5.2 「悪場所」の金銭支配論理に抵抗する信如
5.3 娼婦的身体の成熟を拒否する美登利
信如が大音寺前の金銭や経済の論理から逸脱する存在に対して、子供達のな かで美登利のお金は魅力で群がっている。「子供中間の女王様」としての彼女 を成り立たせる。一人の少女を女王の座に坐らせる背後に支えているのはいう までもなく姉の存在=吉原の金銭の支配力である。語り手は美登利の出自や性 格を次のように紹介している。
「大黒屋だいこくやの美登利みどりとて生國しやうこくは紀州、言葉の いさゝか訛なまれるも可愛く、第一は切れ離れよき氣象を喜ばぬ人なし、
子供に似合ぬ銀貨入れの重きも道理、姉なる人が全盛の餘波なごり、延 いては遣手新造やりてしんぞが姉への世辭にも、美みいちやん人形をお 買ひなされ、これはほんの手鞠代と、呉れるに恩を着せねば貰ふ身の有 がたくも覺えず、まくはまくは、同級の女生徒二十人に揃ひのごむ鞠を 與へしはおろかの事、馴染の筆やに店ざらしの手遊を買しめて、喜ばせ し事もあり、さりとは日々夜々の散財此歳この身分にて叶ふべきにあら ず、末は何となる身ぞ、兩親ありながら大目に見てあらき詞をかけたる 事も無く、樓の主が大切がる樣子さまも怪しきに」(三・p.408)
美登利は、「姉なる人が全盛の餘波なごり」のおかげで、たくさんのお金を 貰え、贅沢を尽している。陳蘇黔氏のいうように、美登利の「闊達さ」は吉原 の世界から提供された金銭で保証され、いわば将来を見込んだ投資によって贅 沢ぶりが発揮できる女の子である。21語り手は、彼女の年と身分に似合わない、
21 陳蘇黔「『たけくらべ』―美登利の悲劇をめぐって」『論樹』6 巻、1992.9、p.20
「さりとは日々夜々の散財」という金銭感覚の異常さ、その浪費ぶりを「同級 の女生徒二十人に揃ひのごむ鞠を與へしはおろかの事、馴染の筆やに店ざらし の手遊を買しめて」と語っている。「我まゝ」な「嬢さま」に育てられた美登 利は、子供の中ではただ一人、金銭論理の体現者として設定されているのであ る。「二十日はお祭りなれば心一ぱい面白い事をしてと友達のせがむに、趣向 は何なりと各自めいめいに工夫して大勢の好い事が好いでは無いか、幾金いく らでもいゝ私が出すからとて例の通り勘定なしの引受けに、子供中間の女王に よわう樣又とあるまじき惠みは大人よりも利きが早く」(三・p.409、下線筆者)
というように、子供の遊びの世界で美登利がお金の効力によって、子供たちの リーダーとなり、「子供中間の女王様」としての優位に立たれている。地位や 権力は、お金の豊かさで決められているという金銭至上主義が渦巻いていた大 人の世界を薄かに映している。美登利が「我まゝの本性」を発揮でき、「女王 様」として振る舞いをできるのは、吉原の金銭支配論理に確保されたのである。
それに、美登利をめぐる子供たちは、彼女のお金の力を備えっている身体(=
金銭)の前に跪いているのである。その意味で、子供たちの世界で美登利は、
金銭価値によって作り上げられる身体として見なされているのである。
一方で、廓がえりの若者は、美登利の朝湯帰りの頸筋に、三年後を透視して 商品としての「性」に貪欲な視線を注いでいた。美登利の身体を欲望の対象で ある商品としての身体として見ている。そこから女の性の商品価値を肯定して しまう男性たちの性欲の醜さが現される。そして、祭り上げられた少女は、男 たちの贄とされる運命をその肉体に刻印される。ここからみると、美登利は対 等の立場で共に遊ぶ仲間というよりは、むしろ他の子供達たちとは異なる価値 の高い通貨と等しい存在としている。子供たちの世界で少年たちによってただ 一人選び出され、女王の座に祭り上げられた少女は、群れの中で「女王様」と して吉原世界の金銭の支配力を持ちながら、金銭的価値を生み出すという生産 型の身体として見なしている。そして、大人の世界で商品としての身体と見な され、男達に消費される「性の玩具」という存在としている。いわば、女性の 身体は、利益価値に直結しているとき、生産と消費の構造の中で、商品の存在 と一致され、金銭的価値の存在として見なされているのである。
しかし、美登利は、未だ自分のもつ金銭の意味を知らない。「遊女」という
