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2.2 近代明治の社会制度と女性解放 .1 明治民法の家族制度と女性の地位

2.2.3 文明開化における女性解放思想

廃藩置県後に本格的に登場した啓蒙思想家たちは、西洋近代思想の圧倒的影 響をうけそれを後光としながら、日本の文明開化、国民の教化をはかろうとし た。天賦人権論をかかげて封建的不平等と奴隷の精神を批判し、国民に西洋近 代文明を身につけて合理的自立的に奮闘し国家独立に尽すことを訴えた。そし て女性解放についても、天賦人権論にもとづいて儒教的な男尊女卑を批判し、

男女同等と女性教育の重要性を説いたのであった。

啓蒙思想家のなかでも福沢諭吉は男女同等論者の先駆としての名誉を持ち、

また死に至るまで“女性解放”を説き続けた点でも注目される。福沢はすでに一

23 吉見周子「売娼の実態と廃娼運動」『日本女性史④近代』、東京大学出版会、1982.5、p.223

24 ひろたまさき「文明開化と女性解放論」『日本女性史④近代』、東京大学出版会、1982.5、p.9

25 吉見周子「売娼の実態と廃娼運動」『日本女性史④近代』、東京大学出版会、1982.5、p.223-226

八七〇年(明治三)の「中津留別の書」において「人の自由独立」を説き、「人 倫の大本は夫婦なり」として人倫の大本を君臣・父子にみる儒教を批判し、「男 といひ女といひ、等しく天地間の一人にて軽重の別あるべき理なし」と断じ、

一夫多妻の悪習を非難しつつ父母の協力による子供の教育の重要性を力説し た。さらに「かたわ娘」(七二年)ではお歯黒や眉そりを既婚女性の不合理な 因習として痛烈に揶揄し、「学問のすゝめ第八編」(七四年)では、「男も人な り女も人なり。……其効能如何にも同様」と男女同等を主張するとともに、蓄 妾の習を「蓄類」同様の行為と攻撃した。福沢の議論が刺激となったといえよ うか、一八七四年から七五年にかけて、「男女同権ノ論説世上ニ蜂起セリ」(『朝 野新聞』七四年二月)といわれたように新聞雑誌で初めて男女平等の是非が論 議されて、世論をわかせた。時あたかも自由民権論勃興の年である。

森有礼は「妻妾論」を書き、「夫タル者ハ殆ト奴隷モチノ主人ニテ、其ノ妻 タル者ハ恰モ売身ノ奴隷ニ異ナラス」と封建時代の妻の地位を暴露・批判し、

蓄妾の弊害を説きつつ、「夫婦ノ間其ノ権利義務」の行わるべきを主張して「婚 姻律案」を提案した。また中村正直は「善良ナル母ヲ造ル説」で立派な国民を 造るには善き母が不可欠であり善き母を造るには女子教育が大切だと説き、津 田真道は「廃娼論」で「娼妓アル故ニ女子ヲ売買スル悪風アリ」と指摘し、「独 立ノ国体ヲ維持セン」がための廃娼を主張した。

啓蒙思想家たちの儒教的男尊女卑への批判と男女同等論は、それが日本の歴 史において初めて公然と論ぜられたものであり、何はともあれそれらは女性解 放の近代の第一歩であったことは否定できないのである。しかし彼らの論じた 男女同等論・女子教育論・一夫一婦論・廃娼論等の内容は、女性の政治・経済・

社会における自立的活動をすすめるものは一つもなく、基本的には開化政策の もとでの女性の開化、つまりは文明的な良妻賢母の要請を求めるものなのであ った。女性の役割は基本的に妻か母としてであり、一人前の人格を持った社会 人としてではなかった。

しかも啓蒙思想家たちの啓蒙の論理は、西洋文明を身につけて一身独立をは かれというにあり、それは貴賎貧富の別なく要請されたのであった。しかし、

現実には貧民は無学文盲で西洋文明を身につける手立てを持ち得ないし、それ ゆえ一身独立できない存在として蔑視・疎外される構造にあった。貧民と全く

同じではないが女性にあっても、文明的な良妻賢母として西洋文明の教養を身 につけたとしても、その幸運な彼女達でさえも社会人として一身独立すること を期待されたのではなかったし、そのための女子教育が主張されたわけでなか った。すなわち、貧民は経済によって疎外され、女性は家の内に閉じこめられ ることによって疎外され、文明社会における一人前の人間からはともに排除さ れることになる。26

自由民権運動の高揚とともに八〇年代に入ると女性自身が自らの解放を求 めて立ち上がり始める。岸田俊子(号湘煙)は、早くから、明治一五年四月一 日の大阪臨時政談演説会での初演説「婦女の道」において、既に、いわゆる三 従の教えに基づく〈婦徳〉を批判し、女が自立的に生きる発想を培うことので きような新しい女子教育の重要性を訴え、翌年発行の『函入娘 婚姻之不完全』

