、1982.12、神戸松 蔭女子学院大学 p.39-41 17.

(25) 片岡氏は社会の制裁こそが、物語に用いられた言葉で言うと「世の常」の制 裁こそが、二人のきょうだいを取り替えた最大な原因であると主張しているこ とが分かる。これに続いて⑲菊地仁氏がさらに、「『とりかへばや物語』にお いては「男(女)とは何か」「男(女)らしさ」それ自体が重大な論点なので あって、今ふうの言い方をするならばジェンダーという問題がせりだしてくる のである」36と説き、世間に規範された社会的役割に符合するために避け難い 「視線」と「演技」の問題を以下のように説明している。. 政 治 大. 『とりかへばや物語』では真贋なる区分そのものがすっかり意味を失って. 立. しまっているのだ。アプリオリな実体の不在とか絶対的な基準の欠如とか. ‧ 國. 學. 称してきた由縁である。こうした規範なき同価関係の世界にあっては、互 換性や相対性を持つが故に可視的な存在こそが全てなのだと言わざるを. ‧. えない。かくして、登場人物たちはいつのまにか他者の視覚に応じた演技. y. Nat. n. al. er. io. 更に、. sit. をしてしまうこととなる。37. Ch. engchi. i n U. v. 女大将(筆者注:女君)が男として演じた役割を模倣し踏襲することに よってのみ男尚侍は男としての実質を補填し確保しえたわけである。つま り『とりかへばや物語』における性別は先天的や生得的ならぬ、演技とい う学習過程を経てこそ初めて獲得され実体化されうるものであることを 示している。38. 36. 菊池仁「『とりかへばや物語』試論-異装・視線・演技-」片野達郎編『日本文芸思潮論』 所収、1991.01、桜楓社 p.171 37 同前掲注 35、p.171 38 同前掲注 35、p.173 18.

(26) と述べる。菊地氏は、『今とりかへばや』世界できょうだいは常に、他者の 視線によって二者一対として扱われるわけで、きょうだいの交換可能は絶対的 な基準が存在しないからだと、まず提起し、かくして可視的な存在は全ての価 値基準になるとする。つまり「視覚的」なものは基準の代わりとなってしまい、 登場人物たちが他者の「視覚」に応じて演技せざるをえなくなるのである。そ して演技という学習過程によって、物語中の「性別」というものが実体化され うることで、男女主人公の「自己の内面というものを形成してゆくという一種 の教養小説」39だと解してある。菊地氏が言う絶対的基準の不在については、. 政 治 大 自らを位置づける共通の物差を失い、似たり寄ったりの人物たちが互いに模倣 立 ⑳神田龍身氏が更に広げ、この現象を「中心が喪失することによって、彼らは. し合」40うと解し、性差の弁別基準は貨幣のように流通している「陳腐なほど. ‧ 國. 學. に典型的」41な外部記号(例えば、「あてに」「もの恥ぢ」「愛敬」「絵」「雛. ‧. 遊び」「鞠」「小弓」)であると唱える。そして、ジェンダー問題に常に携わ. n. al. er. io. sit. y. Nat. ってきた「記号」の問題を取り上げ、以下のように述べている。. i n U. v. 性差なるものも飽くまで相対させることによってしか定立し得ない。記. Ch. engchi. 号の産物だということを如実に意味しているのである。なるほど「もの恥 ぢ」という属性一つをとってもそれ自体としては男のものでも女のもので もないはずである。そもそも物語は「おほかたたゞ同じものと見ゆる」と 二人のことを評していたのであって、元来あるはずもない性差をことさら に仮構していることは明らかなのである。42(下線は筆者による). 39. 同前掲注 35、p.179 神田龍身「物語と分身<ドッペルゲンガー> : 『木幡の時雤』から『とりかへばや』へ」 赤坂憲雄編叢書史層を掘る第 1 巻『方法としての境界』所収、新曜社、1992.01、p.65 41 同前掲注 39 p.76 42 同前掲注 39、p.76 19 40.