職業が如何なるものか認識せず、表面の華やかさ、姉大巻の繁盛ぶりしか知り えない。遊女本来の仕事、金銭の代償として己の身体を汚されるという仕事を 理解していないので、自分の運命に対してまだ無自覚なのである。美登利が身 体に対する自覚し始めたのは、「何を女郎め頬桁たゝく、姉の跡つぎの乞食め、
手前の相手にはこれが相應だ」と長吉に罵倒され、長吉の投げた泥草履によっ て屈辱を受けてからである。美登利の勝ち気な性格を考えれば、泥草履事件か ら受けた屈辱を心的打撃とした。誇りに思っていた姉のことが蔑視される遊女 であることを知らされたことは、ショックであると同時に、これまで女王様の 如く振る舞いっていたプライドも傷つけたので、徐々に学校へ行かなくなる。
それは、他者から差別される視線を避けるため、女王様としての、自分の姉を 誇りとする自尊心を守るために、学校をやめてしまうのであると考えられる。
一方で、〈遊女〉という仕事の何たるかをまだ知らずが、姉を頂点とする価値 観は学校と相容れないものであったことを知って、他者から軽蔑される「女郎」
という身の賎しさを自覚した。それをきっかけに美登利は徐々に学校から、子 供たちの世界から遠ざかるようになった。その疎外感、口惜しさの情緒を持ち 続けて、大鳥神社の酉の日に至るまでであると考えられる。
酉の日に美登利は誰にも言うことができず、何か思い起こせ、不機嫌の様子 に変わった。なぜ、美登利は変貌したのか、それに関するこれまでの先行論文 は、初潮説、初店説、検査説という大きく分けて三つの説に分かれる。美登利 の変貌は、美登利自身が自らの運命に対し、何を自覚したのかということから 検討したい。次の場面から美登利の「憂き事」を考えてみよう。
「夫れなら何うしてと問はれゝば憂き事さまざま是れは何うでも話しのほ かの包ましさなれば、誰れに打明けいふ筋ならず、物言はずして自づと頬 の赤うなり、さして何とは言はれねども、次第次第に心細き思ひ、すべて 昨日の美登利の身に覺えなかりし思ひをまうけて物の恥かしさ言ふばかり なく、成事ならば薄暗き部屋のうちに誰れとて言葉をかけもせず我が顏な がむる者なしに一人氣まゝの朝夕を經たや、さらば此樣の憂き事ありとも 人目つゝましからずば斯く迄物は思ふまじ、何時までも何時までも人形と 紙雛さまとをあひ手にして飯事許りして居たらば嘸かし嬉しき事ならんを、
ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、最う ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、最う ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、最う ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取る、最う 七月十月、一年も以前へ歸りたい
七月十月、一年も以前へ歸りたい 七月十月、一年も以前へ歸りたい
七月十月、一年も以前へ歸りたいにと老人じみた考へをして、正太の此處 にあるをも思はれず、物いひかければ悉く蹴ちらして、歸つてお呉れ正太 さん、後生だから歸つてお呉れ、お前が居ると私は死んで仕舞ふであらう、
物を言はれると頭痛がする、口を利くと眼がまわる、誰れも誰れも私の處 へ來ては厭やなれば、お前も何卒歸つてと例に似合ぬ愛想づかし、正太は 何故とも得ぞ解きがたく」(十五・p.443-444、下線筆者)
この時点で、美登利は大人になることに嫌悪感を抱き、子供の時間に終わり を悟った。「ゑゝ厭や厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやうに年をば取 る」と、歎き悲しんでいるのは、彼女が「大人」になるのを自覚したのである。
それは、髪形・衣装という外的な変化による「遊女」という職業につくのを意 識させるからであると考えれる。不登校のときから、酉の日に至るこの期間に
〈禿〉として姉女郎の雑用や付き添いが仕事になって、廓の行儀作法を習って いると考えるのが可能である。石井良助氏によると、〈禿はのちに遊女となる
〈禿〉として姉女郎の雑用や付き添いが仕事になって、廓の行儀作法を習って いると考えるのが可能である。石井良助氏によると、〈禿はのちに遊女となる