第六章 『にごりえ』における酌婦の独白夢遊
6.2 二重的差異を生きる酌婦の「恨み」
作品全体としてみれば、一、二、三の章節では思うこと多いお力の姿が描か れ、お力の「思ふ事」の内実が五、六章で開示する、最大のやま場となる。そ して源七とその生活空間を示す四、七章が挿入され、この二つの系列は終章の 八章にいたって合体し、作品世界を完結する、という構成をとっている。まず、
第五章の「独白夢遊」場面から考察を行いたい。場面は次のようである。盆の 七月十六日の夜、お力は嫖客相手の酒席で請われて端唄をうたう。「我戀は細 谷川の丸木橋わたるにや怕し渡らねば」と唄ったときに、突然何をか思い出し て、店を飛び出した。それに続いてお力の「独白」の叙述の段である。
「お力は一散に家を出て、行かれる物なら此まゝに唐天竺の果までも行 つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の 音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのな い處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲 しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、
一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かゝつて暫時そこ に立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし聲を其まゝ何處と もなく響いて來るに、仕方がない矢張り私も丸木橋をば渡らずばなるま い、父さんも踏かへして落てお仕舞なされ、祖父さんも同じ事であつた といふ、何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば爲る丈の事はしなけ れば死んでも死なれぬのであらう、情ないとても誰れも哀れと思ふてく
れる人はあるまじく、悲しいと言へば商賣がらを嫌ふかと一ト口に言は れて仕舞、ゑゝ何うなりとも勝手になれ、勝手になれ、私には以上考へ たとて私の身の行き方は分らぬなれば、分らぬなりに菊の井のお力を通 してゆかう、人情しらず義理しらずか其樣な事も思ふまい、思ふたとて 何うなる物ぞ、此樣な身で此樣な業體で、此樣な宿世で、何うしたから とて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦勞する丈間違 ひであろ、あゝ陰氣らしい何だとて此樣な處に立つて居るのか、何しに 此樣な處へ出て來たのか、馬鹿らしい氣違じみた、我身ながら分らぬ、
もうもう皈りませうとて横町の闇をば出はなれて」(五・P21-22、下線筆 者)
以上の場面からみると、その時のお力は、自分の人生に向って「これが一生 か、一生がこれか」と問いかけ、主体としての意識が目覚め、突如居直った態 度で従来の生活を捉えなおした。「嘘のありたけ串戲に其日」を送る生活に対 し、「つまらぬ、くだらぬ、面白くない」といい、現実の生活を厭悪し、そこ から「唐天竺の果までも行つて仕舞たい」と思って、偽善の生活から逃げ出そ うとする。娼婦たちは、「自分自身でさえ嫌悪する職業に生きるには、人間性 を喪失した生き方が要請される。彼女たちが罪深く、世間から嫌悪される存在」
35である。語り手は、娼婦が自分の人間性を隠して、本音を他者に対して語る ことができない「惡魔の生れ替りにはあるまじ」人間であることを語っている。
「菊の井のお力とても惡魔の生れ替りにはあるまじ、さる子細あればこ そ此處の流れに落こんで嘘のありたけ串戲に其日を送つて、情は吉野紙 の薄物に、螢の光ぴつかりとする斗、人の涕は百年も我まんして、我ゆ ゑ死ぬる人のありとも御愁傷さまと脇を向くつらさ他處目も養ひつら め、さりとも折ふしは悲しき事恐ろしき事胸にたゝまつて、泣くにも人 目を恥れば二階座敷の床の間に身を投ふして忍び音の憂き涕、これをば 友朋輩にも洩らさじと包むに根性のしつかりした、氣のつよい子といふ 者はあれど、障れば絶ゆる蜘の糸のはかない處を知る人はなかりき」
35 植田一夫「『にごりえ』の世界」『文学研究』49 巻、1979.6、p.45
(五・P21-22)
かもがわ出版、2006.10、p.40-43)
また、磯田光一氏によると、明治十八年四月十九日の「読売新聞」に、「牛込芸妓二十五人 買切で/砲兵工廠職工の花見」という記事がある。「飛鳥山へ花見に出かけ、牛込の芸妓二十 五人を買切で引連れるとは散財」という批判記事であるという。(磯田光一「『にごりえ』の背 景―丸山福山町と日清戦争」『群像日本の作家 3 樋口一葉』、小学館、1992.3、p.204-205)
