第二章 『軒もる月』における「不貞の女子」の高笑い
2.4 高笑いする〈狂〉の世界への転落
殿との対幻想の空間に自分の感情を見極めているお袖は、「桜町が殿の容貌 も今は飽くまで胸にうかべん、我が良人が所為のをさなきも強いて隠くさじ」
と、「良人が所為のをさなき」を明らかに見出した。「良人が所為のをさなき」
がどこにあるのか書かれていないが、桜町の殿との甘美な恋愛に対して、今宵 より残業時間を増やして、「此子が為の収入を多くせん」いる夫がこつこつと お金を稼ぐ行為を幼さと受け止めているのである。いわば、お袖が求めている のは、感情的な精神生活であり、お金に追い詰められる生活ではない。しかし、
桜町の殿との精神的な対幻想の世界を求めるお袖は、現実世界の拘束から逃れ ることができるのか、「心試し」の答えとは、何であろうか。次に探究してみ る。
「傍には可愛き児の寐姿みゆ。膝の上には、無情の君よ、我れを打捨て 給ふかと、殿の御声ありあり聞えて、外面には良人や戻らん更けたる月 に霜さむし、たとへば我が良人今此処に戻らせ給ふとも、我れは恥かし さに面あかみて此膝なる文を取かくすべきか、恥づるは心の疚ましけれ ばなり、何かは隠くさん。
殿、今もし此処におはしまして、例の辱けなき御詞の数々、さては恨 みに憎くみのそひて御声あらく、さては勿躰なき御命いまを限りとの給 ふとも、我れはこの眼の動かん物か、此胸の騒がんものか、動くは逢見 たき慾よりなり、騒ぐは下に恋しければなり」(p.482)
戸松泉氏によると、お袖は自分にとっての子供、殿、夫との関係
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を具体的に 想いう浮かべることによって己れを対象化しようとするというのである。34お 袖は手紙を読んだ後、傍に寝ている子供を見て、家庭内部に身が置かれている 母親としての自意識、膝の上の手紙の中から殿の声が伝われてきて、殿の恋人 としての自意識、家の外には夫がもうすぐ帰ってくると予想する妻としての意 識、という三種三様の極めて混乱した自意識が生きていて激しく入れ替えって 動転している。しかし、「心試し」の後のお袖は、妻として夫に対して、「我が 良人今此処に戻らせ給ふとも、我れは恥かしさに面あかみて此膝なる文を取か くすべきか、恥づるは心の疚ましければなり、何かは隠くさん」というように、
手紙を隠したり、良心が咎めたりする必要はなく、素直に「我が心は清める」
心理状態で、「不貞の女子」とは思わない。「心試し」の後、殿への恋情をはっ きりと自覚してしまうことになったので、殿に対する感情を確認した自分の心 が夫を欺くことではなく、身体と情念との相克から脱却し、手紙を読むという 行為を正当化する。一方、身体の拘束力から完全に脱却できず、妻としての意 識が作用され、殿に対して、「我れはこの眼の動かん物か、此胸の騒がんもの か、動くは逢見たき慾よりなり、騒ぐは下に恋しければなり」というように、
自分の情念を控えるべきであると言いつけた。その中に葛藤しているお袖は、
「暫時悾惚として其すゝけたる天井を見上げし」になった。戸松泉氏は、「こ の時、袖は想像の中で殿との濃密な関係を極限まで生きていたのである。自分 の意識のなかで殿との愛を完璧に貫いていったのである。幻想としての、〈夢〉
としての世界を生き切っていくことによって、やがて袖の心は、『おぼろなる 胸』『空虚なる胸』と形容される一種の虚脱状態にまで陥っていく。この時の 袖はもはや以前の袖とは違う。〈夢〉を虚構の世界としてしか生きられない空 しさを抱えた袖であった。こうして生の自己完結を果たし、自らの欲望を突き 抜けて、袖はかろうじて〈現実〉の世界に還ってくるのである」と述べている。
35しかし、お袖は、〈現実〉の世界に還ってくることができるのであろうか。
むしろ、幻想の世界と現実の世界の間に佇んでいて、途方に暮れたように「悾 惚」としているしかなかったといってよい。つまり、「心試し」の答えとは、
34 戸松泉「『軒もる月』の生成―小説家一葉の誕生」『相模女子大学紀要』56 巻、1993.3、p.49
35 戸松泉「『軒もる月』の生成―小説家一葉の誕生」『相模女子大学紀要』56 巻、1993.3、p.49