(27) 更に神田氏は、物語に描かれた主人公きょうだいの身長・月経・妊娠などの 場面を取り上げ、物語において「セックスは実体で交換不能」43であると述べ た。これは上述した流通する記号としての性に対し、きょうだいの肉体という 解剖学的自然性(セックス)は交換不能で、物語の主題は「記号」と「セックス」 の分裂にあり、性の混乱から本性へ、という流れを一種の性的ビルドゥング ス・ロマンとして扱うことは可能だと主張する。氏は次のように述べている。. この物語は記号としての性を一方で呈示しつつも、セックスの存在を. 政 治 大. それとして否定しているわけではなく、双方の性の分裂とその一致に到る. 立. プロセスにこそ物語の主題性をみようとしているのである。44(下線は筆. ‧ 國. 學. 者による). ‧. Nat. sit. y. 以上⑲⑳両氏は、『今とりかへばや』ジェンダーに関する研究史において、. n. al. er. io. かなり示唆的な観点を与えた。この後、登場人物たちの視線の方向に基づいて. i n U. v. 物語を分析する論文、または記号の分析を中心として物語の裏に潜んだ規範意. Ch. engchi. 21 西本寮子氏が⑲菊地氏の説を 識や権力構造を論述するものが多い。例えば、○. 踏まえ、物語の登場人物においての「見る」/「見られる」関係を検討し、登 場人物(筆者注:主に父左大臣、帝、宰相中将の視線を指す)は常に<かぐや 姫>の美質を備えている女君を中心に見つめ、「二者一対の視線とは、つまる ... ところ同一視ではないのか」45と主張した。つまり、男君を見るとき、その本 性が男性である男君の実体を捉えることなく、目に見える女姿の男君に、見る ことのできない「女姿」の女君を幻視する父も、男装の女君を見、「女にてい 43. 同前掲注 39、p.80 同前掲注 39 p.81 45 西本寮子「 『今とりかへばや』の二重構造」 『広島女子大国文』 (11)所収、1994.09、広島女 子大学国文学会、p.38 20 44.

(28) みじう見まほしう」と想像の中にある女姿の女君の形代として男君を求めたい 宰相中将も、女君の美質を基準とし、二人のきょうだいをみつめているのであ 22 西本氏は「演じ続ける女君-『今とりかへばや』における罪の問 る。ついで○. 題-」46論文で女君は常に「見る」側の視線を意識し、相手の心理を巧みに利 ... ... 用しつつ、物語の視線の作用は「見える」/「見せる」関係になったと説いた。 23 安田真一氏は「『とりかえばや』の交換可能の論理─ジェンダー論の さらに○. 視座から」論文で「見る」/「見られる」関係の主体-客体を入れ替えること ... ..... で、「見せる」/「見せられる」47関係が成り立つはずであり、これによって. 政 治 大. 権力関係が反転するであろうと述べた。. 立. 24 安田真一氏は『今とりかへばや』にお 次に規範意識や権力構造について、○. ‧ 國. 學. けるジェンダーに関わる問題の検討範囲を広げ、主人公きょうだいを含み、物 語に<普通の女>48として描かれた右大臣の娘である四の君、そして吉野の姉妹. ‧. も検討対象として、これら子どもたちの縁談、結婚、あるいは密通によって勘. sit. y. Nat. 等される場面、復縁などの過程では常に父たちの父権行使が介入し、よって安. n. al. er. io. 田氏はこれら父親の介入を<男>という一集合と捉え、<男>が築き上げた性規範. v. 意識はいかに物語世界に作用するかを検討した結果、以下のように解している。. Ch. engchi. i n U. <女>のセクシュアリティー-<女>の性規範が<男>によって作られた ものであることを意味している。制度や規範によって、<男>のセクシュ アリティも作り上げられたものであるが、<男>のセクシュアリティは常. 46. 西本寮子「演じ続ける女君-『今とりかへばや』における罪の問題-」物語研究会編『物語 「女と男」新物語研究3』所収、有精堂、1995.11、p.226 47 安田真一「 『とりかえばや』の交換可能の論理─ジェンダー論の視座から」日本文学協会『日 本文学』 (46-2)所収、1997.02、日本文学協会 p.30 48 安田真一「女〉の世界あるいは〈女〉の不幸─『とりかへばや』四の君をめぐって」 古代 文学研究会編『古代文学第二次』(4)所収、1995.10、古代文学研究会 p.43 21.

