藤井正人氏氏によると、江戸期の名残を尚とどめた明治社会において、近代 的自我にめざめて来る時期といっても、女子にのみきびしい明治の桎梏に懐疑 を抱き始めた一葉も矢張り初期、中期は女卑の風潮をあるがままに受けとめて 弱い女の世界を描いているというのである。18また、氏は次のように論じてい る。
「一葉の心底には此の不合理に対する積憤が沸々とたぎり立ってはいた が之に対して女の戦いを宣するには未だ機が熟していなかった。明治二九 年四月『たけくらべ』の一括再掲に依り一葉の文名は極まり、詩人として の地位は牢固たるものとなる。既成概念の〈女らしさ〉の無条件肯定より、
懐疑へ、更に進んで之への反抗に移行する。作品から見れば、五月発表さ れた『われから』には瞠目に値いするこの転換がうかがわれ、少し先に書 かれた未完の小説『うらむらさき』に至っては女の反逆に迄も筆は進んで いる。」19
つまり、前期に描かれている弱い女性に対して、後期に描かれている女性は、
反抗意識に目覚め、徐々に行動に移行するのである。一葉後期の作品の中に現 れる女性像について、相馬御風氏は次のように述べている。
18 藤井正人氏は、「『闇桜』は論ずるに足らざるも、『花ごもり』のお新はその典型、又『十三 夜』のお関の最終的屈服も之に他ならぬものである」と指摘した。(藤井正人「樋口一葉-生 と精神のはざまにて-」『国文学解釈と鑑賞』48 巻 7 号、1983.4、p.86)
19 藤井正人「樋口一葉-生と精神のはざまにて-」『国文学解釈と鑑賞』48 巻 7 号、1983.4、
p.86-87
「一葉後期の作に現れる女性が、美しくばかり行くものではなく、さま ざまの困難と戦い、さまざまの人情を経験するに随て、彼の心のそこに 加わって来たものは強い力を持ち、悲しい運命に泣き又は戦った果に起 り来る、強い凄味のある女の力-世間にはその強い凄味を帯びた反抗的 な力を以て、世と戦い運命と戦う哀れなる者であり、「涙の後の女子心」
(『やみ夜』明 27.7)の怖ろしい、凄い女心が、一葉の後期の作に、最も 力強く、最も色濃く描かれ、今日から見て吾々が彼の二大傑作となす『に ごりえ』『わかれ道』の二篇も、共にその怖ろしき「涙の後の女子心」を 描いたものに他ならない。」20
それに関して、藪禎子氏は一葉後期の作品の底にうごめいていたものを「魔」
ないし「狂」という語で捉えている。藪禎子氏は次のように指摘している。
「一葉の主要な作品の女達は、ほとんど常に「恐ろしき女」を自分の内 に抱え込んで、閉ざされた状況の中にじっと身を据えながら、そこでひ たすら自分の夢と志を温め、やがて噴出せずにはいられない所に立って、
一見何気ない平常の顔の陰に、いつでもどうでもなりうる自分を置いて いる。『にごりえ』(明 28.9)『うつせみ』(明 28.8)を含むこの時期、一 葉が解放への夢を、特に情念の世界において膨らませつつあった。だが、
その夢が死とか狂とかを代償とする形でしか成り立たなかった。富とか 地位への憧れは不如意と屈辱に泣きつつある挫折の中で、一葉には、女 性の性が次第に明瞭に見えてきて、徐々に、肉体による解放の可能性が 探られようとしていた。」21
また、女性の解放への夢が死や狂によって表現することについて、吉田裕氏
20 相馬御風「樋口一葉論」『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集〈現代日本文学大系 5〉』、筑 摩書房、1972.5、p.427
21 藪禎子氏はによると、「『にごりえ』のお力は、そのちょうど交差するところに立っている と言えるし、妾の道を選ぶ『わかれ道』のお京は、上昇志向がそのまま肉体幻想として転化せ ざるを得なくなった跡を、象徴的に語るものだとも言えるだろう。『たけくらべ』の美登利の、
初潮による決定的変化は、その門口に立った者の一種のおののきとも読みとれるのである。『う らむらさき』『われから』など、一葉晩年の作品は、これを更に明確に追う形で成立している。」 という。(藪禎子『透谷・藤村・一葉』、明治書院、1991.7、p.323-325)