幻想としての世界を生き切っていく自分と、現実の世界を生きていく自分を葛 藤しながら、混沌状態に陥っていくのである。手紙を読むことで殿との恋と向 き合ったお袖は、はっきりと自分の感情を確認したからこそ、かえって身体の 拘束力と激しくせめぎ合うようになり、自分を見失うように「天井を見上げ」、 無力感に抱え込められる。
「心試し」最後のお袖は、「高く笑ひぬ」と三回繰り返し、手紙を焼却した。
なぜ、三回高く笑うか、手紙を焼却したか、『軒もる月』全体の主題を考える 上で、常に問題になった箇所である。最後に、お袖の心がどのように動いてい るかについて、次の場面から検討してみよう。
「女は暫時悾惚として其すゝけたる天井を見上げしが、蘭燈の火かげ薄 き光を遠く投げて、おぼろなる胸にてりかへすやうなるもうら淋しく、
四隣に物おと絶えたるに霜夜の犬の長吠えすごく、寸隙もる風おともな く身に迫りくる寒さもすさまじ、来し方徃く末おもひ忘れて夢路をたど るやう成しが、何物ぞ俄にその空虚なる胸にひゞきたると覚しく、女子 はあたりを見廻して高く笑ひぬ、其身の影を顧り見て高く笑ひぬ、殿、
我良人、我子、これや何者とて高く笑ひぬ」(p.483、下線筆者)
手紙を読むことで内面に葛藤しているお袖は、やがて、「悾惚として」、「来 し方徃く末おもひ忘れて」、「おぼろなる胸」「空虚なる胸」などという心境に なった。その時のお袖は、対幻想の世界、現実の世界から離れ、「夢路をたど るやう成し」ように、自我の世界にたどり着いた。その「淋しく」孤独な心境 は、「蘭燈の火かげ薄き光を遠く投げて」、「四隣に物おと絶えたるに霜夜の犬 の長吠えすごく」、「寸隙もる風おともなく身に迫りくる寒さもすさまじ」とい う周りの風景から映し出されている。自我だけ存在する境地に入るお袖は、「あ たりを見廻し」、自分の「影を顧り見て」、「殿、我良人、我子、これや何者」
といって、現実の関係の中で生きる自分から逸脱した。「高く笑ひぬ」対象は、
現実の生活、規制の規範に拘束される自我、そして自分を拘束する他者である。
その「高く笑ひぬ」は、現実に対する反抗表現であり、自分がすべてを超越し た位置に立ち、心が拘束されない境地になる自己解脱を求める表現でもある。
戸松泉氏は、お袖の〈高笑い〉は、「一種虚無的な匂いのする笑い」であった と解釈した36が、むしろ、自己を対象として凝視するきわめて冷徹な感情表現 であるといえよう。精神的に言えば、周りの世界が解体され、自己を生きると いう意識に駆けられ、自分ひとりしか見えない孤独の世界に立っている精神的 な超脱である。また、橋本のぞみ氏は、お袖の「笑い」は、彼女がいまだ語り うる言葉を奪還できずにいることを物語るものなのであり、つづく手紙の焼却 は、心を無化し、「場所的二元論」を「自らの業として受け入れ」、「塵塚」の なかで生きていくであろう彼女のこれからを暗示するものであると指摘した。
37しかし、「塵塚」のなかで生きていく意志はどこにも見当らない。ただ、お 袖は、心の乱れさ、空しさ、淋しさから解脱しようとすることが読み取られる。
この点について、次の手紙を焼却する場面から検討してみる。
「目の前に散乱れたる文をあげて、やよ殿、今ぞ別れまいらするなりと て、目元に宿れる露もなく、思ひ切りたる決心の色もなく、微笑の面に 手もふるへで、一通二通八九通、残りなく寸断に為し終りて、熾んにも え立つ炭火の中へ打込みつ打込みつ、からは灰にあとも止めず煙りは空 に棚引き消ゆるを、うれしや、我執着も残らざりけるよと打眺むれば、
月やもりくる軒ばに風のおと清し。」(p.483)
お袖は、自己として存在する境地に入ることによって、心の乱れ、空しさ、
淋しさ等から精神的な解脱を求めている。「殿、我良人、我子、これや何者」
といったように、自分がすでに恋人として、妻として、母として存在するので はなく、自我として存在しているのである。だから、殿とのはかなき恋の苦し さにも拘束されたくないように、「やよ殿、今ぞ別れまいらするなり」といっ て、「目元に宿れる露もなく、思ひ切りたる決心の色もなく、微笑の面に手も ふるへで」という冷徹な感情を持って、殿の手紙を火の中に投げ込んでいく。
といったように、自分がすでに恋人として、妻として、母として存在するので はなく、自我として存在しているのである。だから、殿とのはかなき恋の苦し さにも拘束されたくないように、「やよ殿、今ぞ別れまいらするなり」といっ て、「目元に宿れる露もなく、思ひ切りたる決心の色もなく、微笑の面に手も ふるへで」という冷徹な感情を持って、殿の手紙を火の中に投げ込んでいく。