(29) に<女>のセクシュアリティを規定し、回収していることを忘れてはなら ない。49. 25 安田氏「〈女〉と〈男〉の世界─『とりかへばや』四の君をめぐっ 次いで○. て」50で、規範の中で女君と四の君という夫婦関係を検討し、物語は新しい男 /女の形態を個人と個人の間に生じる人間/人間関係として作ろうとし、男性 中心主義による差別性を解体し、無化するという反制度的な試みが窺えると、 以下のように説明している。. 立. 政 治 大. ‧ 國. 學. 規範との葛藤の中で、男装をしていることによって<男>として生きて いる女中納言、規範意識を持ち、<普通の女>として生きている四の君。. ‧. 二人の夫婦関係には、二人を追い詰めていくその過程が描かれていると言. Nat. sit. y. ってもいい。四の君は物語の論理から逃走が描かれないことによって、<. n. al. er. io. 男>に回収されているが、女中納言は、<女>からの逃走も<女>への逃. i n U. v. 走も搦め取られて、<男>に回収されていく過程が描かれているのではな. Ch. engchi. いか。それでは物語が反制度的な言説を表出しているところはないのか。 51. (下線は筆者による). 24 論文で論述されてきた「制度」や「規範」は安田氏が前 さらに、安田氏が○ 52 23 「『とりかえばや』の交換可能の論理─ジェンダー論の視座から」 論文 述○. 49. 同上掲注 47、p.50 安田真一「 〈女〉と〈男〉の世界─『とりかへばや』四の君をめぐって」物語研究会 編『物語<女と男>新物語研究3』所収、有精堂、1995.11 51 同上掲注 49、p.243 52 同前掲注 49 22 50.

(30) にも言及した。安田氏が⑳神田氏の説く「陳腐なほどに典型的」53な外部記号 というこの点を踏まえ、社会規範においての権力作用54にも言及した。氏は次 のように述べている。. 自己同一的であるとか、本性に戻るとかいったところで、所詮記号の選 択であり、記号の選択は個人にある。ただし、個人の選択は、社会的規範 によって正しい(望ましい)選択というものが決定されており、社会的規 範に一致していないからこそ、自己同一的ではないということになるとい. 政 治 大. うのであろう。ここに権力作用があることに注意すべきだ。きょうだいが. 立. 「世づかぬ身」として悩むのも、そもそも社会的規範と不一致であるから. ‧ 國. 學. である。そして、その悩みの一番の原因が「異装」であり、外部表象とし ての、記号としてある衣装が一致していれば、自己同一的であると言わん. ‧. ばかりであることが問題とされるべきことなのだ。問題の所在をズラして. y. Nat. n. al. Ch. engchi. er. io. ある。55(下線は筆者による). sit. みよう。常に、意識的、自発的、あるいは主体的なときにも、権力作用が. i n U. v. 23 の論の主体性に対する考察をさらに 上に論じてきた権力作用は安田氏は○ 26 「〈主体性〉を捏造する〈ことば〉と〈身体〉─『とりかへばや』の女 進め○. 53. 同前掲注 39、p.76 権力作用については、安田氏は「ある個人が自発的に行為をしている場合、私たちはそこに 権力が働いているとは考えないことが多いが、私たちの行為を規制している何かがあるはずで ある。社会と個人、個人と個人の関係を考えていくために、今まで権力として捉えられてこな かったものも、権力作用として捉えてみる必要があるはずである。」と定義した。 (同前掲注 48、p.30) 55 同上掲注 46、p.25 23 54.

(31) 君と宰相中将をめぐって」56によって、暴力的な知という考えを出してくる。 氏は以下のように考えている。. 主体性とは、事実確認的な<知>から解放され、なおかつ、それを変容 させるための行為遂行的な自分自身を知ることができないという、<知> の放棄としてしかあり得ないのかもしれない。しかし、女君は、規範とい う暴力的な<知>、性別という支配装置を受け入れた上で逃走=闘争を試 みる。そこから確立された<女>の主体性など、認識論的暴力による、つ. 政 治 大. まり、事実確認的な<知>の暴力による権力作用によって捏造された<主. 立. 体>でしかないのではなかろうか。<女>に期待される役割を放棄するこ. ‧ 國. 學. とによって、女君は宇治を出た。女君は子どもよりも、<個>としての自 分自身を選ぶ。女君は両方を同時に選ぶこと-<個>として生きることと. ‧. 子どもを捨てないこと-ができない。両立を許さない物語社会の論理がこ. y. Nat. io. sit. こに作用しているのだ。「母」は<女>ではない。女性は、社会的な意味. n. al. er. において<女>として生きるか、「母」として 生きるか、選択を迫られ るのだ。57(下線は筆者による). Ch. engchi. i n U. v. 安田氏の考察によって、『今とりかへばや』の権力作用は明晰に出て来、つ まり社会が築きあげられた規範は作中人物の生物的性別(セックス)、心理的 性別(ジェンダー)、また自己同一性までを支配している。もし本性や記号の 選択が社会規範意識と一致しない場合(世づかぬ身)、暴力的な<知>が常に 制裁を加える、というような権力作用が物語の論理に働いていると提示した。 56. 安田真一「 〈主体性〉を捏造する〈ことば〉と〈身体〉─『とりかへばや』の女君と宰相中 将をめぐって」河添房江ほか編『叢書想像する平安文学第 3 巻 言説の制度』所収、2001.05、 勉誠社 57 同上掲注 55、p.179 24.

