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商品化される悪女の身体を生きる美尾の物語

第四章 『われから』における妻の逸脱する身体性

4.2 商品化される悪女の身体を生きる美尾の物語

全十三節からなるこの小説はお町を描いた作品なのに、三節から八節までの 六節を裂いてお町の母美尾の物語となっている。父与四郎は大蔵省の月給八円 の下級職員で、幼馴染で美貌の妻美尾と貧しいながら幸せに暮らしていた。美 尾は貧しいながら日々の生活に安んじていたようであるが、前の年の花見に華 族さま一行の花やかな姿を見て以来現在の生活を嘆き、夫に出世を求めるよう になっていった。梅の季節の土曜日の午後、与四郎が帰宅すると隣家の妻から、

美尾は実家からの迎えだという綺麗な車が来て出かけたと告げられる。美尾は 翌日になって帰宅し、母が急病という知らせで実家に行き、今日も帰りが遅く なってしまってとお詫びる。実家からの迎えという車が来た頃から実家へ帰る ことが多くなり、帰れば忍びやかに吐息をつく。夫が問えば気分が悪く食欲不 振という。そのうち妊娠とわかったが、そのころから美尾の母は与四郎にもう 少し収入の良い仕事に就くように勧め、辛かろうが、美尾は子ぐるみ預かるか

ら独身になってひとかどの働きをしてをして人並みの生活ができるようにと 勧めるようになる。十月十五日に娘が誕生し、それから一ヵ月後、残業を終え て帰宅した与四郎は美尾の家出を知った。ところが、それまで貧乏暮しに特別 不満も抱いていなかった美尾が、夫与四郎と生まれたばかりの娘お町を捨てて 出奔するようになるのは、なぜだろうか。次のような場面から考察してみよう。

「浮世に鏡といふ物のなくば、我が妍きも醜きも知らで、分に安じたる思 ひ、九尺二間に楊貴妃小町を隠くして、美色の前だれ掛奥床しうて過ぎぬ べし、萬づに淡々しき女子心を來て揺する様な人の賞め詞に、思はず赫と 上氣して、咋日までは打すてし髪の毛つやらしう結びあげ、端折かがみ取 上げて見れば、いかう眉毛も生えつゞきぬ、隣より剃刀をかりて顔をこし らゆる心、そもそも見て呉れの浮氣に成りて、襦絆の袖も欲しう、半天の 襟の觀光が糸ばかりに成しを淋しがる思ひ、與四郎が妻の美尾とても、一 つは世間の持上しなり、身分は高からずとも誠ある良人の情心うれしく、

六疊、四疊二間の家を、金殿とも玉樓とも心得て、いつぞや四丁目の薬師 様にて買ふて貰ひし洋銀の指輪を大事らしう白魚のやうな指にはめ、馬爪 のさし櫛も世にある人の本甲ほどには嬉しがりし物なれども、見る人毎に 賞めそやして、これほどの容貌を埋れ木とは可惜しいもの、出て居る人で 有うなら恐らく島原切つての美人、比べ物はあるまいとて口に税が出ねば 我おもしろに人の女房を評したてる白痴もあり、豆腐かふとて岡持さげて 表へ出れば、通りすがりの若い輩に振かへられて、惜しい女に服粧が悪い など哄然と笑はれる、思へば綿銘仙の糸の寄りしに色の褪めたる紫めりん すの幅挾き帯、八圓どりの等外が妻としては是れより以上に粧はるべきな らねども、若き心には情なく箍のゆるびし岡持に豆腐の露のしたゝるより も不覺に袖をやしぼりけん」(四・p.178-179)

これは美尾が、通りすがりの男達の言葉によって自らの美貌を意識し始め、

それと比較して自分の置かれている境遇を情けなく思い始める場面である。

「これほどの容貌を埋れ木とは可惜しいもの、出て居る人で有うなら恐らく島 原切つての美人、比べ物はあるまい」とか、「惜しい女に服粧が悪い」などと

道行く人々に言われ、自己の美貌を自覚させられ、そして、結婚四年目の春以 後、おめかしして夫婦連れたって花見に出かけた折、桜雲台近くで「何処の華 族様」か五六輌の車を連れた一行に出会い、そこに贅の限りを尽した女性を見 て美尾の心が激しく揺さぶられる。豪華に着飾った華族様の一行に出会ったこ とで、「華族様」と自分との「服粧」が比較されてみじめさが一挙に襲ったの である。以後の美尾に、「はかなき夢に心の狂ひ」が生まれ、「空虚」になっ て「物の手につかぬ」ようになった。つまり、他者の視線や言葉によって、自 分の美貌と身なりのみすぼらしさとの不釣合いを自覚し始めた。容貌と身なり との落差に胸を痛め、やがて、自分の美貌に釣り合うものを欲しく、自らを美 しく飾ることを求めるというような女性自らが充実感を得ようとする欲望す る自我に目覚めた。重松恵子氏の言うように、自己意識の目覚めは、現在の状 況に対する異和を生じさせていく。即ち、それは美尾の中に新たな価値基準、