も「狂」という視点を持ち込み、作品の中にあらわれる女性像を「出奔する狂 女」と称して、明治二十六年一月の『雪の日』を発端として、二十七年の『や み夜』『軒もる月』を経て、出奔する女の像は狂気を孕みながら、二十八年の
『にごりえ』から二十九年の最後の作品となった『われから』にいたるまで、
一葉が自分の内に感知した物狂おしさは「人生の諸可能性」の予感であったよ うに考えている。22その「出奔する狂女」とは、あらゆるエネルギーを解き放 ち、かつ自らをも解き放つ存在なのである。つまり、日常の世界から逸脱して、
生の可能性を探っていく女性たちである。その点について、滝藤満義氏は、「作 家一葉の内面を領した文学的テーマの一つは、恋における解脱のそれであり、
そして恋における悟り、悟道の追求という方向性を持っている」と述べている。
23氏は『軒もる月』(明 28.4)『ゆく雲』(明 28.5)『うつせみ』(明 28.8)とい った作品を検討した。圧迫された女性原理は、出口を求めて次の作品を求めて やまなく、『軒もる月』の直接的な反動は、明治二十九年の『裏紫』という未 完の不倫小説となって現れ、『ゆく雲』の直接の反動は『うつせみ』の狂女物 になって現れる。悟りと狂気は一葉の小説の構造を支え、これら境界のあいま いな紙一重の「非日常の構造」を、一葉は好んで描いた作家だったと思ってい る。24
また、西尾能仁氏は人間解放という視点を持ち、一葉が初期の悲恋小説から、
やがて次第に解放小説へと発展していったと指摘した。氏によると、女を悲恋 に泣かせるのは狂った金権の非人間性と見たのであり、男性の横暴、男性の作 った制度や道徳が女性の人権を阻んでいることへの思想的自覚にまで至って いなかったものの、一葉は悲恋小説を書き続けるその実践の中から、内発的に その根源に気付きはじめ次第に女の人間解放へと発展していったのであって、
彼女の悲恋小説はそのうちに内蔵している社会批判とともに解放思想形成へ
22 狂気について、吉田裕氏は次のように述べている。「狂気とは何か。人生の諸可能性を啓示 する物語は、必ず狂乱の瞬間を招くという訳ではないが、少くともそれを呼び求める。この瞬 間がなければ著者はこれらの過度なほどの可能性に対して盲目だということになるだろうと バタイユは言っている。この〈人生の諸可能性〉の予感が作品の上でかたちを取りはじめるに は、今しばらくの時間を必要とする。」(吉田裕「一葉試論-出奔する狂女たち」『文学』56 巻 7 号、1988.7、p.35-45)
23 滝藤満義「『ゆく雲』から『うつせみ』へ-一葉における小説の発想-」『国語と国文学』
67 巻 10 号 1990.10、p.37-45
24 滝藤満義「『ゆく雲』から『うつせみ』へ-一葉における小説の発想-」『国語と国文学』
67 巻 10 号 1990.10、p.45
の必然的な過程でもあったのであるというのである。25つまり、一葉の思想が 近代的自覚に伴って導かれていったゆえに、人生社会一般に対する観察批判が 含まれる作品を通して、次第に女性の人間解放の問題意識に目覚め、一葉文学 の基底をなしているのである。
こうして、一葉小説の女性の内面には情念の解放や生の解放、人間解放を求 めていこうとする強烈な意識を持ち、反抗的な力を持ち合わせているように形 象されることが分かる。しかし、人間的な解放を目指したところの反抗行為と して、なぜその多くが死や悟り、狂気などによって表現しているのであろうか。
女性たちの対面している社会の限界性、あるいは自分自身の限界性は何であろ うか。さらに、それらの限界性を突破し、人間解放の可能性を求めていくこと があるかどうか、といった問題を更に掘り下げて、追究してみたい。
25 西尾能仁『一葉・明治の新しい女-思想と文学』、有斐閣、1983.11、p.39-40