(明一六・十)では、〈娘〉を窮屈で不自由な〈函〉に入れようとする〈父母〉

の教育のあり方を批判するとともに、封建的な結婚生活を甘受している女性た ちに警鐘を鳴らしている。そして景山英子や富井於莵らは彼女の影響を受けて、

女流民権家として活動するようになるのである。27しかし、彼女は男尊女卑批 判は厳しかったが、女性の自立については観念的で具体的方策を提示しえず、

女性の社会的活動のイメージは展開しなかった。28

民権運動の挫折後、改良主義的な女性の地位向上の主張が登場する。その代 表的な論客が八五年創刊の『女学雑誌』を主宰する巌本善治であった。巌本は

「平民的の基督教」をかかげ、政府の専制や貴族主義を批判すると共に民権家 たちの主張と実生活との矛盾をもつき、その政治主義を排して、日常生活のな かにキリスト教の道徳を実践せしめて「欧米開化の良習」を植えつけようとし た。福沢や森が性急に国家独立のために良妻賢母主義を唱えようとしたに対し て、巌本の主張は平民的家庭そのものの実現をめざす良妻賢母主義である点に 大きな前進があったといえよう。しかし、また、民権論の中からは芽生えかけ ていた女性の社会的運動の主張(参政権など)までも、「男は外、女は内」の

26 ひろたまさき「文明開化と女性解放論」『日本女性史④近代』東京大学出版会、1982.5、p.14-20

27 林正子「清水紫琴の〈女権〉と〈恋愛〉―明治の〈女文学者〉、その誕生の軌跡」『岐阜大 学国語国文学』巻号 23、1996.3、p.26

28 ひろたまさき「文明開化と女性解放論」『日本女性史④近代』、東京大学出版会、1982.5、

p.22-24)

分業論で抑えることになり、女性を一個の人間として自立することの問題を検 討しようとしなかった点に、彼の良妻賢母主義の大きな限界があった。

これらに対して植木枝盛は、民権運動の挫折を糧として女性解放論を深めて いった数少ない民権論者の一人であった。巌本が「男は外、女は内」を近代的 な分業論で合理化するにたいし、植木は福沢からうけついだ原子論的な社会観 を徹底させて男性も女性も独立した一個の人格とみなすところから出発する。

したがって彼は、第一に教育、第二に女権拡張、第三に職業進取、第四に社会 交際、第五に自尊自重の精神を「世の婦女達に勧む」(八六年)ことになるの である。彼は良妻賢母主義を乗り越え、女子絵を常に可能性を潜在させた存在 であり社会的に活動すべき存在だとみる社会進出主義をかかげることにおい て、この時期の女性解放論の頂点を示すこととなったのである。しかし、おそ らく、こうした植木の解放論は彼の独身的生活と深く関係しているように思わ れる。民衆女性にとって家事・育児の問題がどれほど大きな課題であるかとい うことに、植木が全く無知であったことを物語るものでもあった。29

つまり、文明開化期に出現した近代女性解放論は、良妻賢母主義と社会進出 主義の二つの方向をもったが、両者は互いに相手の問題を自己に組み込むこと ができず、したがって女性解放の課題を全体的に捉えることができず、それぞ れ分裂的に二つの方向が深められていくことになる。そして、それは、家父長 的秩序を解体した後の新たなる秩序構想の未成立とあらたなる秩序のための 生産力をも含めた社会的諸条件の検討の未成熟とに深く関わっている。それに しても、文明開化的な良妻賢母主義や社会進出主義は、せいぜいが中産階級ま でのものであって、圧倒的大部分を占める底辺民衆にとっては、この段階では 無縁のものであった。底辺民衆女性もそうした文明的女性解放論に触発される 部分もあったろうが、大部分にとっては縁のない、自分たちの存在を蔑視する ところのものとして受け止めれられた。底辺民衆女性は、民衆宗教の教祖たち に見られたように通俗道徳的な規範のもとに自己を律しつつ文明の威力から

つまり、文明開化期に出現した近代女性解放論は、良妻賢母主義と社会進出 主義の二つの方向をもったが、両者は互いに相手の問題を自己に組み込むこと ができず、したがって女性解放の課題を全体的に捉えることができず、それぞ れ分裂的に二つの方向が深められていくことになる。そして、それは、家父長 的秩序を解体した後の新たなる秩序構想の未成立とあらたなる秩序のための 生産力をも含めた社会的諸条件の検討の未成熟とに深く関わっている。それに しても、文明開化的な良妻賢母主義や社会進出主義は、せいぜいが中産階級ま でのものであって、圧倒的大部分を占める底辺民衆にとっては、この段階では 無縁のものであった。底辺民衆女性もそうした文明的女性解放論に触発される 部分もあったろうが、大部分にとっては縁のない、自分たちの存在を蔑視する ところのものとして受け止めれられた。底辺民衆女性は、民衆宗教の教祖たち に見られたように通俗道徳的な規範のもとに自己を律しつつ文明の威力から