判断を生じさせることでもあり、そのことがやがて別の可能性を求めることに 繋がっていくわけである。16したがって、美尾が出奔するのは、他人の視線を きっかけに、「これほどの容貌を埋れ木とは可惜しいもの」「島原切つての美 人、比べ物はあるまい」といわれるように、出世には交換価値の高い美を備え ている女としての「身の価値」17を意識しはじめ、それに見合うものを求める ようになるのである。美尾の家庭は、余裕があるとはいえないものの、食うに も困るというほどの切迫感はないという状態である。18だが、美尾の中に新た な価値基準を生じさせるゆえ、それまで特に何も感じなかった日常の貧しい暮 しに満足できなくなってゆく、現状とは異なる自分の生の可能性を思い描くよ うになった。こうして美尾物語は、豊かな生活を求めて、欲望に憑かれてゆく

「心の狂ひ」の女に変貌し、自分一人の欲望を満足するために家族を捨てて、

16 重松恵子「樋口一葉『われから』論―母娘の物語が指向するもの」『近代文学論集』18 巻、

1992.11、p.27

17 重松恵子氏は、商品化している女性の身体について、当時の女たちの〈出世〉には交換価 値の高い〈美〉を備えていることが必須であったし、また、女たちにとってみれば〈美〉こそ 自己の可能性を切り開く唯一の道でもあったと解釈している。(重松恵子「樋口一葉『われか ら』論―母娘の物語が指向するもの」『近代文学論集』18 巻、1992.11、p.25)

18 峯村至津子氏によると、与四郎のような役所勤めは、たとえ八円でも月々定まった月給が あることから、家族がよほど増えない限り、貧しいながらも小さな安定を得ているといえる。

実際、与四郎も同僚と酒の付き合いもしており(三章)、夫婦揃って花見に出かけたりもして いる(四章)ように、慎ましやかな暮しの中で、ささやかな楽しみの時も持っているという。

(峯村至津子『一葉文学の研究』、岩波書店、2006.3、p.197)

不義の女、出奔する女を描き出す、というように語られているように見える。

では、なぜ、美尾は人妻でありながら、自らの心に従って出奔するか。それは、

美尾と与四郎の日常生活を描いた三章で美尾が夫のために尽すといった気持 ちは希薄であるからであると考えられる。

「役處がへりの竹の皮、人にはしたゝれるほど濕つぽき姿と後指さゝれ ながら、妻や待つらん夕烏の聲に二人とも膳の菜の物を買ふて來るやら、

朝の出がけに水瓶の底を掃除して、一日手桶を持たせぬほどの汲込み、

貴郎お晝だきで御座いますと言へば、おいと答へて米かし桶に量り出す ほどの惚ろさ」(三・p.176)

というように、家事をするのは与四郎の方である。与四郎は現代の理想の夫 像を先取りしたかのように、妻を愛しながら、進んで家事を引き受ける新しさ を備えた夫として造型されている。一方、妻としての美尾は夫に尽させる女で ある。峯村至津子氏によると、当時の最下層と位置づけられるような貧家の妻 たちが、家事や子育ての合間に手内職をして家計を支えている、その暮らしぶ りの一端を美尾の日常生活から見られないというのである。19このように、美 尾は当時の夫を仕え、家事や子育てをするという理想の妻像から逸脱する女と して現してくるのである。いわば、美尾は家のために身を尽せず、〈母〉や〈妻〉

の役割を果たす意識も持たず、世俗の倫理を捨てて、既成道徳に真向から抗っ てゆく女性性を越境する女性である。子をめぐる家族の幻想を持たず、母性を 切り離し、例の作品に見かけない逸脱する女として造型されている。『十三夜』

のお関のように、家のために、子のために、忍従生活を生き通す女性ではない。

そして、『にごりえ』のお初のように、夫のために、家のために、懸命に尽す

そして、『にごりえ』のお初のように、夫のために、家のために、懸命に尽す