(32) 以上『今とりかへばや』のジェンダーに関する先行研究をまとめれば、ほぼ I.他者の視線に応じる演技の問題、及び、II.社会規範に関わる権力作用とい う二つ方向がある。しかし、前も提示してきた親子関係は物語において、常に 親が子どもたちの決定的な選択を代行し、特に左大臣家は父が二人の子どもの 社会的性別において重要な役割を果たしている。父や二人の子供の視線や演技、 また権力作用を分析することによって、如何にこれらの場面を深く読み解き解 釈するのか。また、左大臣が子どもを見るとき常に「嘆き」と「笑み」という 矛盾の動作が並存しているのだが、左大臣は何のために嘆くのか、何のために. 政 治 大 っ張り合う権力作用が存在するのかどうか、またこれをどう理解すればいいの 立 笑むのか、これら感情を表わす動作の背後には、人間の意識を支配している引. か。これらの問題について、本論文で検討したい。. ‧ 國. 學. 一.二.三.. 異装に関する先行研究. ‧. sit. y. Nat. 『今とりかへばや』の異装は、ジェンダーの分野にも検討されてきたが、こ. io. al. n. たい。. er. の一節では、『今とりかへばや』異装というモチーフの特異性を中心に検討し. Ch. engchi. i n U. v. 27 武田佐知子氏はまず『今とりかへばや』の異装が男女の社会的成功に導く ○. 特異性を提示した、氏は以下のように示している。. 異性装を主題とした物語は、洋の東西を問わず、数は多い。しかし『と りかへばや』が、他の異性装の物語と際立って異なる点を挙げておくとす れば、この物語は若い異性装の男女のサクセスストーリーであるというこ とではないだろうか。(中略)『とりかえばや』では、姉弟の容貌が似通 っていると言われながら、あくまでも二人の違う人物であるという設定上、 25.

(33) 今一つ鮮明ではなかった男性美と女性美の近似性がますますはっきりし てくる。ここでは至高の男性美と女性美が全く一致していることが、いよ いよ明確であろう。同じ人物のうえに体現される、男性としても女性とし ても最高の美。男としても、そして女にしてみても美しいことこの上ない からこそ、地上に実現される至福の享受者としての資格があった。58(下 線は筆者による). 27 武田氏が異装を通して、 ○ きょうだいたちがユニセックスな美質を持ってい. 政 治 大. ることが確立し、地上に実現される至福の享受者としての資格があった。そし. 立. てこの物語は若い異性装の男女のサクセスストーリーであると解している。だ. ‧ 國. 學. が、物語に女君は異装解除のため、涙に濡れながらも自分の子-宇治の若君- と別れる道を選択し、後に中宮になって宇治の若君と再会する場面に名乗りを. ‧. あげられぬままで終わることは、母親の境遇として「至福の享受者」と言えよ. y. Nat. io. sit. 27 武田氏とかなり異なる視点を提示したのは○ 28 西本寮子氏である。 うか。この○. n. al. er. 氏は『今とりかへばや』の異装を「罪」の問題に帰着し、以下のように述べて いる。. Ch. engchi. i n U. v. 『今とりかへばや』は異装という特異なモチーフを利用して、女の身を もつものに「罪」の問題を灸りだしたといえようか。異装解除によって一 度は消滅したかに見えた「罪」は、別の形をなして依然として残り続ける。 簡単に贖われるものではない根源的な「罪」の存在。女の身ゆえに消えな. 58. 武田佐知子「男装・女装 その日本的特質と衣服制」 、脇田晴子・S.B.ハンレー編『ジェン ダーの日本史(上)-宗教と民俗 身体と性愛』所収、東京大学出版会、1994.11、p.229-233 26.