38 岩見照代氏によると、〈お力が、同じ売春婦であっても吉原の娼婦でもなく、芸者でもなく、
もっと下等な夜鷹のような淫売でもなく、「酌婦」であったことの意味が考えられるように 思う。(略)酌婦はちょうど、娼婦と芸妓との中間的存在の準娼妓と考えられる〉という。
(岩見照代「お力の伝説-『にごりえ』論」新・フェミニズム批評の会編『樋口一葉を読み なおす』、學藝書林、1994.6、p.128-129)
機能している。
共同体から排除された存在として、賎視の対象であるお力は、「私の事をば 鬼々といひまする、まあ其樣な惡者に見えまするかとて、空を見あげてホツと 息をつくさま、堪へかねたる樣子は五音の調子にあらはれぬ」とあるように、
心の苦痛を堪えてきている。そして、その苦痛は「誰れも哀れと思ふてくれる 人はあるまじく、悲しいと言へば商賣がらを嫌ふかと一ト口に言はれて」、誰 にも理解されないのである。生きるために「鬼」を演じなければならないと知 りながら、賎業に勤めている自己の存在意味に強く抵抗意識を持ち出し、その すえ、銘酒屋「菊の井」から出奔して、「独白夢遊」の状態になってしまった。
前田愛氏は「人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も 何もぼうつとして物思ひのない處」が日常的な空間と異質な虚の空間、死の空 間であり、丸木橋を渡ることはその空間に入り込んだ自分を夢想するのである と解している。39前田愛氏の説に対し、今井泰子氏は彼岸が死界ではなく、た だ力は「人の聲も聞えない物の音もしない」死界を恋い、死への願望を持ちな がら、死に魅られる心を現実に引き戻すと読み取る。40しかし、私は両氏の説 に対して、その時のお力は死の想念があるかどうか、という疑問が生じる。お 力は自分の現在と将来に対し「あゝ嫌だ嫌だ嫌だ」と言い、それは現実の状態 を拒絶し、屈服しないような言い方であると思う。死の世界に入り込んだら、
現実を屈服する意味をするのではなかろうか。それに、死の世界に入ることを 望むなら、なぜ「仕方がない」という諦観をしたのか、丸木橋を「渡らずばな るまい」「爲る丈の事はしなければ死んでも死なれぬ」という強い言い方をし たのか、と不審に思われる。おそらく、酌婦としてのお力にとって、源七への 思いを断念することや、自分の身分を変えることは、「仕方がない」ことであ る。生きるために現実の世界に戻るしかないので、丸木橋を渡らなければなら ないのである。彼女にとっての「物思ひのない處」はただの空想の空間であり、
具体的なかたちとして捉えず、現実の規範から逸脱して何らの煩悶のないとこ ろである。明確な目的を予想せず、一時的に苦悶の情緒をはらそうとする言い 方である。それに、橋の彼方に、現状とは異なる何らかの「社会変革への志向」
39 前田愛『樋口一葉の世界〈前田愛著作集第三巻〉』、筑摩書房、1989.9、p.207-208
40 岩橋邦枝・他『群像日本の作家 3 樋口一葉』、小学館、1992.3、p.189
「理想の世界」41のではなく、実はもとの現実の世界へ戻るにすぎないのであ ると思う。いわば、そのとき、菊の井という現実の生活空間から飛び出したお 力は、現実の空間と「物思ひのない處」という理想の空間の間に挟まって立ち 竦んで、行き場のない浮遊する心理状態に陥られるのである。
では、彼女にもとの生活に帰せられる駆使力は何であろうか。「渡らずばな るまい」と決意をした前に彼女は、「渡るにや怕し渡らねば」という幻聴をし た。前田愛氏は、「何處ともなく響いて來る」声は「お力の声ではない」42と 指摘したが、私の彼女の内面から発した声と解釈しておきたい。というのは、
お力の内面には、現実と妥協しないお力と、もう一人の現実に従うお力があり、
この二人の自己の葛藤の中におかれていたからである。しかし、お力はそれが 内なるから発する声であることを自覚しなかった。彼女に決断を下ろさせるの は、父と祖父の一生を想起させることである。石丸晶子氏は、彼女に「菊の井 のお力」を押し通して生きていくよう教唆したのは、他ならぬお力の父祖の霊 であったと指摘した。43むしろ、自分の「身の行き方は分らぬ」お力は、お盆
この二人の自己の葛藤の中におかれていたからである。しかし、お力はそれが 内なるから発する声であることを自覚しなかった。彼女に決断を下ろさせるの は、父と祖父の一生を想起させることである。石丸晶子氏は、彼女に「菊の井 のお力」を押し通して生きていくよう教唆したのは、他ならぬお力の父祖の霊 であったと指摘した。43むしろ、自分の「身の行き方は分らぬ」お力は、お盆