(34) い「罪」の認識。すべてを「罪」の問題に帰してしまう世界59(下線は筆 者による). 28 西本が、『竹取物語』から『源氏物語』、そして『今とりかへばや』へと ○. 連なる「罪」と「流離」の系譜という視点から出発し、物語は異装を通して「女」 の身を持つ以上、逃れることのできない「罪」の存在を認識することができる と唱える。だが、物語において異装が起こしたそれぞれの葛藤状況を一切「罪」 29 石埜敬子氏が に帰していくことは、不十分なところがあると思われる。更に○. 政 治 大. 『今とりかへばや』の異装について、次のように述べている。. 立. ‧ 國. 學. 『今とりかへばや』作者は、男と女の生活を経験させることによって、 それまでの物語にない魅力的な女性を造形した。前半、さまざまな女の生. ‧. き方を直接に目にした女君は、その経験に基づいで、人に頼るだけではな. sit. y. Nat. い生き方を模索した。(中略)彼女の魅力は、従来の物語の女主人公のよ. io. er. うな弱々しいあえかな女らしさや自己抑圧の美徳と異なり、泣くべきとき には泣き、笑うべきときには笑うといった自由さにある(中略)『今とり. al. n. v i n Ch かへばや』の女君には、男の言うがままに生きることを「世の常」とする engchi U. 閉塞した状況へのひそかな反逆が託されていたのではなかろうか60(下線 は筆者による). 29 石埜氏は女君の自己確立に着目し、『今とりかへばや』の異装は、「世の ○ 30 鈴木泰恵氏は以下のように述べている。 常」への反逆だと指摘する。次いで○. 59 60. 同前掲注 45 同前掲注 7、p.177 27.

(35) 『とりかへばや』は、そうした『源氏』『狭衣』を視野に収め、新たに <かぐや姫>の物語の可能性を提示しつつ、ほぼ同時にかつ徹底的にそれ を打ち砕いていくことで、むしろ、地上にありつづけなければならない< かぐや姫>という存在の絶対の矛盾と、そういう<かぐや姫>による聖な る<かぐや姫>の物語-この世の濁りに穢れぬ<かぐや姫>の物語-そ のものの無意味あるいは根源的不在をこそ宣言したのではあるまいか。地 上にありつづけなければならない<かぐや姫>が、この世の濁りに穢れな がら、あらぬ<月の都>を幻視する『源氏』『狭衣』のような平安の<か. 政 治 大 かしそれら『源氏』 『狭衣』のような<かぐや姫>の物語の限界を見たり、 立 ぐや姫>の物語を、十二分に理解した物語であることを示したうえで、し. それをもはやアナクロニズムとみなして、痛烈に批評してみせるスタンス. ‧ 國. 學. が『とりかへばや』にはあった。異装の聖性とその阻害(限界)をたどり. ‧. 見れば、そのような批評性を掬いちれるのであり、異装とはすなわち批評. n. al. er. io. sit. y. Nat. の重要なエレメントであったといえよう。61(下線は筆者による). i n U. v. 30 鈴木氏が ○ 『今とりかへばや』ではまず女君の超越的主人公性を持つことを、. Ch. engchi. <かぐや姫>の系譜に繋がり、そして物語に現れたジェンダーとセックスのね じれ現象は、女君を「女としての結婚の不可能」状態を強いらせるていくもの で、異装は女君を「非婚の聖女」たらしめるシステムであり、非婚の<かぐや 姫>の聖性が秘められていたと言える。ところが、物語中段に起った宰相中将 との密通・妊娠事件が聖性を阻害するものとなり、物語の早い段階から構築し た非婚の聖女<かぐや姫>聖性を徹底的に踏みにじり否定していく。よって 『今とりかへばや』の異装という設定は「この世の濁りに穢れぬ<かぐや姫>. 61. 鈴木泰恵「『とりかへばや』の異装と聖性-その可能性と限界をめぐって」鈴木泰恵『狭衣 物語/批評』所収、翰林書房、2007.05、p.400 28.

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